AI時代、組織に「キョロキョロする余白」を。偶然から生まれる未来の可能性をどう残すか【esse-sense Future Forumレポ】

2026.10.14

Yagihashi Pachi

2026年9月16・17日の2日間、東京ミッドタウン八重洲にて、「未来との邂逅 ― 産業創造を実現する知のオーケストレーション」と題された大型カンファレンス「esse-sense Future Forum 2026(エッセンスフォーラム)」が開催された。

研究者や企業経営層、投資家、大学・政府・スタートアップ関係者らとともに、先端科学から経営、未来研究まで、異なる領域の人々が「まだ答えのない未来」について議論する場に朝から晩まで身を置く体験は、「刺激的」という言葉だけでは言い表せないものだった。

今年で第4回となるエッセンスフォーラムは、バイオものづくり、若返り・長寿、脳科学・BMIなどの先端科学から、人間の営みの根源にある身体知まで、領域の垣根を越えて「未来研究」に向き合うカンファレンスである。

筆者がエッセンスフォーラムに参加するのは、今回で3度目。今年のフォーラムでさまざまな議論を聞きながら、考え続けていたことがある。それは、「無駄」についてだ。

AIは無駄を削減する。企業は無駄をなくそうとする。しかし、何が本当に不要で、何がまだ価値を見いだされていないだけなのかを、私たちはどこまで決め切れるのだろう。今回の議論を聞いていると、「無駄」は効率性や合理性の反対側にあるのではなく、それらだけでは拾いきれないものを残しておくための余白なのではないかと思えてきた。

ここからは、筆者が参加した各セッションを振り返りながら、「無駄」と呼ばれてきたものに、どのような価値が隠れているのかを考えてみたい。

未来は「予測」ではなく「準備」する

1日目の最初のキーノートセッションに登壇したのは、ドバイ政府が2016年に設立した未来戦略機関「Dubai Future Foundation」のエグゼクティブ・ディレクター(未来・フォーサイト・イマジネーション担当)、Dr. Patrick Noackだ。

「未来の知をどう産業創造に接続するか」をテーマに、未来を社会へ実装していくための方法論が語られた。

「未来は予測する(Predict)ものではなく、準備する(Foresight)もの」
「正しいことよりも、違うことを試す」
「異なる人たちを集めることが重要」

こうした考え方自体は、近年のイノベーション論でも繰り返し語られてきたものだろう。それでも筆者が特に引きつけられたのが、終盤に語られた「規制そのものも実験する」というアプローチだった。

規制は通常、失敗や被害を防ぐためにつくられる。だがパトリック氏は、規制そのものも実験対象になり得ると言う。既存の規制を前提に、その内側だけで最適解を探し続ければ、そもそも「そのルール自体を変えられないか」という問いは生まれにくい。パトリック氏の話から見えてきたのは、技術やサービスだけでなく、ルールそのものにも実験の余地を残しておくという姿勢だった。それは、過剰な最適化に対する小さな抵抗であり、まだ別の未来を選べる状態を残しておくことでもある。

フォーサイトとは、一つの未来を言い当てる技術ではなく、まだ見えていない複数の可能性に対して、社会の側に選択肢を用意しておく営みなのだろう。そう考えると、そうした「実験の余地」もまた、今回考えてみたい「無駄」の一つの姿なのかもしれない。

パトリック氏

「正しい無駄」はつくれるか

2人目のキーノートスピーカーは、東京大学/東北大学教授の合田圭介氏だ。

合田氏の提言や、エッセンスフォーラム主宰者の西村勇也氏との対話のなかで何度も登場したのが、「正しい無駄の見極め」という言葉だった。科学の歴史は、ある意味では「細分化と最適化の歴史」でもある。研究領域を細かく分け、それぞれの分野を深く掘ることで、科学は大きく進歩してきた。

