【後編】それでも、海と生きる。震災と津波を乗り越えた気仙沼に学ぶ、自然と共生する暮らし

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水産で栄え、食を軸としたまちづくりを行う宮城県・気仙沼市。前編では、同市が食を起点にまちづくりを始めた経緯や、その具体的な取り組みについて聞いた。後編では、2011年の東日本大震災後、復興の中で決めた覚悟や、復興を通して今に至るまでのストーリーを、前編に引き続き同市のスローフード気仙沼の理事長である菅原昭彦さんと、気仙沼市震災復興・企画課の神谷淳さんに聞いていく。

震災で実感した、海の存在の大きさ。「それでも海と生きていく」覚悟

まちづくりの方向性を見失い自信を失っていた時代から、食を軸としたまちづくりを始めたことで、だんだんと誇りを取り戻していった気仙沼。そんな中、2011年3月、東日本大震災が起こる。気仙沼の海添いの地域は津波の大きな被害を受け、その後の火災などにより多くの人が亡くなった。

震災を受けて気仙沼で作られた復興計画の副題が、「海と生きる」だ。この表題は、何度も津波に襲われながらも、それでも海と関わる暮らしを続けてきた気仙沼の、新たな覚悟の表明だと菅原さんは話す。

「『海と生きる』は、心にストンと落ちる言葉だね。

震災にあって津波が来たことで、普段は海に関わっていない人たちも、海の存在の大きさを改めて思い知ったんです。それは、怖さも含めてね。津波の被害を受けたのは海辺だけで、面積でいうと市内のたった5.6%しかありません。でもその中に、事業者の8割、住居の半数近くがありました。こうしたことで、海の存在の大きさを町として痛感したのです」

「歴史的にも、ここは津波がよく来る地域なんです。頭を超えるくらいの津波は何回も来ているし、多くの人命が失われています。それでも気仙沼の人たちは、その度に海辺に暮らすことを選んできたのです。

ひとつ面白い史実がありましてね。明治29年に2011年と同じ規模の津波が来て、その時もこの三陸沿岸で約2万人が亡くなったそうです。さすがに危険だからと漁村のひとつが高台に拠点を移しました。しかしそうすると、よそからきた人たちが海辺に入ってきて、海を荒らし始めた。それを見てられないと思った漁村の人たちは、どんどんと海辺に出てくるようになって、結局は元の生活に戻ってしまったのだそうです。本当に、この町ってそういうことを繰り返してきてるんだよね。

もちろん、災害に対してある程度の備えをしておくことは必要です。でも、こうした歴史があるからこそ、この先も覚悟を持って海と生きていこうよ、というのがこの表題に込められた意味なんです。『“それでも”海と生きる』と言うのが、正しいかもしれません」

魚町フラップゲート式防潮堤について説明した看板。震災後に海辺に作られた防潮堤も、菅原さんが中心となって住民と共に100回を超える議論を行い、海と町を完全に切り離さないフラップゲート式防潮堤に決定した。

震災後に海辺に作られた防潮堤も、菅原さんが中心となって住民と共に100回を超える議論を行い、海と町を完全に切り離さないフラップゲート式防潮堤に決定した。

漁師が持つ「自然への畏れ」が、町の精神性に

海と共に生きる決意のもと、気仙沼が改めて大事にしていこうと決めたのが、「漁業の文化」だ。そこで気仙沼は、「日本一漁師に感謝するまち」というスローガンを掲げ、市民への教育や、漁師のための飲食店や銭湯の整備などを行っていった。震災後に真っ先に行われたのも、津波で壊滅した漁港の整備だったという。

「実際に漁業に関わっているのは人口の半分以下ですし、山の方で暮らしていると漁業が身近に感じられないこともあります。しかし、漁師さんが稼いできてくれるおかげで、我々はこの地で商売ができます。当たり前すぎて忘れてしまいがちなのですが、彼らがいなかったら、気仙沼の経済も文化も成り立たないのです」

気仙沼の経済を支えている、漁業や漁師たち。しかし、漁業の文化を大事にするという言葉の中にはさらに深い意図があると菅原さんは続ける。そのひとつが、海という自然と対峙するからこそ生まれる、「漁師の精神性」だという。

「気仙沼には、遠洋、近海、沿岸、養殖の4種類の漁業があり、これは他のどこにもないほど多様なんです。水揚げ量は日本の漁港の中でトップ10に入り、日本全国、海外からも漁船が来ています。陸では孤島ですが、海は世界に開かれているんですね。

4種類の漁業の漁師さんには、それぞれ特徴があります。海外にいることも多い遠洋の漁師さんは考え方がグローバルだったり、日本各地をわたり歩く近海の漁師さんは、誰とでもカジュアルに接する人が多かったり。

ただ総じて言えるのは、海という自然と対峙する人たちだから、みんな自然への畏れみたいなものを持っているということ。そして、海の上は常に自分の命を自分でなんとかしなければいけない世界ですから、独立の気概も強い。

こうした漁師や海から来る精神性は、例え直接的に漁業に関わっていなくても、きっと我々のDNAのどこかに宿っていて、気仙沼の文化を作っている。ですから、これを町の誇りに変えていくべきだと考えたのです」

新設された魚市場の上階には、漁師の仕事や漁の様子を知ることができる展示も。

新設された魚市場の上階には、漁師の仕事や漁の様子を知ることができる展示も。

もうひとつが、気仙沼の持続可能な漁業のあり方だ。これは、気候変動や環境問題が取り沙汰されるようになるはるか昔から、この土地に根づいてきた、まさに文化と言えるものだ。

