「最近、ゆっくり話をしたのはいつですか?」
2026年9月、東京・大田区役所で開催された生涯学習に関する講演会。その冒頭で、明治学院大学社会学部教授の坂口緑さんは参加者にそう問いかけた。坂口さんは、生涯学習や市民社会を専門に研究し、デンマークの成人教育やボランティア、多文化共生についても長く研究してきた社会学者だ。
「どうでしょう。頭に浮かびましたか?それでは、近くの人とそのときのことを話してみてください」
会場のあちこちで会話が始まる。筆者もそれらしく話し始めた。しかし、どこか居心地の悪さを感じていた。正直に言えば、その問いにうまく答えられなかったからだ。
最後に誰かと「ゆっくり話した」のは、いつだっただろう。思い返そうとしても、はっきりした場面が浮かばない。もちろん、人と話していないわけではない。会議もある。メッセージも送り合う。イベントへ行けば、初対面の人とも話す。家に帰れば妻とも言葉を交わす。ただ、それらの多くは、何かを決めるための会話であり、何かを終わらせるための会話だったように思う。
私たちはいつから、「ただ話す」時間を失ったのだろうか。
坂口さんの問いは、単なるアイスブレイクではなかった。この日の講演でさらに言及されたのが、デンマークの神学者ハル・コックだった。コックは、デモクラシーを政治制度だけではなく、「思考様式であり生活形式」であると考えた。選挙や議会だけではなく、自分で考え、他者の話に耳を傾ける。そうした日常の営みそのものが、民主主義を支えるという考え方だ。
そして後日、ふたたび明治学院大学を訪れ、坂口さんにあらためて90分ほど話を聞いた。取材でも坂口さんの話を聞くうちに、最初の問いが、生涯学習から暮らしや社会のあり方へとつながっていることが見えてきた。
速さと効率を求める社会のなかで、私たちはどうすれば、自分で考え、他者と関わり、自分の人生や社会に働きかける感覚を失わずにいられるのか。坂口さんとの対話を通して、他者や社会から影響を受けながらも、自分なりに応答し、働きかけていく力である「エージェンシー」をどう取り戻せるのか。そして、それが「暮らしのデモクラシー」とどうつながるのかを考えてみたい。
加速する社会で、私たちは「応答する力」を失っていないか
講演会で坂口さんが投げかけた「最近、ゆっくり話をしたのはいつですか」という問いは、ドイツの社会学者ハルトムート・ローザの議論を意識したものだった。
ローザは著書『加速する社会――近代における時間構造の変容』のなかで、現代人は効率化や高速化を余儀なくされ、世界との深いつながりを失いつつあると指摘した。非同期化のなかでは、わたしたちの人生も、一貫したプロジェクトという性格を失い、偶発性、偶然性のなかで断片的な判断を繰り返すものとなってしまう。テクノロジーの進展により、生活は便利になり、選択肢は増えた。しかし、そのことが人生の充実や自由に直結しているわけではない。
坂口さんは、その議論をこう読み解く。
坂口さん「ローザはこの現代的な疎外状況に対し『内なるエージェンシーを取り戻す』ことが大切だと言っています。私たちはどうしても、もっと速く、もっと効率的にと考えがちですよね。でも、そのなかで世界との関わり方まで効率化してしまっているのかもしれません」
「エージェンシー(agency)」は、しばしば「行為主体性」と訳される。ただし、それは「誰にも影響されず、自分一人ですべてを決める力」という意味ではない。
坂口さん「主体的であることって、自分だけで何でも決めることではないと思うんです。人や社会から影響を受けながら、自分もまた働きかける。その往復のなかで生まれるものがある」
この言葉は、ローザが後に提唱した「レゾナンス(共鳴)」という考え方にもつながっている。
私たちは世界に一方的に働きかけるだけでなく、世界からも働きかけられている。誰かとの会話に揺さぶられたり、本を読んでそれまでの価値観が変わったり、偶然訪れた場所が、その後の人生に思いがけない影響を与えることもある。重要なのは、そうした働きかけに応答できる状態にあることだ。
坂口さん「だから私は、『ゆっくり話す』ことを大事にしたいんです。効率だけを考えたら、結論を出すための会話のほうがいいのかもしれない。でも、人と人が本当に響き合うのは、むしろそうじゃない時間だったりしますよね。先日の生涯学習講演会も、『そこから始まるものがある』ことを示唆したくて、あんな始め方にしたんです」
ゆっくり話すことは、効率的な行為ではない。けれども、その時間のなかで思いもよらない気づきが生まれたり、自分でも気づかなかった考えが言葉になったりする。
