認知症になっても一緒の想い出を。「二人でつくる」やさしいお菓子作りキットができるまで

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2025年には、5人に1人がなるとも予想されている認知症。高齢者人口の増加は先進国の多くが抱える課題のひとつであり、日本も高齢者の割合が世界で最も多い29.1%である。認知症は本人だけでなく、介護する家族や施設のスタッフにも負担がかかる場合が多い。

イギリスも日本と同様、高齢化が進む国の一つだ。高齢化社会で認知症の捉え方や高齢者の暮らしの在り方を問い直すことはできないだろうか。そうした問いのもと、ロンドンのデザイナーによって生み出されたのが、二人でお菓子を作るキット「ベイクキンセット」だ。

今回は、作品をデザインしたロンドンのエミリー・コーナードさんにお話を聞いた。認知症という病気に身近な体験がある方もない方も、老いることについて考えながら、読んでいただきたい。

話者プロフィール:エミリー・コーナード

エミリーさん東ロンドン出身、セイント・セントラル・マーティン卒業後、現在はサービスデザイナーとして働いている。彼女は12歳の頃に始めた環境保護活動を通して、「デザイン」がさまざまな社会問題にとって大きな影響力を持つことを知る。社会がどのようなシステムでデザインされているのか、日常的な生活に「Empathy(共感)」を視点に加えることによってどう変えられるか。そうしたソーシャルデザインへの興味が彼女の原動力となっている。

家族の思い出をつくるための、お菓子作りキットとは

「ベイクキンセットは、セイント・セントラル・マーティンの卒業制作作品のひとつで、認知症を抱える本人と、そのケアをする人たちが助け合いながら共同で使うことができる、お菓子の調理器具です」

セットには接続交換が可能なハンドル(紫)、泡立て器(黄緑)、伸ばし棒(水色)、型抜き器(赤)、そしておすすめレシピが書かれた取扱説明書の5つが含まれる。そのポップでカラフルな配色と木の温もりを感じるデザインは、ただ見分けやすくするだけではなく、認知症の進行度合いによらず、ずっと使えるように考え抜かれている。

「実際に認知症の方々にデザインを見てもらい、反応が一番良かったものを選びました。二人が別々の作業をするのではなく、一つの作業を共同で出来るようになっているのがポイントです」

ちなみに、ベイクキンセットの「キン」には「家族や親族」という意味がある。レシピはたとえその方が亡くなったあとでも受け継がれ、思い出を残す大切な手段になる。これはもちろん一人でも使え、子供と一緒に使うこともできるので、家族の新しい命へとつながっていく、そんな役割も担っているそうだ。

認知症がもたらした家族の関係性の変化。ベイクキンセットができたきっかけとは?

「イギリスが新型コロナ禍でロックダウン(都市封鎖)をしていたとき、認知症が進行しはじめていた一人暮らしの祖母と、たまたま近くに住んでいた私の弟が一緒に住みはじめました。祖母を心配した結果、家族で判断したことだったのですが、ロックダウンは想像以上に長引き、弟は大きな責任を長期間背負うこととなりました」

そんな中で、いつの間にかエミリーさんの祖母と弟の関係は「患者」と「介護者」という関係に変わり、日常的な喜びを分かち合うことが難しくなってしまったという。

「祖母のもとを訪れた際、私に会えたことに喜ぶ彼女の姿と、同じ孫であるのにもかかわらず、関係が変わってしまったことに耐える弟の姿を見ました。私自身、昔とは違う祖母の姿を受け入れることが難しく、彼女に会うたびに悩んでいました。そんなとき、認知症とそのケアについて深く向き合ってみたい、と思ったのです」

社会から「忘れられた存在」。認知症の人が楽しめる経験と環境づくりを考える

認知症により起こる目に見えない変化は、少しずつ、でも確実に周りを取り巻いていく。認知症に対する考え方や接し方に正解はないが、エミリーさんの語りからはつらい思いに目を背けずに正面から向き合うことを選択した彼女の勇敢さを感じる。

「認知症との向き合い方について少し調べ始めるとすぐ、認知症を患う高齢者が社会の中で切り離され『忘れられた存在』であることに気づきました」

日常生活において認知症の人向けに作られているものは、文字を少し大きくしただけで機能が同じ時計や、首から下げる緊急用ボタンくらい。それらは彼らが持つ豊かな人生経験や、より素敵な時間を共有出来るような観点ではデザインされていない。その中でエミリーさんは私たちが社会のなかで認知症とどのような向き合い方をしているのか、再確認したという。

入居者の自立と共生が重視されたオランダの認知症村「ホグウェイ」は、彼女の大きなインスピレーションとなった。ホグウェイは、認知症の人専用の老人ホームで、入居者が住民として普通の日常を自由に暮らせるような環境が整い、スーパーでの買い物や映画館での映画鑑賞、レストランでの食事などを楽しめるようになっている。

