醤油の味は、蔵に棲む菌がつくる。有田屋に学ぶ、見えないものと生きる知恵【ツアーレポ】

Browse By

私たちが生きるために欠かせない、食。それは、毎日の営みを支えるインフラでもあり、日々を豊かに彩る存在でもある。

そんな食品の価格が上がる昨今。もっと手頃な価格で手に入れば……と、ついつい感じてしまうこともあるかもしれない。しかし、そんな今だからこそ、私たちは食の「本当の価値」を改めて問い直してみる必要があるのではないだろうか。

こうした背景から、IDEAS FOR GOODは2025年秋から冬にかけて、身近な食材の生産者や流通の現場を訪ね、食の価値と主体的に向き合うための全6回の体験シリーズイベントを企画した。

第5回に訪れたのは、群馬県安中市で昔ながらの「天然醸造」の製法にこだわった醤油を作り続ける醤油醸造所「有田屋」だ。

美しい山々と清らかな水が流れ、醤油づくりに適した豊かな風土を持つ安中。この地で江戸時代に創業した有田屋は、190年以上にわたり大量生産の波にも屈せず伝統の味わいを守り続けてきた。

創業190周年の節目には、醤油の原料を育てたり地域のトンネルを発酵の場として活用したりと、より安中の風土や空気を取り入れた醤油作りを追求する新たな挑戦にも乗り出している。

微生物という小さな生命、土地の風土、職人の力、時間……そうした人間の目には捉えきれないものが織りなすのが、醤油のような発酵食品だ。今回はそんな醤油と有田屋の思想を通して、私たちが日頃見過ごしてしまいがちな“目に見えないもの”を見つめていきたい。

微生物が味を決める。代々受け継がれる有田屋の醤油

創業当時は、城下町だった安中の地で安中藩の御用商人として味噌や醤油の醸造を生業としていた有田屋。本業の醸造業だけでなく、教会や日本初の図書館の設立など、安中市の社会や教育、文化の発展にも貢献してきた。

最も大きな特徴は、人工的に手を加えて急速に発酵させる製法が一般的となった今も、天然醸造のもろみを2年じっくり寝かせた最高級の醤油を作り続けていること。その芳醇な香りとまろやかな味わいには定評があり、一流シェフや海外からのリクエストも絶えない。

ツアーではまず、そんな醤油づくりの最後の工程である醤油絞り体験を行った。絞るのは、発酵熟成を終えて味噌の塊のようになった醤油の「もろみ」。これを、「濾布(ろふ)」と呼ばれる布で絞る。

まずはろふをマスのような搾り機の枠に沿うように取り付け、そこへもろみを流し入れる。流し入れたもろみを手で平らにならし、濾布を一辺ずつ折り込んで包んでいく。同じように何枚か重ねたら、体重を使って上から圧力をかける。すると、布の下の空間に溜まった液体が外へ流れ出てくる仕組みだ。

体験の間、醸造の責任者である齋藤晋さんが、有田屋の醤油の味について解説してくれた。

齋藤さん「醤油の味を決めるのは、蔵に住み着いている『蔵付き菌』なんです。近年では事前に培養した菌を添加して作る方法もありますが、有田屋の醤油は、この『蔵付き菌』の力だけで発酵させています。まず乳酸菌がもろみの環境を整えて酸性に導く。その後、主役である酵母が発酵を始め、その次に熟成を始める、といった具合ですね。

このため、発酵というプロセスを経て生まれる産物に、全く同じものは二つと存在しません。熟成期間がわずかに異なるだけでも、その味わいは繊細に変化します。ただし、代々受け継がれてきた有田屋の味の『核』が揺らぐことはありません。それはやはり、昔から蔵に生きる『蔵付き菌』が“有田屋の味”を作ってくれているからです」

醤油絞り体験の様子

醤油絞り体験の様子

醤油蔵の様子

実際に醤油が作られている蔵も見学。明治時代から使われている石蔵に、発酵途中の「もろみ」がたっぷりと溜まっている。

安中だからこその醤油を。190周年で提唱した「あんなかテロワール」

蔵に住む菌が味を決める──有田屋の醤油づくりは、明治時代から続くこの場所とは切っても切れない。そしてそれは蔵だけではなく、安中の地域全体に対しても同様だ。微生物に始まり、安中の風土、水、空気、陽の光……そうした土地に根ざす全ての要素が、有田屋の醤油づくりの根幹にはある。

有田屋第7代当主の湯浅康毅(ゆあさこうき)さんは、そうした安中の“土地の恵み”をさらに生かしたものづくりを行おうと、新たな挑戦を始めている。それが、190周年の際に提唱した「あんなかテロワール」だ。

テロワール(terroir)とは、フランス語で『土地や風土』を意味する言葉。ワインの原料となる葡萄が育つ土壌や気候などの環境を指し、ワイン業界では、その個性を決定づける大切な要素とされている。この思想を醤油づくりに、そして安中に応用したのが「あんなかテロワール」である。

湯浅さん「2025年で創業194年目。大きな災害にも見舞われず作り続けられているのは、とてもありがたいことです。安中にお世話になってきた会社として、やはりこの地に恩返しできるようなことがしたいと考えたのです」