私たちの日常で失われつつあるのは時間そのものではないのかもしれない。自分や他者、そして世界と響き合うための余白。その余白のなかでこそ、エージェンシーは育まれていくのではないだろうか。
ただし、その余白を持てるかどうかは、個人の意思だけでは決まらない。働き方や経済状況、学びや人と出会える場の有無など、私たちを取り巻く社会の条件にも左右される。
余白のなかで、私たちは何を選ぶのか
私たちのエージェンシーを揺るがすのは、忙しさだけではない。
「本当に大丈夫?」「普通はみんなこうしているよ」「その選択、割に合わないんじゃない?」「タイパもコスパも悪そう」
現代社会には、私たちの選択に絶えず意見する声があふれている。SNSを開けば、そんな言葉はいくらでも目に入る。もちろん、そのすべてが悪意から発せられるわけではない。むしろ「あなたのためを思って」と差し出される言葉も多い。しかし坂口さんは、そうした言葉を受け取るときに大切な視点があると言う。
坂口さん「『心配だから言うんだよ』という人はいますよね。でも、本当に心配している人と、ただ意見を言っているだけの人は違うと思うんです」
坂口さんが語るのは、「本気で心配すること」と、意見を伝えることの違いだ。心配の言葉が、その場で意見を伝えるだけで終わることもある。一方で、本気の心配には行動が伴う。時間をつくって話を聞く。必要な情報を調べる。誰かを紹介する。困ったときには実際に手を差し伸べる。
坂口さん「本気で心配してくれている人は、実際に何かしてくれるんですよね。向き合うべきはそういう人の声ですよね」
誰の言葉に耳を傾けるのか。それは、自分の人生を誰に委ねるのかという問いでもある。

エージェンシーとレゾナンスについてノートに描きながら説明する坂口さん
一方で、私たちを縛るものは他人の声だけではない。取材中、坂口さんは「忙しさのなかで物事をうまく回している自分に、少し誇らしさを感じることはないか」と問いかけた。
目の前のタスクをこなし、複数の仕事を並行して進め、予定が隙間なく埋まっている。そうした状態は、ときに「充実している」「前に進んでいる」証のようにも感じられる。しかし坂口さんは、それが本当に主体的な生き方なのかと問い返す。
坂口さん「でも、それってただ楽しいからやっているだけで、ゲームをやっているのと変わらないのかもしれないですよ」
次々と現れる選択肢や刺激に反応し、それを器用に処理していく。一見、自ら選び取っているようでいて、実際には与えられた流れのなかを漂っているだけかもしれない。対話のなかで浮かんだのが、「ドリフター(漂流者)」という言葉だった。
坂口さんは、自身もまたある意味ではドリフターなのだと話す。ただし、それは「無目的に流される」という意味ではない。流れのなかに身を置きながらも、自分なりの判断基準を持つことはできる。
誰もがそれぞれに「譲れない一線」を持っているけれど、それは一度決めたら動かしてはいけないものではなく、経験を重ね、人と出会うなかで、見直したり引き直したりしていくものだという。大切なのは、流されないことではなく、流れのなかにいながら「それでも自分は何を大切にしたいのか」を問い続けることなのだ。
「まずやってみる」を、社会はどう支えられるか
では、「譲れない一線」はどうやって育つのだろう。坂口さんの話を聞いていると、それは机の上で考え抜いて完成するものではなく、人と出会い、試し、ときに失敗するなかで少しずつ形づくられるもののように思えてくる。
坂口さんにとって、その原点の一つが、高校時代のデンマーク留学だ。坂口さんは高校を1年間休学し、交換留学生としてデンマークで過ごした。現地の高校に通った後、フォルケホイスコーレでも約4か月半を過ごし、さまざまな学びやボランティア活動に触れた。帰国後は日本の受験制度のなかで大学へ進み、その後、研究の道へ進んだ。
坂口さん「こんなに長く学習の世界にいることになるとは思っていませんでした。ただ、学ぶことそのものがおもしろかったんです。人はどう生きるのか、社会とどう関わるのか。そういうことを考えるのが楽しくて、気づいたら研究の道に進んでいました」
大学院時代には、翻訳家としても知られる柴田元幸氏のゼミで学んだ。印象に残っているのは、「正解」を示すのではなく、別の見方を差し出す指導だったという。
坂口さん「翻訳原稿に赤ペンでまずは誤訳を指摘してくれます。けれどもそれだけじゃなくて、青ペンで『こういう見方もあるんじゃないか』とコメントしてくださるんです。答えを与えるというより、一緒に考えてくれる方でした」
正しい方法を先に覚えるのではなく、自分で考えながら試す。その姿勢は、現在の坂口さんの教育観にもつながっている。
