「あの日のおばの骨」の温度を想う。言葉が流れていく時代に、長崎の被爆者の証言が教えてくれたこと

2026.08.09

夜、込み上げてくる何かを押し殺しながら、静かにベッドに入った。だけど、翌朝目が覚めてしばらくすると、前日の晩に聴いた歌を思い出し、涙が止まらなくなった。

…死んだ彼らの残したものは
生きている私 生きているあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない…

──『死んだ男の残したものは』(作詞:谷川俊太郎、作曲:武満徹)

耳の奥に残るその歌詞が胸を締め付け、気づけば、鼻水と涙で顔がびしょびしょになった。日焼け止めもアイシャドウも消えたけれど、そんなことはどうでもよかった。

それは、悲しみだけの涙ではなかった。

前日の夜、私は多くの外国人観光客や仕事終わりの人々でごった返す渋谷の街にいた。「平和な未来」をつくるために開かれた対談プロジェクト「Dialogue for Peace」に参加するためだ。被爆者の記憶を未来へと手渡すべく、これまで核問題や平和運動に触れる機会の少なかった人々ともフラットに出会うために始まった企画で、今後もさまざまな地域で開催していくという。

その日のゲストは、長崎の原爆被爆者であり、日本原水爆被害者団体協議会代表委員の田中熙巳(てるみ)さん、音楽家・文筆家の寺尾紗穂さん、アーティストのコムアイさん。トークセッションと弾き語りライブという「対話と音楽」で開かれた場だ。

Dialogue for Peace

左からコムアイさん、田中熙巳さん、寺尾紗穂さん

イベントが始まってまもなく、田中さんは、13歳だったあの日、長崎で経験した原爆投下の光景を静かに語り始めた。

「爆撃の音がしたとき、すぐに目と耳をふさいだ」
「山を越えて見下ろした街は、真っ黒になり、やがて空全体が真っ赤に染まっていった。『これが戦争なのか』と思った」

一人の人間が、そんな悲惨な経験をくぐり抜けて、いま目の前にいる。脳裏に焼き付くような言葉の描写に、胸が苦しくなる。それから田中さんは、「本当に戦争になったら、あの状態が周りに広がっていって、やがては世界中に広がっていくんだ」と言い、その後、こんな言葉をつぶやいた。

「たまたま国が違う、たまたま格差がある、そんなことで戦争をして『自分が上に行こう』とする考えは、もう80年前に捨てるべきだった」

想像を絶するような体験をした人の言葉と世界の今を並べたとき、その言葉は重く重く響いてきた。

上滑りする大きな言葉と、たったひとりの「命の手触り」

核兵器をめぐる議論では、よく大きな数字や概念が飛び交う。「地球上に存在する1万2000発の核兵器」「広島と長崎で失われた21万人の命」「核の非人道性」「核抑止力」。

けれど、どれだけ重大な言葉であっても、何度も耳にするうちに私たちの意識をすーっと通り過ぎ、いつの間にか「聞き慣れて」しまうことがある。田中さんは、その言葉の背後にある「中身」を想像することの大切さを訴えていた。

「『非人道的だから使っちゃいけない』という言葉だけで終わらせてしまったら、本当の恐怖や非人道性の中身は伝わらない。どういう殺され方をするのか、どういう生活を強いられるのか。言葉で表現できるような形として据えていかないと、信念にはつながらない」

田中熙巳さん

田中さんは、原爆投下から三日目、焼け跡に入り、爆心地近くで探し当てたおばの遺体を自ら焼き、その骨を拾った。何十人もの怪我人や遺体を見て感覚が麻痺していたはずなのに、焼かれて骨の形になったおばを目の前にしたとき、涙が止まらなくなったという。

一人の人間が体験した命の「手触り」は、数字や大きな言葉を聞くだけでは、実感することは難しい。言葉が溢れ、滑り落ちていく時代だからこそ、私たちは一人の証言の重みに耳を傾け、その向こう側にある具体的な苦しみやぬくもりに、想像力を働かせ続けなければならないのだろう。

助け合いの記憶と、「本音」の言えない対話

話が戦後の暮らしに及んだとき、田中さんは1週間何も口にできないほどの「大貧乏」を経験したと明かしてくれた。戦争で父親を亡くし、収入がゼロになった中で、田中さんの生命をつなぎ止めたのは、近所の人々や学校の友人たちの助け合いだった。

「お金がなくても、食料がなくても、同級生やその親たちが『田中君、大変だから助けてあげなさい』とこっそり支えてくれた。みんなが貧しかったけれど、助け合いがあったから生きられたんです」