一方、次の時代に新しいものを生み出すためには、その境界をあえて越え、一見すると関係のない知識や技術、人を結びつけていくことも必要になる。

その象徴が、合田氏が推進する「Serendipity Lab(セレンディピティラボ)」だ。「セレンディピティ」とは、偶然の出会いや予期せぬ発見を意味する言葉だ。ペニシリンをはじめ、科学史を振り返れば、重要な発見のなかには偶然から生まれたものが少なくない。合田氏は、その偶然をただ待つのではなく、異分野の研究者や技術を意図的に交差させることで、セレンディピティが起こる確率そのものを高めようとしている。

すぐには成果につながらない研究や、専門外の知識との接触は、短期的な評価では「無駄」に見えるかもしれない。しかし、そうした一見余計に見える接点こそが、低い確率の偶然を育てる土壌になる。効率化のなかで削られやすかった「余白」を、未来の発見を支える資源として捉え直す試みとも言えるだろう。

合田氏

「失敗した人を集める」という発想

3人目のキーノートには、株式会社博報堂DYホールディングス代表取締役社長CEOの西山泰央氏が登壇した。

西山氏の講演で提示されたのは、日本には優れた技術や研究という「未来の種」が十分に存在しているにもかかわらず、それが社会実装や産業化へ十分につながっていない背景には、「まだ出会うべき相手と出会えていない」という問題があるのではないか、という視点だった。

その壁を越えるためには、研究者、企業、行政、投資家、生活者をつなぎ、目指す未来を可視化し、小さな実験を繰り返しながら学ぶことが必要だと西山氏は語る。そしてAIとデータを活用して探索と検証を進めつつ、最後の価値判断は人間が担うべきだと強調した。

西山氏の講演後には、PwCコンサルティング合同会社Chief Impact Officerの宮城隆之氏を交えたパネルトークが行われた。そこで西山氏が語った、いくつかの言葉が印象に残っている。

「失敗した人たちを逆に集めて、いろいろな環境を与えてあげる」
「5年後、10年後の目標を立ててもらって、一度握ったら、しばらく世に放ってみる」
「失敗と呼ぶのか。それとも、新しい創業に賭けていると考えるのか」

成果だけから過去を振り返れば、「失敗」は無駄として処理されてしまうかもしれない。しかし、その過程で何が学ばれ、次の挑戦へ何が残ったのかまで見れば、意味は変わる。成功か失敗かという結果だけではなく、試行錯誤のプロセスそのものに価値を認めることもまた、「無駄」を捉え直す一つの視点なのだろう。

講演の様子

「偶然が起きる環境」をつくる

ここからは、ランチタイム後に行われた2つのセッションを振り返りたい。一つ目は、「Innovation by Serendipity ― 偶然をデザインするイノベーションラボ」だ。登壇したのは、研究者の合田圭介氏、武田秀太郎氏、スタートアップと大企業の共創支援に携わる笹原優子氏。モデレーターは篠田真貴子氏が務めた。

思いがけない出会いや発見を指す「セレンディピティ」。では、その偶然は本当に「設計」できるのだろうか。パネルトークでは、会場から寄せられた4つの質問を起点に議論が進んだ。そこで見えてきたのは、偶然そのものを操作する方法ではない。「偶然が起こりやすい環境」をどうつくるかという視点だった。

左から篠田氏、合田氏、笹原氏、武田氏

最初の質問は、小さなアイデアや人をどう結びつけるかだった。合田氏がその鍵として挙げたのは、好奇心だ。

合田氏「私は日常的に違う分野の研究を追うようにしています。最初は何が面白いのか分からなくても、調べていくうちにその分野の魅力が見えてくる。すると異なる専門家とも自然に会話できるようになるんです。人をつなぐ人というのは、特別な才能というより、他の分野への好奇心を持ち続けられる人なのかもしれません」

武田氏もまた、イノベーションの本質を「新結合」に見る。

武田氏「PI(研究室主宰者)の仕事は、人と人の間にどれだけ新しい線を引けるかだと思っています。研究室、学部、大学という壁を超えて、どれだけ新しいネットワークを作れるか。その能力が、イノベーションを生む力そのものだと思います」

一方、スタートアップと企業の共創を数多く支援してきた笹原氏は、人と人が自然につながるための、より日常的な仕掛けを実践している。

笹原氏「スタートアップと事業会社をいきなり会議室で引き合わせると、お互いに構えてしまいます。そこで『笹屋』という飲み会を定期的に開いています。まずは飲みながら話してもらう。すると自然に『今度詳しく話しませんか』という流れが生まれるんです。私はこれを最近、『油断マッチング』と呼んでいます」

