本コラムは、2026年6月11日にIDEAS FOR GOODのニュースレターで配信されました。ニュースレター(無料)にご登録いただくと、最新のコラムや特集記事をいち早くご覧いただけます。
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「私、人の気持ちがあまりわからないタイプだから」
そんな言葉を、誰かが自分の性格を説明するように口にするのを聞いたことはないだろうか。あるいは、似たような言葉を使ったことがある人もいるかもしれない。
人の気持ちを完全に理解することは、たしかに難しい。どれほど近しい相手であっても、その人が見てきた景色、積み重ねてきた経験、身体の感覚まで、そっくりそのまま自分のものにすることはできない。だからこそ、経験していない苦しみについて、簡単に「わかる」と言い切らないことには、ある種の誠実さがある。
病気、育児、介護、差別、喪失、働きづらさ。何かを経験して初めて、その重さや細部に気づくことはたしかにある。痛みを通してしか見えない景色があることも、否定はできない。
それでも、相手と同じ経験をしなければ、その気持ちは想像できないものなのだろうか。同じように倒れたり、傷ついたり、孤立したりするまで、その人の声は届かないのだろうか。
「人の気持ちなんて──自分が体験していない気持ちなんて──わからない」。その言葉が、社会の中でどんな意味を持つのか。今回のコラムでは、そんな問いについて少しだけ想いを馳せてみたい。
誰かが「つらい」「怖い」「しんどい」「不安だ」と語る。そのとき、聞き手が「自分にはわからないから」と距離を置くことは、一見すると単なる個人同士のすれ違いに見えるかもしれない。もちろん、すべての人がすべての経験を理解できるわけではない。だからこそ、わからなさの前で立ち止まること自体は、むしろ必要な態度でもある。
けれど、「わからないから」で話を閉じることが繰り返されると、何が起こるのだろう。
ある人の違和感が、「考えすぎでは?」と受け止められる。ある人の不安が、「気にしすぎじゃない?」と流される。ある人の痛みが、「そんなつもりじゃなかった」という言葉で遮られ、その先をしゃべれなくなる。
そうした反応は、相手を故意に傷つけようとして出てくるものではないのかもしれない。何と返せばよいかわからない。あるいは、そのとき自分の中に、誰かの声を受け止めるだけの余白がなかった可能性もある。
しかし、それが一度きりではなく、さまざまな場面で積み重なっていくと、その人はただ「気持ちを理解されなかった」だけでは済まなくなる。
自分の経験は、語っても意味のあるものとして扱われない。困りごとを言葉にしても、正当に受け止められない。そう感じるようになれば、やがて人は語ること自体をためらうようになるだろう。
つまり、「わからないから聞けない」という個人の態度は、その場限りのすれ違いにとどまらない場合がある。それが重なることで、ある種類の経験が聞かれにくくなり、その声が社会の中で小さくされていくことがあるのだ。

Image via Shutterstock
ここでさらに考えたいのが、「なぜ、わからないのか」という問いである。
実際に経験していないからだけではない。語り手の属性や立場に対する偏見によって、その人の言葉が最初から軽く見積もられてしまうこと。そもそも、ある経験を説明するための言葉が社会に十分に存在していないこと。これらもまた、「わからない」理由の一部となっているのではないだろうか。
哲学者のミランダ・フリッカーは、こうした状況を「認識的不正義」という概念で説明した。これは、ある人の語りが正当に受け取られなかったり、知識として扱われなかったりする不正義を指す。
認識的不正義のひとつに、「証言的不正義」がある。語り手の属性や立場への偏見によって、その人の言葉の信頼性が低く見積もられることだ。
たとえば、女性、障害のある人、子ども、マイノリティの人が何かを訴えたときに、「大げさだ」「被害者意識が強い」「本当にそうなの?」と受け取られてしまう場面がある。その人が何を語っているか以前に、「その属性の人が語っている」こと自体によって、言葉の重みが低く見積もられてしまうのである。
もうひとつに、「解釈的不正義」がある。これは、ある経験を説明するための言葉や概念が社会の中に十分になく、その経験が理解されにくくなることを指す。
本人の中には確かに苦しさや違和感がある。けれど、それを説明する言葉が見つからない。社会の側にも、その経験を受け止める枠組みがない。その結果、構造的な問題が「個人の感じ方」や「気にしすぎ」として処理されてしまう。
このように考えると、他者の気持ちが理解されない背景には、聞く側や社会の側の問題もあることが見えてくる。誰かの声が届かないのは、その人の伝え方が足りないからだけではない。聞く側に、聞き取るための言葉や枠組み、姿勢がまだ十分に育っていないこともある。
「気持ちを想像しましょう」と言うことはできる。だが、他者理解を“気持ちの想像”だけにとどめてしまうと、想像できないものについては「経験したことがないからわからない」と立ち止まってしまうことがあるのではないか。
わからないことを認めることと、わかろうとすることを手放すことは、同じではない。同じ痛みを経験しなくても、「わかりあう」に近づくためにできることは、きっとまだある。
「わかる」を個人への共感にとどめないことも、その一つだ。
たとえば、ある人が夜道を歩くことを「怖い」と言うとき、それはただその人が臆病だからではないかもしれない。そこには、ジェンダーにまつわる不安があるかもしれない。過去に怖い思いをした経験が関係している場合もあるだろう。人通りが少ない、街灯が少ない、何かがあったときに逃げ込める場所がないといった、都市設計の問題が背景にあることも考えられる。
そうした条件が重なると、同じ道であっても、“ただの移動”がまったく違う感情を生むものになる。
それを「怖がりすぎ」と受け止めるのか。「安心して移動できる環境が開かれていない可能性」に想いを馳せるのか。そこに、他者理解の入口がある。
他者理解とは、相手の感情を自分の中に完全に再現することではないのだと思う。むしろ、自分には見えていなかった経験の輪郭を、相手の言葉と社会の構造の両方から、少しずつ捉え直していくことなのではないだろうか。
【参照サイト】View of FORUM: Miranda FRICKER’s Epistemic Injustice. Power and the Ethics of Knowing
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