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人間中心主義とは・意味

人間中心主義

人間中心主義とは?

人間中心主義(Anthropocentrism)とは、人間が世界の中心、あるいは最も重要な存在であると主張する哲学的視点を指す。

「ブリタニカ国際大百科事典」やオランダのエルゼビア社が発行する学術誌等の総合データベースサイト「ScienceDirect」では、人間中心主義について以下の記述がある。

  • 人間中心主義は多くの西洋の宗教や哲学に組み込まれている基本的な信念である
  • 人間中心主義では、人間は自然から切り離された存在であり、自然よりも優れた存在であるとみなされる
  • 人間だけが道徳的価値や本質的価値を持ち、他のすべての存在(動物、植物、鉱物資源など)は人類の利益のために正当に利用される資源、つまり道具的価値においてのみ価値を持つ

人間中心主義という言葉は、文脈によって多様な意味を表現するが、一般的には西欧近世の思想の基調をなすものとして捉えられる。

人文主義(Humanism)と人間中心主義の違い

人間中心主義によく似た言葉にHumanismがある。これは日本語で「人文主義・人道主義・人間主義」と訳される。

名詞としての違いは、人文主義が人文学やリベラルアーツを研究する学問であり、文学(特に古典)研究を指すのに対し、人間中心主義は人間を何かの中心に置き、他のすべての考慮事項よりも人間を優先する視点または理論を指す。

またデザインやシステム設計などの文脈で使われる「人間中心設計(Human-centered Design)」は、ユーザーの利便性やニーズに合わせて設計する過程を指す場合が多く、プロダクトエンジニアリング、UXデザイン、まちづくりなどで注目されてきた。この言葉自体には批判的な意味が込められているわけではなく、ユーザーが心地よく商品やサービスを使うためのデザインとして、人間の生活習慣だけではなく、考え方や行動を分析することで生まれたものだ。

人間中心主義の歴史

人間中心の起源

多くの倫理学者は、人間中心の起源をユダヤ・キリスト教聖書の創世記で語られる天地創造の物語に見出している。この一節は、人類が自然に対して優位に立つことを示すものであり、自然界は人類に利益をもたらすものでなければ価値がないという、道具的な自然観を容認するものだと解釈されてきた。

このような考え方は、古代ギリシアの哲学者・アリストテレスの著作『政治学』やイマヌエル・カントの道徳哲学にも見られる。たとえばアリストテレスは著作の中で「すべての動物は人間のために自然によって作られたに違いない」と主張している。

「神中心から人間中心へ」

近代の人間中心主義は、ヨーロッパで14世紀ごろからおこった文化の革新運動「ルネサンス」にまで遡ることができる。

ルネサンスとは元来「再生」を意味する言葉であり、「キリスト教がヨーロッパの文化に影響を与える以前の、古代ギリシアやローマの学問や芸術の復興」と「そうした古典文化の研究を通じて、自由で現実的な生き方を追究しようとする運動」をも意味する(引用元:用語解説 p90-100_人間の尊厳|テオーリア 最新倫理資料プラスウェブ)。

ルネサンスにより、封建的身分制度やローマ・カトリック教会の権威から人々が解放され始め、「神中心から人間中心へ」という考え方の革新がおこる。

たとえばイタリア・ルネサンス期の哲学者ピコ・デラ・ミランドラは著作『人間の尊厳について』の中で、自由意志を発揮することで自らを作り上げていく人間には無限の可能性があるとして、人間の尊厳を強調した。加えて、それが他の動物にはみられないとも考えていた。

大貫義久『ルネサンスにおける「人間の尊厳」について』(言語と文化6号p.29-49、2009年)は、ルネサンス期に明確に表された人間の尊厳という考え方を以下のように説明する。

 十四世紀から十五世紀にかけて、ヨーロッパでは、ペストの流行や戦乱や飢餓により多くの死者が出て、社会は危機的な様相を呈していた。(中略)人々は、はかない人間の生に直面し、改めて「人間」を真摯に見つめ、「人間」と「人間の生きる意味」を問わざるを得なかった。中世以来「神への眼差し」が中心であったヨーロッパだからこそ、危機の時代にあって「人間」へのより強い眼差しがおこった、とも言えよう。つまり、「人間」の「尊厳」という考えは、ヨーロッパのキリスト教世界で形成され、ルネサンス期に明確に表明されたのである。

ルネサンスの運動は人間の主体性を尊重する精神を強め、人間を中心に考える人間中心主義が広がった。

人間中心主義への批判

人間中心主義では、人間は何らかの形で、他の事物や存在の側面に対して唯一無二の存在であるという大前提がある。そのため、特権的な人間とそれ以外のものとの間に二元的な対立が成立する。