「マッチング」というと、通常は双方のニーズや条件を整理し、最短距離で相手を結びつけることを考える。しかし、笹原氏の「油断マッチング」は、その逆だ。目的を少し曖昧にし、互いの肩書きや利害から離れられる余白をつくる。目的を明確にしすぎない時間が、結果として新しい関係につながっていくのだ。

そう考えると、こうした一見「無駄」に見える場は、普段なら交わらない人同士をつなぐ、小さな社会インフラとも言えるのかもしれない。

最後の質問は、セレンディピティが個人の発見なのか、それとも集団のなかから生まれるものなのかというものだった。武田氏は、自身の経験からこう語る。

武田氏「少なくとも自分の場合、個人だけでセレンディピティは生まれないと思っています。新しいものは、人と人の出会いの中からしか生まれない。だから私自身が何かを生み出すというよりも、多様な人たちをどうつなげるかを考えています。そして、その中で偶然が起きることを期待する。私はそちらの方が本質に近いと思っています」

さらに武田氏は、「変わった人が好きなんです」と続けた。社会の常識にきれいに収まらない人。自分とは違う考え方をする人。そういう人と話していると、自分の想像を超える発想に出会うことがあるという。

組織が共通の目標や評価軸に沿って最適化されていくと、その軸から外れる人や発想は、ときに「ノイズ」のように見えてしまう。しかし、その「ずれ」のなかにこそ、既存の延長線上にはない発想が潜んでいる可能性がある。

組織に「キョロキョロする余白」はあるか

議論全体を通じて、特に印象に残ったのが、合田氏が語った「確率」という視点だった。

合田氏「セレンディピティとは、非常に低い確率で起こる出来事です。私が考えているのは、その確率をどう上げるかです。偶然そのものを設計するのではなく、偶然が起こりやすい環境を作るのです」

偶然そのものを計画することはできない。しかし、人が行き交う回数を増やしたり、異なる分野が交わる場所をつくったりすることで、その確率を上げることはできる。一方、笹原氏が指摘したのは、組織が成果や効率を追い求めるほど、人々の好奇心が失われていく危険性だった。

笹原氏「足元の成果を出すことが求められるので、目の前のことに集中する。すると気付けば、みんなキョロキョロしなくなるんです。私は今、『どうやったら皆をもっとキョロキョロさせられるのか』を結構真剣に考えています」

「キョロキョロできる」というのは、単に暇があるということではない。目の前の成果だけに追われず、自分の仕事とは直接関係のないものに注意を向けられる余裕があるということだ。成果指標が明確になるほど、人は評価されるものへ注意を集中する。その合理的な行動の積み重ねが、組織全体から「寄り道する視線」を奪ってしまうこともある。

失敗や寄り道を許容し、自分の関心の外側へ目を向けられることは、好奇心だけでなく、心理的な余裕や、失敗を許容できる環境とも関わっているのではないだろうか。人を常に最短距離で成果へ向かわせることは効率的かもしれない。しかし、人間を「最も効率よく成果を出す存在」にだけ還元すれば、そこからこぼれ落ちる可能性もある。

セレンディピティを設計するとは、偶然を管理することではない。壁を低くし、出会いを増やし、多様な人や考え方が交わる余白を残すこと。そして、自分とは違うものを面白がることなのだ。

「よき祖先」は未来に何を残すのか

最後に振り返りたいのが、「よき祖先になるリーダーの役割」というセッションだ。

登壇したのは、書籍『よき祖先(The Good Ancestor)』の翻訳者であり仏教思想を研究する松本紹圭氏、知識創造理論とリーダーシップ研究を専門とする立教大学の廣瀬文乃氏、AI時代の教育や学習環境デザインを研究する公立はこだて未来大学の美馬のゆり氏、そして企業経営の立場から未来世代への責任を問い続ける住友生命保険の藤本宏樹氏。モデレーターは一般社団法人Pnikaの隅屋輝佳氏が務めた。