坂口さん「私はもともと、型に重きを置きすぎることに少し懐疑的なんです。例えば『よいコミュニティのつくり方を2時間半の座学で学びます』と言われても、『もっと別のやり方があるんじゃないですか』と言いたくなってしまう。そのほうが本来の目的に近づける気がするからです」
その考えを象徴するものとして、坂口さんが挙げたのがデンマークの公共図書館だった。たとえば、コペンハーゲン郊外のTingbjerg Library and Culture Houseには、3Dプリンターやレーザーカッター、簡単な木工に使える道具を備えた工房がある。定期的に開かれるオープンワークショップでは、専門的な経験がなくても、気になればその場で道具に触れ、ものづくりを試すことができる。

筆者が2023年に訪問した際に撮影した、コペンハーゲン郊外の「Tingbjerg Library and Culture House」。ソマリ系移民が多い地区の公共図書館&文化センターで、デンマーク文化との共生の模索が続けられている。
坂口さんが注目するのは、設備が整備されているということではなく、こうした場の多くが、事前申し込みなしで気軽に参加できるように運営されているところである。
坂口さん「気になったら、その場ですぐに参加できることに意味があるんです。事前申し込み制は、ネガティブな可能性を減らす仕組みではあるのですが、同時に、偶然の出会いや、『ちょっとやってみようかな』という気持ちまで失わせてしまうことがある。私はそれがもったいないと思うんです。昨年、半年間滞在したデンマークで見せてもらったのは、図書館のメイカースペースが誰にでも開かれていることでした。講演会も、『何日何時から集まりがあります』という情報だけが発信されていて、当日行ってみると椅子も足りなかったりする。でも、集まった人でまずは始めよう、話してみよう、という方法でした」
私たちは、失敗を減らすためにさまざまな仕組みをつくってきた。予約をする。計画を立てる。必要な知識を先に身につける。もちろん、それらは大切だ。けれど、すべてを整えてからでなければ始められない社会では、「なんとなく気になったからやってみる」という小さな衝動がこぼれ落ちてしまう。
ここで重要なのは、デンマークの図書館を「優れたモデル」としてそのまま取り入れることではないだろう。そもそも坂口さん自身、「正しい型」を先に与えることには慎重だ。
むしろ、この事例から考えたいのは、人が自分から何かを始めたり、未知のものに触れたりするために、社会の側にはどのような条件が必要なのかということだ。事前に目的や成果を決めすぎないこと。少し興味を持ったときに参加できること。失敗しても致命的にならないこと。
坂口さんがデンマークから学んだのは、教育制度の優劣ではない。市民が小さな挑戦を繰り返せるように、社会の側が余白を残していることだった。何かを学んでから挑戦するのではなく、挑戦するから気づきが生まれる。そんな発想が、デンマークのまちの至るところに埋め込まれている。
人が出会い、対話できる「場」をどう残すか
「人が何かを試せる余白」を考えるとき、坂口さんの話には繰り返し「場」が登場する。
人は一人でも学ぶことができる。しかし、人との出会いや対話を通じて考えを深め、ときに価値観を揺さぶられながら成長していく存在でもある。ローザのいう「レゾナンス(共鳴)」も、そうした他者との相互作用のなかで生まれる。では、そのためにはどのような「場」が必要なのだろうか。
そのヒントとなるのが、デンマーク各地に残る「Folkets Hus(民衆の家)」だ。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、デンマークでは農民運動や労働運動が広がった。人々は、自ら学び、議論し、連帯するための場所を各地につくっていった。それが「民衆の家」だ。
その精神は、現在も各地に受け継がれている。なかでも象徴的なのが、コペンハーゲン・ネレブロ地区のFolkets Husだ。古い工場だった建物を当時の若者が占拠して1971年に設立され、現在まで地域のボランティアによって運営されるこのコミュニティハウスには、DIY精神が息づき、さまざまな催しが開かれている。

Folkets Hus | 写真提供:坂口さん

Folkets Hus | 写真提供:坂口さん
坂口さんは、建物そのもの以上に、それを残そうとする人々の意識に関心を寄せている。