人間中心主義擁護派は、この特権性について以下のように述べる。

  • 他のすべての存在(動物、植物、鉱物資源など)にはできないような行動をとる人間の能力によって、人間の特権性は証明される
  • 人間が神に似せて造られ、そのために他の種との関係で特別な位置を与えられているという点で、人間の特権性は宗教的啓示に由来する
  • すべての人間が尊厳をもって扱われることを保証するために肯定されるべきである

一方で、人間中心主義を否定する人々は、人間中心主義が人間と世界との関係についての誤った理解に基づいており、それが環境破壊や浪費、人間以外のものに対する暴力につながっていると主張する。

人間中心主義を否定する人々は、人間中心主義を擁護する立場から発せられる倫理観が、尊敬や尊厳、平等を永続させるものではなく、実際には抑圧、支配、征服を伴うものであり、それを正当化するものではないか、と人間中心主義が成り立つ論理的前提に疑問を投げかけている。

環境倫理学と人間中心主義の関係

環境倫理学とは「人間と自然の関係についての道徳的なあり方を考える学問」を指す(引用元:環境倫理学|EICネット)。

今日の地球環境問題への人々の関心に大きく寄与しているのが、1967年にアメリカの科学史家リン・ホワイト・ジュニアが『サイエンス』誌に発表した論文「現在の生態学的危機の歴史的根源」である。

岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』(朝日新聞出版、2023年)によると、リン・ホワイトは近代の科学と技術の発展によって自然界が汚染されたという発想をキリスト教にまで広げた。リン・ホワイトによれば、“キリスト教は人間中心的な宗教であり、人間が自分のために自然を搾取することが神の意志である”と考えた。そして19世紀の半ば、その考えを持つ宗教から科学と技術が発展し、生態学的危機が引き起こされたとした。

同書には、リン・ホワイトの「われわれの科学と技術とは、人と自然との関係に対するキリスト教的な態度から成長してきた」という主張は、“キリスト教や科学技術といった西洋の根幹をなすものが、環境破壊の根本的な問題として断定された”ことから衝撃をもって迎えられた、とある。

この主張をきっかけに、環境を論じる上で人間中心主義への批判は一般的な手段となった。

コルヌコピア的視点

世界的に環境問題が取り沙汰される中で、人間の視点から物事を見る人間中心主義的なものの見方と、それに異論を唱える人たちの間でさまざまな議論が行われている。

人間中心主義の哲学者の中には、コルヌコピア的視点(cornucopian point of view)を支持する者もいる。cornucopiaとは豊かさの象徴を表す単語で、コルヌコピア的視点は、地球の資源には限りがある、あるいは人間の無制限な人口増加が環境収容力を超えるという主張を否定するものである。

コルヌコピア的視点を支持する哲学者たちは、資源の限界や人口増加の予測が誇張されているか、将来の欠乏問題を解決するために必要な技術がいずれ開発されるかのどちらかを主張し、いずれの場合も、自然環境を保護したり、資源の搾取を制限したりするための法的規制は、道徳的にも現実的にも必要ないと考えている。

道徳的な視点

一方、他の環境倫理学者たちは、人間中心主義を捨てることなく環境を大切にすることは可能だと提案する。「プルデンシャル人間中心主義」や「啓蒙的人間中心主義」と呼ばれることもあるこの考え方は、人間には環境に対する倫理的義務があるが、それは他の人間に対する義務という観点から正当化できるというものである。

たとえば環境汚染は、工場からの大気汚染によって病気になった人々のように、他の人々の生活に悪影響を与えるため、不道徳と見なされることがある。同様に、天然資源を浪費的に使用することは、次世代からそれらの資源を奪うことになるため、不道徳とみなされる。

1970年代、神学者であり哲学者でもあるホームズ・ロルストン3世は、この視点に宗教的な条項を加え、生物多様性を保護しないことは神の創造物に対する無礼を示すことになるため、人間には生物多様性を保護する道徳的義務があると主張した。

自然界には本質的な価値があるという視点

環境倫理が学問分野として確立する以前は、「米国自然保護の父」と呼ばれるジョン・ミューアやアメリカの著述家であり生態学者でもあるアルド・レオポルドのような自然保護論者が、自然界には本質的な価値があると主張していた。

1970年代、環境倫理学という新たな学問領域で活躍する学者たちは、人間中心主義に対して2つの根本的な異議を唱えた。それは、人間が他の生物よりも優れていると考えるべきなのかどうかという疑問と、自然環境は人類への有用性とは別に、本質的価値を持っている可能性を示唆した。

その結果として生まれた生物中心主義(biocentrism、生命中心主義とも訳される)の哲学は、人間をある生態系における数ある種の中の一種とみなし、自然環境は人間によって利用される能力とは無関係に本質的に価値があるとする。

新たな立場

アメリカの哲学者のブライアン・ノートンは、環境倫理学において人間と自然といった二項対立が強調される、人間中心主義と非人間中心主義を巡る議論において、対立的ではない新たな立場をとった。