セッションは、松本氏による参加者への呼びかけから始まった。

松本氏「心静かに、30秒ほど、皆さんご自身の祖先に思いを向けてみませんか。どんな方を、何を祖先と捉えるか。もちろんそれは自由です」

左から松本氏、廣瀬氏、隅屋氏

過去へ意識を向けるところから始まった議論は、やがて「自分たちは未来の人々にとって、どのような祖先になるのか」という問いへと反転していった。『よき祖先』の翻訳者である松本氏が、この問いに出会ったのは5年ほど前。著者ローマン・クルツナリックとの出会いがきっかけだったという。

松本氏「本の中心にある問いは、『いかにしてよき祖先になれるか』です。私はこの問いに出会って、日本仏教の見方が変わりました」

さらに松本氏は、オードリー・タン氏との対話を紹介した。タン氏は「Good Ancestor」ではなく、「Good Enough Ancestor」でありたいと語ったという。

松本氏「完璧な祖先ではなく、十分によき祖先。この表現がとても好きなんです」

完璧な社会を未来へ用意しておくことではない。未来世代が、自分たちで選び、考え、描き直せるようにしておくこと。後日、松本氏とタン氏は「より大きなキャンバスを渡すこと」と、さらにそのメッセージを進化させたという。未来を思うことは、未来を決めてしまうこととは違う。むしろ、次の世代の選択肢を狭めないこともまた、私たちの責任なのかもしれない。未来に残すべきなのは、用途まで決められた完成品だけではない。まだ何に使われるかわからない可能性を、誰か一人の判断で閉じず、未来に開いたまま渡すこともできる。

ここで松本氏が強調したのが、「引き算」の発想だった。

松本氏「レガシーというと、大きな建物や財団をつくり、自分の名前を残すことを想像しがちです。でも、『これはもう次世代に渡さなくていいのではないか』と終わらせる決断もまた、未来への貢献だと思うんです。名を残すのではなく、名もなきよき祖先になる。そんなあり方もあるのではないでしょうか」

左から藤本氏、美馬氏、隅屋氏

企業経営の立場から登壇した藤本氏も、この考え方に強く共感を示した。

藤本氏「企業経営はつい成長や拡大を考えがちですが、『使命を終えたら終わる』という考え方もあるかもしれない。引き際もまた、未来への責任なのだと思います」

無駄をなくすことと、不要なものを手放すことは、似ているようで違う。「無駄をなくす」は、いまある目的をより効率よく達成するための引き算だ。一方、「終わらせる」は、その目的自体がまだ必要なのかを問い直す引き算である。

AIの「最適解」からこぼれるもの

一方、美馬氏が議論に持ち込んだのは、「ケア」という視点だった。

美馬氏「『よき祖先』の『よき』とは何か。これはとても難しい問いです。誰にとって良いのかによって答えは変わります」

AI時代には、効率や最適化がますます重視されていくだろう。しかし、何かを最適化するということは、同時に「何を目的にするのか」を決めることでもある。何を測るのか。誰にとっての「最適」を目指すのか。そして、その指標に入らない価値を誰が引き受けるのか。

美馬氏「人間は単独で生きているわけではありません。関係性の中で生きています。だからこそ、『誰かが見落とされていないか』『取り残されている人はいないか』という視点が不可欠になります」

さらに、美馬氏は教育分野で広がる「個別最適化」についても問いを投げかけた。AIが一人ひとりに合った学習方法を提示し、最短距離で学習目標へ導くことができるようになる。それ自体には大きな可能性がある一方で、最適化されない経験や、人との関係性のなかで育まれる学びまで失ってよいのだろうか。

美馬氏「人生は遠回りするから面白い。失敗したり、寄り道したり、思いがけない出会いをしたりするからこそ、多様な考え方が生まれると思うのです」

最適化という言葉の難しさは、何を「最適」とするのかを、あらかじめ決めなければならないことにある。何を測るのか。誰にとっての最適を目指すのか。そして、その指標に入らない価値をどう扱うのか。