有田屋第7代当主・湯浅康毅(ゆあさこうき)さん

有田屋第7代当主・湯浅康毅(ゆあさこうき)さん

湯浅さんが語る、安中への恩返し。そのひとつが、安中に広がる耕作放棄地や遊休農地を活用し、地元で醤油の原料を作ることだ。実践しているのは、循環型農業。農薬を一切使わず、雑草を堆肥に、米ぬかを追肥に使うなど、土地の力を復活させることを大切に、ひとつの農地で大豆や小麦、菜種を順番に育てている。農業の専門家と共に進めてきたという。

湯浅さん「土が極度に乾燥していたり、手を入れるほどぬかるんでしまったりと、放置されていた土地ならではの様々な困難もあります。しかし、初年度は菜種の栽培に成功し、2025年には初めて大豆も栽培することができました」

この農業活動には、湯浅さんが学園長を務める安中市の新島学園中学校・高等学校の生徒たちも巻き込んでいる。生徒たち自身が種の植え付けや収穫、菜種油の搾油などを行うことで、現代社会の中で生活との距離ができてしまいがちな「食を育むこと」を体験させているのだ。

大豆

ツアーでは、実際に栽培を行なっている畑も見学した。大豆は夏の猛暑により、本来の背丈まで伸びなかったが、安中で、自分たちの手で大豆を栽培できたことは大きな前進だという。

畑見学の様子

「湯浅家やこの新島学園がベースとしているキリスト教では、『神は人を土から作った』という教えがあります。だからこそ、若いうちから土に触れることが大事だと考えています」(湯浅さん)

そして、「あんなかテロワール」の中で新たな挑戦として作った商品ラインナップのひとつが、碓氷トンネルの中で二次発酵させた「碓氷隧道仕込天然醸造醤油」だ。

碓氷トンネルとは、安中と軽井沢をつなぐ碓氷峠にかつて通っていた碓氷鉄道が走っていたトンネル。熟成した醤油をワインのような瓶に詰め、トンネルの中で碓氷峠の空気と酵母を触れさせ発酵させる。そうして、安中でしか作れないオリジナルな味わいの醤油が完成したという。

碓氷隧道仕込天然醸造醤油

碓氷隧道仕込天然醸造醤油。売り上げの一部は安中市に寄付し、トンネルの保全や碓氷峠の環境を守るために使われている。

創業200周年までには、安中市内で採れた大豆と小麦を100パーセント使った天然醸造醤油を完成させる。それが、「あんなかテロワール」における次の目標だ。

目に見えないものにこそ、大きな役割がある。醤油づくりで培われた精神

微生物の力を主体にした醸造法や、土地が力を取り戻すための農業のあり方。有田屋の営みに一貫しているのは、自然の存在に耳を傾け、その力を「借りて活かす」謙虚な姿勢だ。そのために必要な管理は行うが、それは決して、自然を「人工的に操作すること」ではない。

そんな姿勢の根底にあるのはやはり、さまざまな要素が絡み合う醤油作りを通して培われた、“目に見えないもの”の存在や価値を重んじる精神性だ。

湯浅さん「醤油造りをしていると、この世の中で人間の目に見えるものはとても限定的だと感じます。反対に、目に見えないものの働きの方がよほど大きい。『あんなかテロワール』を提唱したタイミングで、有田屋の蔵にどんな酵母がいるのかを調べ、それぞれの特性を解析しました。すると、目で見て働きがわかる酵母と、全く反応がなく、何のために存在しているかわからない酵母がいたのです。

では、そうした酵母は存在しなくても良いのかというと、私はそうではないと考えています。人間には理解しきれなくても、きっと彼らにも何かしらの役割があって、必要だからそこに存在している。そう感じるのです。

こうしたことを普段から意識するのはすごく難しいことではありますが、そうした考え方がベースにあるのとないのとでは、取り組むことの方向性や質が変わってくるのではないでしょうか」

私たちの目に見えているものはほんの一部で、この世界には人間の理解の範疇を超えた領域や知恵が存在するということ。それらが、知らずとも日々の営みに関与し、私たちの生を支えているということ。

言語や数値で表すことに慣れすぎた私たちに必要なのは、まずその枠を一旦外し、「わからない存在」の前に謙虚に自分を開いていくことだ。発酵という営みは、それを教えてくれる。

現場を訪れ、味わい、感じ、時間をかけてじっくりと耳を傾ける。そうして「わからないものがたくさんあること」がわかったとき、初めて私たちはこの世界とのより良い関係を結ぶスタート地点に立てるのかもしれない。そんなことを学んだ旅だった。

【関連記事】発酵が教えてくれた、「目に見えないもの」を大事にする力
【関連記事】【12/6@群馬】発酵に宿る“見えない力”を感じる。190年続く醤油蔵・有田屋で味わう、食の本当の価値【全6回体験シリーズ Vol.5】
【参照サイト】天然醸造醤油 有田屋 群馬県安中市
【参照サイト】190th Anniversary Memorial Project | Annaka Terroir

FacebookX