「天気がいいから、今日は自転車で行こう」
パリ在住の筆者の移動手段は、もっぱら自転車だ。メトロの人混みを避け、信号待ちのあいだに川面の光を眺め、用事のついでにカフェへ立ち寄る。それは特別な行為ではなく、この街の日常の一部になっている。
ほんの数年前まで、これは考えにくい光景だった。渋滞とクラクションが鳴り響き、排気ガスが漂うパリで、大通りを自転車で走ることは日常というより挑戦に近かっただろう。しかし街は変わった。2018年から2023年の5年間で自転車交通量は240%増加し、中心部では個人の移動の10回に1回以上が自転車になっている。
この変化は偶然でも一過性のブームでもない。人々が「どう移動するか」だけでなく、「どんな街で生きたいか」という価値観が更新された結果でもあるのだ。

セーヌ川のほとりの多くの道路は、2016年までは一般車両に開放されていた。その道路空間が段階的に再編され、歩行者・自転車優先の空間へと転換されたことで、今のような静かで心地良い川沿いの空間が生まれた。
データが示したのは、「決定打は一つではない」という事実
2025年に発表された最新の学術研究「How to create a sustainable growth in bicycle traffic? The case of Paris(自転車交通を持続的に成長させるには?パリの事例)」は、この変化を長期データから検証している(※)。
114カ所の自転車カウンターによる実測値をもとに、天候や祝日、ストライキといった短期的な変動要因を統計的に取り除き、2018〜2023年に実施された公共政策の影響を分析した。
するとわかったのは、自転車レーンや駐輪場、シェアサイクルといったインフラ整備は不可欠だが、それだけでは持続的な増加は起きないということ。自転車利用を押し上げたのは、複数の政策が同時に進み、重なり合ったことだった。

研究では、政策を大きく五つの領域に分けて評価している。自転車に特化した施策、自動車への制限、他の交通手段の混乱、住みやすさ(リバビリティ)を高める政策、そして経済条件。相互に影響し合う現実をふまえ、相関を考慮できる分析手法で寄与度を見た結果、鍵を握っていたのは「街全体をどれだけ居心地よく変えたか」だった。
「気持ちいい街」が、人の移動を変える
とくに重要だったのが、住みやすさを高める政策だ。パリでは歩行者天国の拡張や広場の再生に加え、2030年までに市の表面積の半分を緑化する「都市の森計画(Forêts urbaines)」が進められている。市庁舎前や主要広場、学校周辺の通りに木々が植えられ、アスファルト中心だった景色は、日陰と居場所のある空間へと変わりつつある。


こうした取り組みは、直接「自転車のため」に行われたものではない。しかし街に「とどまりたくなる理由」が増えると、人の移動は自然と変わる。外に出ること自体が楽しくなれば、エンジンに頼らなくても、歩くことや自転車で走ることが心地よい選択肢になるのだ。
ツールから文化へ。サステナビリティを美学にする
この変化を一貫して後押ししてきたのが、パリ市長アンヌ・イダルゴ氏のリーダーシップである。彼女が進めてきた Plan Vélo(自転車計画) は、単なる交通施策ではなかった。自転車レーンの拡充と同時に、低排出ゾーンの導入や路上駐車スペースの削減を進め、都市空間における「誰を優先するのか」という序列そのものを組み替えていったのである。
その象徴のひとつが、シェアサイクルの「Vélib’」だ。かつてはトラブル続きだったこのシステムは、いまや40万人以上が利用し、通勤や通学、ちょっとした外出の選択肢として定着した。学校周辺の通りは車の入らない空間に変わり、子どもたちは歩き、自転車で通学する。自転車政策は結果として、騒音や大気汚染の低減だけでなく、地域の商業や日常のリズムにも影響を与えていった。

重要なのは、こうした一連の施策が「自転車を増やすこと」そのものを目的に設計されたわけではなかったという点だ。最新の研究が示しているのは、パリが一貫して優先してきたのが、移動手段の転換ではなく、「どのような街が心地よいのか」という問いだったという事実である。
歩きたくなる道、立ち止まりたくなる広場、日陰のある並木道。そうした環境が整えられた結果として、自転車は「選ばされるもの」ではなく、「自然と手に取られる選択肢」になっていった。自転車利用の増加はゴールではなく、住みやすさを高めた先に現れた副産物だったのだ。
だからパリでは、「環境のために車を諦める」という語りは前面に出てこない。代わりに共有されたのは、「自転車でセーヌ川沿いを走るほうが、自分らしくてカッコいい」という感覚だった。街の景観やファッション、ライフスタイルと結びつきながら、自転車はツールから文化へ、義務から美学へとアップデートされていった。
パリの自転車革命は、特別な都市の成功譚ではない。サステナビリティを正しさではなく、憧れとして根づかせることは可能だ──そのことを、この街は日常の風景を通して示し続けている。
※ How to create a sustainable growth in bicycle traffic? The case of Paris
【参照サイト】New Study Shows How Paris Pedaled Its Way to a Cycling Revolution
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