もっと経済が成長すれば、社会も環境も良くなる──これが経済の基本的な考え方であり、先人たちそして現代の私たちも、成長や利益を“良いもの”と信じて追求し続けてきた。その結果、多くの功績や進歩を得てきたかもしれない。
しかし同時に、成長に依存する体質も生み出してきた。個人や組織の能力、国、生活の質まで……ありとあらゆるものが「成長」や「金銭的価値」によって測られてはいないだろうか。生態系や社会に負荷をかける成長至上の世界で、市民が圧倒され息苦しくなる場面も少なくない。
その“症状”は、気候変動など自然環境の異常としても現れ始めた。成長を重視し過ぎたことで森林や海、川、土地を破壊。これにより生態系バランスが崩れ、洪水、火災、暴風雨などの異常気象の頻度と激しさが増している。
自然、そして社会を治癒するためには、その原因である「成長依存」を捉え直す必要があるのではないか。そんな問いから立ち上がっているのが「脱成長」という考え方。成長ばかりを基盤とした社会から脱却し、自律や充足、ケアに根差した新しい経済社会システムへの移行を提唱している。
しかし脱成長は、多様な取り組みをカバーできる“傘”のような存在で、その具体的な姿が見えにくい。そこで今回、気候科学者から転身し、政策提言に向けた脱成長の文献全般を調査する論文で知られる脱成長研究者、Nick Fitzpatrick氏を取材した。デンマークのオーフス大学で研究を進める彼に、現在注目される脱成長の議論を噛み砕いて解説してもらった。
目次
話者プロフィール:Nick Fitzpatrick(ニック・フィッツパトリック)
デンマークのオーフス大学エネルギー技術センターの気候科学者および博士研究員。研究内容として、サステナビリティ移行の政治経済学、特に二酸化炭素除去 (CDR) と国家気候政策が、生産と消費の縮小を促進してエコロジカル・フットプリントを削減し、公平な方法で民主的に計画され、ウェルビーイングを確保することに焦点を当てている。
研究者に聞いた、脱成長のいろは
Nick氏はこれまで、現代経済学のオルタナティブ(代替)となる社会経済システムを模索してきた。その中で、EU議会議員主催のBeyond Growthカンファレンスでも注目を集めたTimothée Parrique氏と共同で論文を執筆し、脱成長の定義をめぐる研究も発表している。
「私たちの研究は、Timothéeの研究をベースとしています。彼は、脱成長の58の定義に注目して、2006年から2019年までの定義の変遷を追跡しました。その結果、脱成長には大きく3つの意味があることが分かったのです。
1つ目は、環境負荷の低下。例えば、モノやエネルギーの使用を減らすことです。2つ目は、資本主義や過度な商品化、生産主義などの望ましくないイデオロギーからの解放。そして最後に、3つ目は、労働者主導と相互扶助に基づく社会の到達点としての脱成長です」
その分析の結果、論文では「脱成長とは、生産と消費の縮小によるエコロジカル・フットプリントの削減であり、ウェルビーイングを確保しながら公平な方法で民主的に計画されるもの」と定義された。これは唯一の定義ではないものの、前述の3つの要素を組み込んだ一般的な概念だ。
ただし、定義を一つに絞ることには課題もあるという。脱成長運動は、持続可能な開発という概念に反対するフランスの反広告活動家の間で始まっており、当初、書き残されたり学術的に議論されたりするものではなかった。定義を固めることは、その歴史と目的の軽視につながるかもしれないのだ。
「現在は、アカデミックの分野で脱成長の議論が進んでいると思います。しかし『それでは革命的な運動になる可能性を減らしてしまう』という意見もあります。カギを握るのは、普通の生活をしている人々です。脱成長運動は集団的なプロセスであり、強要されるものではありません」
今は学術分野で発展する、脱成長の議論。しかしこれからは、個人が「自分ごと」として捉えられるよう、市民主体でより柔軟な議論にも広がる必要があるのだろう。
経済の外にある自然ではなく「自然の一部としての経済」という前提へ