坂口さん「自分たちが安心して集まり、団結し、政治や社会について対等に議論し、学べる拠点が、この間ずっと必要だったんです。その歴史を大切なものとして受け継ごうとする人たちが今もしっかり存在しています。だから残っているんですよね」
民衆の家は、行政が用意した施設ではない。誰かに与えられた場所でもない。市民自身が必要性を感じ、声を上げ、つくり、守り続けてきた場所である。その背景には、「民主主義は投票所だけにあるものではない」という感覚がある。異なる意見を持つ人たちが顔を合わせ、対話し、ときに衝突しながら考えを深めていく。その営み自体が民主主義を支えている、という考え方だ。
同様に、コペンハーゲンのヴェスターブロ地区にある「Folkehuset Absalon(フォルケフーセット・アブサロン)」も興味深い。元教会の建物には長いテーブルが置かれ、毎日の共同夕食をはじめ、ヨガや音楽、チェス、陶芸、トークイベントなど、週に100前後の催しが開かれている。
そこで重視されているのは、特別なプログラムに参加すること以上に、知らない誰かと同じ空間を共有できることだ。人が出会い、少し話し、思いがけず考えが動く。
近年、日本で広がるコミュニティ食堂や市民大学の取り組みも、同じ系譜のものではないかと坂口さんは言う。
坂口さん「私は、日本にも同じような流れはあると思っています。名前や形は違っても、人が集まり、学び、聞き、支え合う場所をつくろうという動きは確実にあります」
誰かと出会い、話し、考えが少し変わる。レゾナンスとは、そうした出来事の積み重ねのことなのだろう。
余白は、誰にでもあるわけではない
その実践を大学のなかで担っている場所の一つが、明治学院大学ボランティアセンターだ。
取材前、坂口さんに案内してもらったセンターでは、学生たちがスタッフの支援を受けながら、地域活動や災害支援、多文化共生など、さまざまな活動に関わっていた。そこで大切にされているのは、「何をしたか」だけではない。活動を通して何を感じたのか。何に戸惑ったのか。それまで当たり前だと思っていたことが、どう変わったのか。ボランティアは、誰かのために何かをする活動であると同時に、自分の知らなかった現実や人に出会い、自分自身の前提に気づく経験でもある。
ボランティアセンターでも、最近では活動の記録や発信にも力を入れているという。取材の中で坂口さんと話していて印象的だったのは、「学びのプロセスを共有することは文化をつくることでもある」という視点だ。体験を言葉や映像として残し共有することは、自らの振り返りであると同時に、次に続く人へのバトンにもなっている。経験は共有されることで、次の挑戦への資源になっていく。
近年はボランティアよりも授業やアルバイトを優先する学生が増えているという。背景には、タイパやコスパといった価値観だけでなく、学費や生活費への不安など切実な事情もある。限られた時間の中で、確実な成果が見込める選択をするのは自然なことだ。一方で、私たちの会話は「だからこそ失われるものはないだろうか」という話題にも及んだ。
予定通りにいかないこと。異なる立場の人と協力すること。自分の考えが揺さぶられること。そうした経験は、効率では測れない。しかし、その遠回りのなかでしか得られない学びもある。地域や他者と関わり、自分の言葉で振り返り、また誰かへ手渡していく。ボランティアの価値は、その循環の中にあるのかもしれない。
ここで見えてくるのは、「余白を持とう」と呼びかけるだけでは足りないということだ。学費や生活費のために働かなければならない学生にとって、予定を空けること自体が簡単ではない。問い直すべきなのは、個人がもっと上手に時間をつくれるかではなく、人が学び、他者と関わり、予定外の経験をする余地を、社会や制度の側がどこまで保障できるのかということなのかもしれない。

学生たちとの活動の様子(撮影:石井美加)| 写真提供:坂口さん
「内なる国際化」が問いかけるもの
ボランティア活動も、多文化共生も、本質的にはよく似ている。どちらも、自分とは異なる背景や価値観を持つ人と出会う経験だからだ。坂口さんが明治学院大学で取り組んできた「内なる国際化」プロジェクトも、そうした問題意識から始まっている。
坂口さん「大学生が海外へ出て学ぶことも大切です。でも同じくらい、日本の中にいる外国につながる人たちや、その人たちの考え方や暮らし方を学ぶことも重要だと思っています。国や民族というカテゴリーで理解するのではなく、一人ひとりの個人として出会い、関係をつくっていく。そのなかでこの社会の多文化共生を豊かにしていくことが、このプロジェクトの目的です」
