私たちは日々、料理をし、洗濯をし、掃除をし、ときには家族の世話をする。だが、その多くは対価を伴う「仕事」とみなされることはない。では、もしこの“見えない労働”にお金が支払われたら、社会はどう変わるだろうか。
インドでは今、こうした問いに向き合う試みが進んでいる。複数の州において、合計で約1億人以上の成人女性に対し、毎月無条件の現金給付が行われているのだ(※1)。支給額は1,000〜2,500ルピー(約1,900〜4,800円)。世帯収入の約5~12%に相当する額だ(※2)。
この施策の背景にあるのは、根深いジェンダー不平等の問題だ。インドのタイムユース調査によれば、女性は1日平均289分を家事労働に費やしているのに対し、男性はわずか88分にとどまる(※3)。さらに、こうした無償労働はGDPの15〜17%に相当する価値を持つとも推計されている(※4)。
しかし、この膨大な労働は国家の経済統計にはほとんど反映されず、「存在しないもの」として扱われてきた。その結果、女性は家事やケアの負担によって就労機会を制限され、経済的な自立から遠ざけられている。
給付金は、家庭内の労働に対するものだと明言されてはいない。しかし、この政策は、単なる貧困対策を超え、長年経済統計から除外されてきた、女性のケア労働という構造的な問題を見直すきっかけとなっているのだ。

では、この政策は実際に何を変えたのだろうか。調査によると、給付金の導入後、家計の意思決定を「男性が単独で行う」割合は28.4%から18.8%へと減少した(※5)。また、西ベンガル州では、受給者の90%が自身の銀行口座を管理し、86%がその使い道を自ら決定していると報告されている(※6)。
女性たちはこの資金を、食料、子どもの教育費、医療費などに充てている。夫に金銭面で頼らなくてもよい状況は、単なる経済的変化にとどまらず、自尊心や自律性の回復、そして家族の中での発言力の向上につながったという報告もある(※7)。
一方で、この政策の限界も明らかになっている。給付額を労働時間で換算すると、時給は10〜21ルピー(17~36円)程度にしかならず、最低賃金を大きく下回る(※8)。家事労働の「正当な対価」と呼ぶにはほど遠い水準だ。
さらに重要なのは、現金を受け取っても、女性の家事やケアに費やす時間そのものはほとんど変化していないという点である。つまりこの制度は、労働の負担を軽減するものではなく、あくまで「現状を認める」仕組みにとどまっている。
加えて、別の懸念も指摘されている。多くの制度では、給付対象が「女性」や「主婦」であることを前提としている。これは裏を返せば、「女性は家庭内でケアを担う存在である」という前提を強化しかねない。つまり、「対価を支払うこと」が、かえって性別役割分業を固定化してしまうリスクもあるのだ(※9)。
このように、現金給付は女性の自律性を高める有効な手段である一方で、構造的な不平等を解消する決定打ではない。では、何が必要なのか。
北欧諸国では、公共保育や男女双方の育児休業制度への投資によって、ケアの負担を社会全体で分担する仕組みが整えられている。またイタリアでは、ケアを専門職として担う社会的協同組合のモデルが広がりつつある。つまり重要なのは、「ケアにお金を払うこと」そのものではなく、ケアの責任を誰がどのように分担するのかという問いである。
インドのこの実験は、ひとつの明確な答えを提示しているわけではない。むしろ私たちに、新たな問いを投げかけている。ケアは、誰の仕事なのか。それは家庭の中に閉じられるべきものなのか、それとも社会全体で分担し、支え合うべきものなのか。そして、私たちは日々の暮らしの中で、どれだけの「見えない労働」に支えられているのか。インドで始まったこの試みは、私たち自身の社会のあり方を見つめ直すためのヒントなのかもしれない。
※1,6 A wage for housework? India’s sweeping experiment in paying women(BBC)
※2,7 In world-first program, Indian women receive ‘unconditional’ cash transfers for unpaid domestic labor(Good Good Good)
※3 Cash Transfers as an Instrument for Poverty Alleviation and Women’s Empowerment in India
※4,8,9 What Does It Mean When the State Pays Women to Be “Women”?
※5 THE EFFECT OF GENDER-TARGETED TRANSFERS: EXPERIMENTAL EVIDENCE FROM INDIA
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