脱成長について考えるとき、経済学との関わりは無視できない。ただし、実は多くのビジネススクールで教えられているような経済学と、脱成長の基盤となる経済学には、違いがあるという。
「経済」と聞いて、すぐに思い浮かぶものは何だろう。日経平均株価の数字や、日銀総裁の姿、GDPのグラフ……その光景をつくる制度は、自然との交わりがどう想定されているだろうか。一般的に、経済学では「経済の外に(経済とは別に)自然が存在する」と捉える。したがって、経済がもたらす自然への影響や、経済活動が自然に支えられる構造を考えることは必然ではない。
一方で脱成長は「経済は、自然・社会という大きな基盤の一部である」と捉える生態経済学(エコロジカル経済学)の考えに基づいている。つまり、あらゆる経済活動は自然界の中で起きていて、経済・社会・自然は相互に影響を与え合っていることが前提なのだ。
「生態経済学では、経済は社会の一部であり、それ自体が自然の中に組み込まれていると考えます。そのため、経済の本質として『生物・物理学的な上限に収まる範囲で私たちは活動しなければならない』と捉えているのです。
だからこそ、脱成長と生態経済学は、量的な成長よりも質的な改善を優先し、経済成長よりも生態系の健全さを人間のウェルビーイングに結びつけています」
脱成長において、経済を議題にあげるとき、それは社会、そして自然環境について話すことでもある。従来の「経済」が築いてきた生産・消費・分配のあり方を変えるためには、その「経済」を内包する、社会構造や自然との共生まで視野を広げることが重要なのだ。
今できる一歩目は、自分の「欲しい」と「必要」を区別すること
ここまで、脱成長をめぐる定義や前提について考えてきた。では、こうした理解のもと、個人には何ができるのだろうか。私たちが「脱成長的に生きる」には、自分の暮らしをよく理解することが大切だと、Nick氏は語る。
「経済や自然環境のことを考えるとき、私たちはそれがグローバルでとても大きな問題だと考えがちで、自分の生き方や、ライフスタイルの側面と結びつけることができません。重要なのは『自分にとって最も理想的な生き方とは何か』を深く考えることです。
自然環境に配慮した生活をするとはいえ、全く異質な生活スタイルを押し付けるよりも、自分自身の経験から気づきを得る方が、より社会・生態系とのバランスの取れた選択ができるでしょう」
Nick氏自身も、自然や社会との関わりから生活を見直したという。
「たとえば、私は飛行機を使わず、肉を食べず、バン(ボックス型の車)で暮らしています。生活スペースは狭いので、一般家庭と比べて消費エネルギーは小さくなります。外食が多かったり、時折大きな水のペットボトルを買わなくてはいけなかったりもしますけどね。それでも、エネルギー面では確実に一般家庭よりも少ないんです」
これが、Nick氏にとって自然環境に配慮しながら快適に暮らすことができるスタイルとなった。ただし、これが万人にとっての“正解”ではない。
「それぞれの人生を生きていく上で、多様な生き方を受け入れることが必要です。それでも、お互いに責任を持ち合い、生態系を破壊する行動を正当化しないよう働きかけ、『欲しい(Want)』と『必要(Need)』を区別する必要があります」
「Want」に振り回されず「Need」を見極めて暮らすことが、脱成長的な視点での暮らしの再構築となるかもしれない。極度に質素な暮らしをすることは、脱成長的な生活の姿ではないのだ。
営利企業を民主化し、社会に還元する組織へ
個人が脱成長を実践していくためには、まず生き方の見直しが必要となる。衣食住などを見直すことは比較的想像しやすいものの、「仕事」に関してはどうだろう。
もし営利企業で働いているなら、どうしても利益を求める必要が出てくる。つまり、脱成長の考え方に共感していたとしても、生活を維持するために「成長依存型」の労働から得る収入に頼らなければならないことに矛盾を感じる人もいるはずだ。では、ビジネス、特に営利企業が“脱成長型”になることはできるのだろうか。