明治学院大学の国際化プロジェクトは、発足から11年間、社会福祉法人さぽうと21やファーストリテイリング財団などの支援・協力も受けながら、学生たちは外国につながりを持つ人々と交流し、協働する機会を重ねてきた。
ここで目指されているのは、「異文化について正しい知識を身につける」ことだけではない。どれだけ文化や宗教について勉強しても、その知識だけで一人の人間を理解できるわけではない。実際に会い、話す。一緒に何かをする。そのなかで、相手について抱いていたイメージが崩れたり、自分自身が無意識に持っていた前提に気づいたりする。
夏休みの学習支援教室では、学生たちはあっという間に子どもたちと打ち解け、宿題を一緒に解き始める。けれども何気ない会話から、ひとりひとりの子どもたちが、家庭や学校、母国との関係のなかで、大きな不安の中にいることも知る。子どもたちもまた、ときどき登場する大学生を歓迎しながらも、どこか冷めた目で見つめ、ひと夏で驚くほどの大人びた日本語と賢さを身につけていく。学びはこのように、他者との関係のなかで、自分の世界を広げていくことでもある。

学生たちと活動する様子 | 写真提供:坂口さん
ハル・コックによると、デモクラシーは「思考様式であり生活形式」である。振り返れば、ここまで坂口さんが語ってきたテーマは、すべてこの地点へとつながっている。
デンマークの図書館は、人々が新しいことに挑戦するための場だった。民衆の家は、人々が集い、対話し、社会について考えるための場だった。ボランティアは、教室の外で他者と出会い、自分の世界を広げる実践だった。そして「内なる国際化」もまた、異なる背景を持つ他者と関係を築く試みである。どれも共通しているのは、自分ひとりでは完結しないということだ。
他者と出会い、影響を受け、自分もまた相手に働きかける。そうした関係性のなかでレゾナンスが生まれ、その積み重ねが「暮らしのデモクラシー」を形づくっていく。坂口さんは、その実践を支えるものとして生涯学習を位置づけている。
私たちは、働く人である前に、暮らす人である
インタビューの終盤、話題は「学生たちに何を学び、卒業していってほしいのか」という問いへと向かった。そこで坂口さんが語ったのは、知識や資格、スキルの話ではなかった。
坂口さん「学生たちには、『暮らすのは本人だ』ということを持ち帰ってほしいんです。私たちは働く人である前に、暮らす人ですから」
大学教育はしばしば就職と結びつけて語られる。どんな知識を身につけるのか。どんな能力を伸ばすのか。どんな仕事に就くのか。
もちろんそれらは重要だ。しかし坂口さんが見ているのは、その先にある長い人生である。仕事は人生の一部だが、人生そのものではない。どのような人と関わり、何を大切にし、どのように暮らしていくのか。そうした問いに向き合う力こそが、生涯にわたる学びの土台になる。
坂口さん「大学は『就業能力』を高めるためだけの場じゃないんです。学ぶことは、よりよく働くためだけでなく、よりよく暮らすためのものだと思うんです」
ボランティア活動も、多文化共生の実践も、デンマークの民衆の家も、根底には同じ発想が流れている。他者と出会うこと。対話すること。新しいことを試すこと。そして、自分が何を大切にしたいのかを問い続けること──そうした営みを通じて、人は他者との関係を築き、自分自身の生き方を形づくっていく。
インタビューを終えた後、あらためて最初の問いを思い出した。
「最近、ゆっくり話をしたのはいつですか?」
誰かとゆっくり話す。そこには他者の声に耳を傾ける余白がある。同時に、自分自身の声を聞き直す余白もある。坂口さんが語ってきたエージェンシーも、レゾナンスも、「暮らしのデモクラシー」も、そのような余白から始まるのだろう。
ただ、その余白を持てるかどうかは、個人の心がけだけで決まるものではない。たとえば、学費や生活費のために働かなければならない学生にとって、予定を空けること自体が簡単ではない。
だからこそ問いたいのは、個人がもっと上手に時間をつくれるかではなく、人が学び、他者と関わり、ときに予定外の経験をする余地を、社会や制度の側がどう支えていけるのかということだ。
そして学びとは、社会に適応するためだけではなく、自分自身の人生を引き受けるための営みなのかもしれない。
私たちは働く人である前に、暮らす人である。
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Edited by Erika Tomiyama

明治学院大学社会学部社会学科教授。専門は生涯学習論、市民社会論。デンマークの生涯学習や成人教育、ボランティア活動と市民社会、多文化共生などを研究している。