人との間で生まれる安心感や違和感、遠回りのなかで得る気づき、身体で感じる「なんとなくこちらがよい」という感覚。そうした経験のすべてが、データや数値にきれいに還元できるわけではない。「誰にとっての最適なのか」を問い続けることは、最適化の外側にある価値を見落とさないためのケアでもあるのではないだろうか。

AIが知っているのは「昨日まで」

廣瀬氏「拡大することだけが良いこと、つまり“グッド”ではないですよね」

廣瀬氏は、知識創造理論の提唱者である野中郁次郎氏の研究を手がかりに、「よき祖先」とリーダーシップの関係を語った。そこで印象に残ったのは、一つの尺度だけで「良さ」を決めないという視点だった。

成長、効率、生産性。社会や組織では、わかりやすい指標ほど意思決定の軸になりやすい。しかし、一つの物差しに価値判断を寄せすぎれば、その尺度では測れないものは見えにくくなる。廣瀬氏は書籍『スモール・イズ・ビューティフル』にも触れながら、拡大することだけを「良い」とするのではなく、異なる価値観や評価軸を持ち続けることの重要性を語った。

未来世代に選択肢を残すということは、何かを物理的に残すことだけではないのかもしれない。何を大切だと考えるのか、その判断の物差し自体を一つに固定しないこともまた、未来へ手渡せるものの一つなのではないだろうか。

こうした議論を受け、松本氏は「AI時代のよき祖先」という問いを改めて投げかけた。

松本氏「AIは先人たちの大量の知識を取り込んでいます。だからこそ、ものすごい知恵を持っている。一方で、それは昨日までの知恵でもあります。未来への責任は、成功や失敗ではなく、挑戦そのものにあるのではないでしょうか」

まだ価値が証明されていないことに挑戦し、昨日まで存在しなかった経験を世界に加えていく。ここまで考えると、「無駄」とは、まだ価値が証明されていないものと言い換えることもできる。

何に使えるかわからない知識。失敗するかもしれない研究。目的なく交わした会話。遠回りした時間。それらは本当に不要なのではなく、まだ未来から評価されていないだけなのかもしれない。

未来を決めすぎないための「無駄」

この日見えてきた「無駄」は、一つではなかった。低い確率の偶然を育てる余白であり、結果だけでは測れないプロセスであり、人を一つの評価軸に閉じ込めないための「ずれ」でもあった。それはまた、データでは捉えきれない経験や身体感覚、まだ用途も価値も決まっていない未来の可能性を残しておくことでもある。

もちろん、すべての無駄を残せばいいわけではない。資源やエネルギーの浪費、意味のない長時間労働、不必要な業務など、減らすべき無駄は確かにある。だからこそ難しいのは、「無駄をなくすか、残すか」という二択ではない。何を「無駄」と呼ぶのか。その判断を、現在の効率性や価値基準だけに委ねてよいのかを問い続けることだ。

しかし、まだ何が価値になるのかわからない世界では、「役に立たない」と判断されたもののなかに、未来の可能性が残っていることもある。無駄とは、何が価値で何が不要なのかを、まだ誰も決め切れない状態なのかもしれない。そして、その決め切れなさを許容することは、現在の価値基準だけで未来を閉じないことでもある。

松本氏が語った「より大きなキャンバスを渡す」という言葉を借りるなら、よき祖先になるとは、未来の絵を代わりに描いておくことではない。未来の人々が、自分たちの手で新しい線を引けるだけの余白を残しておくことなのではないだろうか。

【参照サイト】esse-sense Future Forum
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Edited by Erika Tomiyama

この記事を書いたライター

八木橋 パチ

Yagihashi Pachi

八木橋 パチ(やぎはし ぱち)。「#混ぜなきゃ危険」をタグラインに、つながりをエネルギーに変え、組織や個人の力を引き出すコラボレーション・エナジャイザー。近年は、障害のある方や外国ルーツの方など、声が届きにくい人たちの「働きにくさ」を起点に、すべての人にとっての「誇りある就労」を探究している。人間の矛盾や多様性を愛し、雑談と好奇心から豊かな時間と新しい可能性を生み出そうと、常になにかと格闘中。(この人が書いた記事の一覧)