そう振り返りながら、田中さんは、今の社会に対して強い危惧を口にした。

「今の若い人たちを見ていると、何かあったら助け合うというつながりが非常に希薄になっているように見えます。競争社会のなかで、『偉くなきゃいけない』『金持ちにならなきゃいけない』と、小さい頃から競争させられている。

そういう社会では、本当の対話は実現しません。信頼がないと本音をいうことも難しいと思うからです。『本音を言うと自分を出し抜いて、あいつがいい思いをするんじゃないか』と疑えば、自分の本当の考えを言えなくなってしまいます。だから、子どものときから友達と信頼し合って、お互いに助けるというふうにして大きくなっていくというのが一番大事。死ぬまで誰かと競争するなど間違っていると思います。そんなのやめませんか」

「自分だけが良ければいい」という、戦争の原理

競争社会の中でますます広がる「自分だけが良ければいい」という考え方。他の国に爆弾が落ちて人が殺されても、誰かが困っていても、自分たちさえ助かればいいと目をつぶる。

「それこそが、戦争を引き起こす原理そのものではないか」というコムアイさんのコメントに対して、田中さんはさらに社会の構造へと視野を広げてくれた。

Dialogue for Peace

「経済のことで言うと『新自由主義』が広がり、私たちはある程度自由になり、社会保障や制度としては立派な国になったかもしれません。ただ、格差は広がり、気持ちとしては『貧乏』になっている人たちがたくさんいるように見えます。

人間は多様であっていいはず。どんな仕事をやっていても良くて、それぞれが分担することで人間社会は成り立つ。それなのに分裂をして差をつける。それが今、社会にはびこっているのが一番良くないことだと感じます。本来、外国の人も私たちもみな同じ人間ですから」

国全体は豊かになった。一方で、人とのあいだに境界線を引き、分断が広がっているようにも感じる。その空気は、平和を遠ざけるものなのかもしれない。

では、戦争によって日常が断ち切られる前、田中さんの目には長崎の街がどのように映っていたのだろう。コムアイさんが「平和だった頃の記憶」を尋ねると、田中さんは戦前の長崎の記憶を愛おしそうに振り返った。

「テレビもスマホもなく、あるのはラジオだけ。竹馬や釘刺しのような素朴な遊びばかりだったけれど、本当に楽しかった。遊ぶことに罪はないですよね。長崎にはアメリカ人もオランダ人もいて、みんなお友達だった。

だけど戦争で『敵国』になった途端、会話さえできなくなってしまった。敵対は誰かに『作られていく』ものなんだと思います。普通はみんな、友達になれる人なんですよ。それをずっと追求していけば、戦争をしない平和な世界ができるんじゃないかと私は思います」

「答えを人に聞かずに、考え続けなさい」

「自分さえ良ければいい」

そんな考えは、私自身の心の中にも少なからず存在している。それに、どれほどの善人であっても、誰もが常に、見知らぬ他者や起こりうる未来に想いを馳せられるわけではないだろう。では、他者への想像力や共感力は、いかにして養うことができるのだろう。経験したことのない誰かの痛みにどうすれば寄り添うことができるのだろう──トークの最中、そんな問いが胸に湧いてきた。

イベントの後、思い切って田中さんにその問いをぶつけてみた。まっすぐに私の目を見つめた田中さんから返ってきたのは、シンプルで、けれど重みのある言葉だった。

「答えを人に聞かずに、自分で考えなさい」

「しまった」と思うと同時に、とても大事なことに気づかされた。誰かに答えを委ねるのではなく、揺らぎながらも自ら探し続けること。それこそ、私たちが手放してはいけないものなのだ、と。

「平和」という言葉だけでは、きっと足りない。「核兵器」という言葉だけでも足りない。あの日、拾い上げられ、焼かれたおばの骨。その命の重さを想像し続けること。過去を生きた誰かが紡いでくれた「今」を、私たちは生きている。

Dialogue for Peace

※7/31「Dialogue for Peace vol.1」当日のイベントの配信チケットはこちらのサイトで8月15日まで購入可能。

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この記事を書いたライター

伊藤 智子(いとう ともこ)。大学時代、ヨーロッパで数年間過ごしたのち、大阪の真ん中から海と山が近い千葉の里山に移住。生態系の一部としての人間のあり方を模索すべく、山の中の古民家でシェアハウス生活を行う。ライター業の傍ら、カフェの運営やまちのつながりづくりなどに取り組み、さまざまな人と出会い、多様な生き方に触れることに魅力を感じながら過ごしている。最近のテーマは、目の前のものをじっくり感じ、味わい尽くすこと。曖昧なもの、わかりにくいものこそ大事にしたい。