ノートンは、人間は生態系の一部として存在しているという認識に基づいて、「ヒトという種全体の利益に役立つ政策は、長期的には、自然の『利益』にもまた役に立つだろうし、その逆もまたしかりである。環境主義者たちは、このように信じている」と主張した。ノートンが提唱した「収束仮説」は、価値観の異なる環境活動家であっても、生態系に関する自然科学的知見に基づいて最適な判断と合意に達することを意味する。

また、デザインの分野においては、人間目線だけでデザインするのではなく、植物や動物など他の生命を考えて設計する「Life-Centred Design(ライフ・センタード・デザイン、日本語では『すべてのいのち中心設計』」という概念も登場している。

人間中心主義をとりまく議論は続く

先で紹介したノートンの収束仮説に、当然ながら否定的な立場をとる人はいる。

そもそも、冒頭で述べたように、人間中心主義という言葉は文脈によって多様な意味を表す。人間中心主義の捉え方そのものが、立場によってさまざまな形態をもつ。

たとえば先述したように、多くの倫理学者が人間中心の起源をユダヤ・キリスト教聖書の創世記で語られる天地創造の物語に見出している。ルネサンスにより「神中心から人中心へ」という考え方の革新が起こったが、人間中心主義擁護派が述べる特権性にもあったように、人間中心主義の前提には元々神の存在がある。それが近代へ移行する中で、宗教的次元から離れていった。

上記については、宮川雅『エマソンと三分説の伝統、または、宗教という名を使わない宗教』(ストラータ同人会『ストラータ』第1号、1986年)のルネサンス以降推し進められた人間中心主義に関する記述が興味深い。

(前略)近代ヨーロッパの歴史は、ルネッサンス・ヒューマニズムがもっていた神秘学的基盤を捨てながら人間中心主義を押し進めた。(中略)ルネッサンス以降数世紀の経過のうちに、近代的人間の主体的自由の運動は、近代史の根本動力となり、人間存在は自らの被造物規定を脱ぎ棄てる。テクノロジーによる自然の征服は、人間の支配領域を拡大し、人間存在は自然的=歴史的世界の創造者、支配者としての地位を確立してゆく。しかしこの人間中心は、真に自己独立的なものとしての人間存在の根拠づけを、存在論的、宗教的次元における根拠づけを、欠いている。

また渋山昌雄『「人間であること」の重要性と人間中心主義』(生命倫理15巻1号 p. 144-150、2005年)は、環境倫理学や環境思想の領域における「人間中心主義から生命中心主義へ」というスローガンに対し、“「人間を中心におく」という人間の主体的表現を現代の私たちは本当に放棄しなければならないのだろうか”、“人間であることは本当に重要ではないのだろうか”と疑問を呈している。

これは「人間であること」に焦点を当てた場合の人間中心主義の捉え方である。

筆者は「生命中心主義」の「生命」という語感が、人間を含めた生命全体の意味合いから、人間以外の「生命」、つまり動植物および環境的意味合いへと変化しつつあることが、生命倫理や教育倫理の観点において、“「人間の生命の軽視」と「人権の根拠づけの喪失」につながり、同世代・未来世代に対しての人間の中心性(主体性)と義務・責任の意識を剥奪してしまっているのではないか”と懸念する。

上記は環境問題の要因として取り上げられる人間中心主義とは異なる着眼点で捉えているが、昨今、脱・人間中心主義的な考え方の流れが見てとれる中で、このような視点で論じられる場面も今後表れることだろう。

【参照サイト】Anthropocentrism | Human-Centered Philosophy & Ethics | Britannica
【参照サイト】Anthropocentrism – an overview | ScienceDirect Topics
【参照サイト】学習メモ|第16回 人間尊重の時代へ | 倫理 | 高校講座
【参照サイト】ピコ・デラ・ミランドラはどのように「いにしえの神学」を受け継いだか
【参照サイト】Humanism vs Anthropocentrism – What’s the difference? | WikiDiff
【参考文献】「人間であること」の重要性と人間中心主義

【参考文献】Gavin Rae『Anthropocentrism』(Encyclopedia of Global Bioethics (pp.146-156)、2016年)
【参考文献】大貫義久『ルネサンスにおける「人間の尊厳」について』(言語と文化6号p.29-49、2009年)
【参考文献】岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』(朝日新聞出版、2023年)
【参考文献】神崎宣次『ブライアン・ノートンの収束仮説および関連する思想の批判的検討 環境倫理学における実践上の有効性、価値、動機という問題』(倫理学研究39 巻 p. 146〜、2009年)
【参考文献】宮川雅『エマソンと三分説の伝統、または、宗教という名を使わない宗教』(ストラータ同人会『ストラータ』第1号、1986年)

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