デジタル疲れの自覚はある。けれどもスマホに手が伸びる──。
正直なところ、筆者もその一人だ。世の中ではSNSの中毒性が指摘され、2025年12月にはオーストラリアで16歳未満のSNS使用が禁止されたことが話題となった。
その中毒性を浴びているのは、大人も同じ。“自ら判断できる年”になったのだから限度を管理できるはずなのに、知らぬ間にSNSを開き続けてしまうのだ。この中毒性は広く認識され、既にさまざまな解決策が世に出ている。SNSを開く前に深呼吸を促すアプリや、デジタルを手放してカフェで過ごすオフラインクラブなど、記事でも度々触れてきた。
しかし、一度身についてしまった癖を直すのは難しい。筆者の場合、いくつかの制限をかけてもスマホを開いてまずインスタグラムに指が伸びてしまう癖があった。開いてしまえば、目的もなくインスタグラムのフィードをスクロールしてしまう。
自分が社会で指摘される“中毒”に陥りつつあることに嫌悪感を抱き、2026年に入っていくつかのSNSに具体的な制限をかけ始めた。数週間が経ち、実はスクリーンタイムはあまり変わっていない。それでも、精神面では変化があり少し暮らしが楽になった。
もし同じく「デジタル疲れの自覚はあるけれど、スマホに手が伸びる」という習慣を直そうと苦戦する人がいたら、一例ではあるが筆者の例が助けになれば幸いだ。
あまり未来の自分を期待しない設定に
残念ながら、癖は癖だ。どうしても指はインスタグラムやらFacebookやらを開こうとする。だから開くのをやめようとしても「1回だけ」と思って開いてしまう。アプリ内の使用時間制限をかけても「延長」のボタンを気安く押してしまう。
それならば、より強固なシステムの力を借りるしかない。筆者は、ScreenZenという、指定のアプリを開くためには、指定した秒数を待たなくてはいけない制限をかけるアプリをダウンロードした。30秒待っている間には、自分で設定した代替アプリへ遷移するボタンまで表示される。また30秒待って開ける1日あたりの回数と、一度開いた際の強制終了時間も設定できる。
結果は、効果ありだった。ただし一つ弊害があった。当初、インスタグラムだけではなくFacebookとショッピング系アプリ、LINEもブロック対象に登録した。しかし家族や友人と連絡をとっているLINEもブロックしてしまうと、さっと連絡したいことにも時間がかかるようになってしまったのだ。これだけは支障が大きかったので「もしLINEを何度も開くようなら再登録しよう」と思い、LINEは自由に使えるようにした。
その調整後、良いバランスが取れている。どうしてもSNSを開かなくてはいけないときは、30秒待つ間に「このあと5分間にアプリで何をすべきか」という目的を明確にするので、無駄にスクロールすることは減った。
SNSをやっと制限できて、楽になったこと
習慣を変えてみて、何よりも感じるのは、心が楽だということ。これまで筆者は、社会の話題やイベントのお知らせ、ボランティアやインターンの機会もSNSを通じて得てきた。だからこそSNSを「ツール」として使いこなせていると思い込んでいた。
しかし、それは「思い込み」だったのかもしれない。際限なくスクロールできてしまうアプリデザインは、ユーザーの意思に反して時間を奪いかねない。
SNSを制限することに慣れた頃、「なぜSNSでスクロールしていたのか」を考えてみた。それは何かしらの刺激やインスピレーションを求めてアクセスしたに過ぎないのだが、気づけば目的を見失いコンテンツを消費“させられて”いた。この意図せぬ受動さが嫌悪感に繋がっていたのだろう。
今は、自分が何をしたいのかが理解しようとして、行動を管理できる。無意味にコンテンツを消費するのではなく、自分で選んだ本や映画を含むツールから、求めていたインスピレーションを受け取ることができるのだ。この能動さを少し取り戻した状態に対して、筆者は「楽になった」と感じている。
それでも、テクノロジーは悪ではない
しかし一つ、心に引っかかっていることがある。SNS離れが一部で進む中「SNSを楽しんでいる人」の印象がネガティブになりかねないことだ。
SNSから距離を置いた方が良いという声や、SNSを手放す著名人、デジタルデトックスやアナログ回帰の風潮が強まるほど、「SNSを使っている自分は駄目なのではないか」「私だけこんなにスクロールし続けているのだろうか」と不安を掻き立ててしまうかもしれない。
しかし、これは必ずしもデジタルを使う「量」の問題ではない。どのコンテンツをどう楽しむことが自分にとって心地良いのかを理解でき、自分の意思に沿った自律的な使い方ができれば良いはずだ。
例えば最初に記した通り、筆者のスクリーンタイム(デジタルの消費量)は減っていないので、デジタルデトックスはできていない。ただ、そもそもデトックスするつもりはなかったので問題ないと捉えていて、現在自ら選んで消費しているコンテンツやその時間に嫌悪感はない。
摩擦のある“不便な”デジタルテクノロジーはありうるか
では、デジタルテクノロジーそのものはどうか。多くのユーザーが悩みや違和感を抱えているならば、改善の余地はあるだろう。
テクノロジーの発展は、ユーザーの手間や待ち時間を減らすことを良しとしてきた。つまり摩擦のないシームレスなデザインを目指してきたのだ。しかし、あまりにもアクセスの摩擦がなくなったことで、私たちが本来他のことに使うつもりだった時間も流れ込むようになっている。
筆者が設定した「30秒の待ち時間」は、いわばその最善のUXに対してわざわざ作った壁だ。滑らかすぎるデジタル社会に対し、意図的に「摩擦」を設けたのかもしれない。
こうして制限をかける人は一定数存在する。それならば、今まで最善とされた手間も待ち時間もないUXは、必ずしも最善ではなかったことになる。これからはむしろ、これまで排除されてきた「摩擦」のような手間や、コンテンツを消費しない時間があるUXの方が、デジタルテクノロジーにおいても評価されていくかもしれない。
アナログ回帰の流れも、非デジタルであることが評価されているのではなく、デジタルでは不要な摩擦として排除されてきた手間や偶発性が存在することが評価されているのだろう。
あえて、今まで不便とされてきた要素を取り入れて設計すること。それにより、受動と能動の線引きを可能にし、個人の自律が保たれること。そんな“不便な”デジタルテクノロジーが求められていくとしたら、社会はどう変わっていくだろうか。
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