「気仙沼の養殖は、人工の餌を使いません。海水に含まれる栄養だけで、牡蠣やホヤが育つからです。また、網にかかった小さい魚は逃がしますし、必要以上に魚を取ることもありません。それは、SDGsや環境保全がどうという以前に、そうした魚を今取ってしまうと、自分たちが将来魚を取れなくなる、漁業が持続可能でなくなることがわかっているからです。

また、取った魚を無駄なく使う食文化もそうです。内臓は煮たりあら汁にしたりして食べますし、骨はせんべいに、皮は革製品に……と、余すところなく利用する。そうした文化は、これからの時代に必要とされていくものだと思っています」

漁から帰った漁師のための、朝食用の飲食店「鶴亀食堂」。空いていれば、一般の人でも入ることができるが、あくまで漁師が優先だという。左側は内観、右側は入り口の暖簾の写真。

漁師を応援する飲食店「鶴亀食堂」。

(左)鶴亀食堂のいちおしメニュー、メカジキのカマ煮。(右)券売機。ごはんセットの下には、「就漁の相談」というメニューも。

(左)鶴亀食堂のいちおしメニュー、メカジキのカマ煮。(右)ごはんセットの下には、「就漁の相談」というメニューも。

漁師のための銭湯。正面には漁師さんの活躍を描いた絵と、漁の安全を祈る神棚が。

漁師のための銭湯。正面には漁師さんの活躍を描いた絵と、漁の安全を祈る神棚が。

気仙沼にとってスローシティは、「豊かさを次世代につなげる」こと

前編で紹介した食を軸としたまちづくりや、震災後の漁業文化の見直し。こうした気仙沼のスローなあり方が認められ、同市は2013年、被災地として初めて、そして国内初となるスローシティ認証を受けることとなった。

スローシティ運動は、スローフードと同じくイタリアで立ち上がった「チッタ・スロー」という団体が行う、地域性や持続可能性を重視した市民や地域の主体的なまちづくりのことだ。地域の食文化や自然を尊重する、スローフードの理念に基づいた町づくりを行う5万人前後の小規模な町をスローシティとして認証し、そうした町を世界中に増やしていくことが目的である。2024年現在、欧州を中心に33か国297都市が加盟しているという。

気仙沼市役所の震災復興・企画課の神谷さんは、スローシティの認証を受けたことについて、「認証を取得するために特別なことは何もしていない。それまでの気仙沼のあり方が、認証にピタっとはまっただけ」と語る。

「スローシティという言葉自体が市民にどれだけ浸透しているかは、正直なところわかりません。でも、大事なのは言葉を知っていることに加えて、日々の生活の中でその理念に当てはまる行動を行っているかどうかではないでしょうか。

例えば、牡蠣の養殖が盛んな唐桑地域にある『唐桑小学校』では、小学校高学年で、3年間かけて牡蠣の種付けから水揚げまで、一連の流れを体験します。このように、子どものころから自分たちの地域にある自然環境や食の恵を見たり体験する。こうした取り組みは、スローシティの一端を担っていると思います。

自分も唐桑の出身で、小学生の時に定置網体験をしたのを覚えています。その当時はスローシティなんて言葉は知りませんでしたが、今思えばそうした活動がスローシティのあり方とつながっていたんだな、と思うのです」

「また、スローシティ認証の中には『社会的包摂』という基準があります。これは、『お互いに助け合って暮らしていこう』という意味です。自然環境というベースだけがあっても、それを享受する人がいなければ、意味がありませんよね。ですから、そこに暮らす人たちが、『ここに暮らしていて良かった』と感じられる町であること、『あの人って今どうしてるんだろう?』といった気配りが何気なくできること。そうした豊かな気持ちを持つことも、スローシティの一端であると思います」

最後に神谷さんは、「スローシティは、豊かさを次世代につなげること」だと話してくれた。

「意識はしていなくても、みんなその上にいる。だから、それが自分が寄って立つものであるということを、忘れてはいけないと思います。

気仙沼には、漁業や農業など、自然があるからこその営みがある。これらは生活の基本でありながら、決して当たり前のものではありません。この先もこの自然の恵を享受できるかどうかは、私たちがこれからどう行動するかにかかっています。ですから、一人ひとりがそのありがたみを感じながら、助け合って暮らしていく。それが、最も大事なことだと思うのです。我々は、生きているのではなく、生かされている。そう感じているからです」

編集後記

「自然と共に生きる」

よく聞かれるフレーズだが、振り返ってみれば、筆者自身それがどんな生き方なのかを深く考えたことはなかったように思う。そのひとつの答えを教えてくれたのが、今回出会った気仙沼の人たちだ。

私たち人間が、自然なしでは、食べることも暮らすこともできない存在だと知ること。受け取った自然の恵みに、きちんと感謝すること。そして、時には人間の力が及ばない自然の恐ろしさに真正面から向き合い、それも受け入れること。

「自然と共に生きる」こととは、そんな風に、“人間の小ささ”を認識し、謙虚な態度を持ち続けることなのではないだろうか。それは、速まり続ける現代社会のスピードを自然のリズムにもう一度合わせ直し、丁寧に、ゆっくりじっくり、つまりスローに生きることにもつながる。

私たちはそうした感覚を、複雑で巨大になりすぎた経済システムや都市の中で、つい忘れてしまいがちだ。

だからこそ、気仙沼にぜひ一度行ってみて欲しい。山に囲まれた海を眺め、新鮮なお魚やお野菜をいただき、機会があれば地域の人たちと話してみて欲しい。きっと、私たちが今一度思い出すべき自然の大きさと、その腕に抱かれて生きるからこその豊かさを、身体で感じられるのではないかと思う。

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