「残された時間を出来るだけ楽しみたい」と考えたとき、あなたはどのような生活を思い描くだろうか。これは認知症の人への接し方を見直すために大切な問いかもしれない。

「ベイクキンセットは、よくお菓子の作り方を教えてくれた祖母へ、尊敬と感謝のしるしです」

認知症発症以前は活発なタイプだったというエミリーさんのおばあさん。彼女が好きだったことをどのようにまた再現し、楽しんでもらえるか考えたとき、「お菓子づくり」という答えにたどり着いた。しかし、お菓子づくりに着目したのはそれだけが理由ではないという。

「お菓子づくりは、匂いや味、生地の感触など五感に訴えかける経験です。記憶と刺激が脳に一瞬にしてよみがえることも期待され、使う人たちが共有できるものがたくさんあると考えました」

認知症の人の「独立」ではなく、「共生」をデザインする。プロダクト製作の道のり

約3ヶ月の卒業制作期間では、調査と研究、アイデア思考、発展の3段階と、作品についての論文の提出があったという。

「調査と研究は私が一番好きな段階で、情報の質と量を求め、さまざまな人の実体験と統計的なデータの両方を集めました。初めは認知症の人の『インディペンデンス(独立)』が私のテーマだったのですが、調べていくうちに社会における『インターディペンデンス(共生)』というテーマが浮かび上がってきました」

アイデアを思考した際に浮かんだ、約30のアイデアひとつひとつを「Empathy(共感)」の強弱程度や実現可能性など、さまざまな観点から分析したというエミリーさん。

発展段階では、体の動きや使いやすさを重視して最適な色や形を選ぶ。例えばハンドルの形だけでも10個以上の異なる形を用意し、ケアホームに行って認知症の方に試してもらい、それぞれの反応を注意深く観察していったそうだ。

「1ヶ月半ほど経った時点では、立ち向かっている問題の深さや認知症と向き合う精神疲労から、どのような結果になるか全く想像がつきませんでした。しかし、作品発表の場で訪れた人たちが涙とともに介護体験談を話してくれる姿に、改めてこの作品に誇りを持つことができました」

どんな想いであふれる世界にしたいか、デザインの前提を紐解くのは「共感」

ヒューマン・センタード・デザイン(人間中心設計)」が注目されてから、デザインの概念は変わってきている、とエミリーさんは話す。

「『何を売りたいか』という企業の目的から作られる商品よりも、私たちの生活において『どのような課題があるか』を出発点とするデザインが増えています。この社会がどのように機能しているか、システムを理解すると、課題の解決策が浮かび上がってきます。商品やサービスは、ただ社会のなかでいくつかの役割を果たすだけであり、一番の焦点ではありません」

利便性や生産効率など、何かをデザインするうえで考えるべきことはたくさんある。しかし、エミリーさんが今回教えてくれたのは、ものやサービスのカタチを考える前に必要な、「大切にしたい思いは何か」を考えるデザインの前提だ。課題の解決策には「共感」の視点が不可欠で、さまざまな人たちの想いにまず「共感する」ところからはじまるとエミリーさんは話す。

このベイクキンセットはただ「お菓子をつくる」という目的を果たす道具ではなく、大切な人との時間を大切に過ごせるように作られている。身の回りの商品やサービスの前提に「共感」があったら、多くの人が住みやすい世界になるのかもしれない。

最後に、エミリーさんはIDEAS FOR GOODの読者にこのようなメッセージをくれた。

「もし可能ならば、大切な人の残された時間に向き合ってみてください。その人の豊かな人生の経験から必ず何か学ぶことがあるでしょうし、その人もあなたから学ぶことがあるでしょう。私の祖母は2022年9月にその人生の幕を閉じました。この作品は私の家族全員にとって、さまざまな思いを共有できる大切な場を与えてくれました。このベイクキンセットが実はとても身近な認知症とそのケアについて、会話のきっかけになればうれしいです」

記憶が少しずつ曖昧になり、「わからないこと」が増える認知症。どんな思いになるのだろうか。わからなくなる不安をどう和らげることが出来るだろうか。

編集後記

カンヌ国際映画祭出品作品「PLAN 75」や、高齢者の性に着目した映画「茶飲友達」などが日本の高齢化社会での課題を訴える現在、老後の暮らしと高齢者の社会共生は、今後ますます注目されるべきテーマであると感じた。今回のインタビューでは、デザインが持つ力が大きいこと、身近に感じた違和感や疑問にしっかりと向き合うことの大切さを改めて学んだ。

誰もが年を重ねるのだから、可能ならば、いのちの尊厳について正面から考える社会で、心が温かくなるデザインに囲まれて老いていきたい。

エミリーさんのベイクキンセットを、ケアホームやあらゆる場所で見かける日が待ち遠しい。なんだか、お菓子の美味しい香りとともに笑い声が聞こえてきそうだ。

【参照サイト】The Bake Kin Set – Emily Cornuaud
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Edited by Megumi

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