「まずは、構造的な問題に取り組む必要があります。例えば『会社が何を生産するのか、なぜ生産するのか』について、全員が一人一票の発言権を持つようなモデルに移行することです。
もう一つは、営利企業から非営利“企業”へ移行することです。営利を追求しない企業も、利益を上げることはできます。しかし、その法的な責任や社会的な目的は、利益を上げることではありません。非営利企業が利益を得た場合、その利益は地域や社会に再投資される必要があるのです」
パーパス経営のように、社会的な価値を主眼においた営利企業は増えているように見える。しかしNick氏は、その法的な立場が営利企業である以上、社会よりも株主への分配を重視する傾向があると指摘する。
だからこそ、株式のあり方を問うことが必要である。実際、フランスのファッションブランド「LOOM」は、創設者と従業員、600人ほどの顧客という3者間で資本が分配されているため、強大な投資家から成長や投資のプレッシャーを受けることなく経営できている。
とはいえ、既存の営利企業が急に非営利へ舵を切ることは難しいかもしれない。そこで、組織が脱成長の実現においてキーワードとすべき言葉がある。それが「民主化」だ。
「リサイクルや環境負荷の軽減は、脱成長ではないと考えています。会社を民主化しなくては、権力や不平等などの核心的な課題に迫っていないからです。
完璧ではありませんが、実践できることの一つは、給与比率の制限。例えば、5対1を最大の比率として、会社で一番給料の高い人は、会社で一番給料の低い人の5倍以上の給料をもらってはいけないというルールです」
その狭義にあるように、脱成長は「生産と消費の縮小してエコロジカル・フットプリントを削減する」という側面が注目されやすいが、その先にある「ウェルビーイングの確保」を実現するには、不平等な社会構造を変えることも欠かせないだろう。
来たる未来は、脱成長なのか
個人が変わり、組織が変わると、社会の景色も変わるはず。脱成長が実現したときの世界のイメージを、Nick氏に質問してみた。
「脱成長がおきた後には、私有財産はなく、すべてが共同化され、労働者が生産手段を所有し、自分で食料を育て、利益を分配できるでしょう。ただし、よりローカルな、あるいは中規模の、異なるコミュニティの間での貿易は行われると思います。
権力や私有財産に囲まれている現代社会では、非現実的な話だと言われるかもしれません。確かにとても遠いことのように思えますが、遠いからと言って、最終目標を下げるべきだとは思えないのです」
そんな社会システムのもとでは、身近な人と過ごす時間が充実し面白くなる暮らしが営まれるという。
「社会の規模が小さくなれば、どのような変化が起こるかを想像するのがはるかに簡単になります。つまり『今身近にいる人たちと一緒に活動する』ことに根ざした暮らしが増えるでしょう。野菜の育て方や、低エネルギーで持続可能な家の建て方を学んだり、サイクリングやウォーキングをしたり……そんな生活が当たり前になるはずです。
目の前にある世界と向き合いながら、自然や社会への尊敬に値するような生き方を学ぶ必要があるのかもしれません」
あなたが今生きている地域で、身の回りにいる人や自然と共に、豊かな時間を過ごすためにはどんな面白い仕掛けを作れるだろうか。そんな問いが、実は脱成長という概念を体現する、実践的かつ革新的な切り口であるのかもしれない。
編集後記
筆者は今、人口1,300ほどの山間地域で暮らしている。ここでの日常は、まさに「自然に囲まれ、人と共にある暮らしを豊かにする」ことに根ざしていると感じる。
それはただ山の自然が美しいというだけではない。ここでは、同じ場所で生きる人たちが折り合いをつけながら協働して地域行事を守り、誰かがアイデアを発案すればそれを一緒に具現化しようとし、何か問題が起きれば同じ目線で解決しようとする。
ここに脱成長的な要素があるならば、それを経験してみた者として伝えたい。社会や経済が小さくなることは、怖いことではない。人間や自然とじっくり向き合う時間を要するものの、その時間軸は忙しない日々の足取りを緩やかにし、見過ごしていた価値に気づく時間をくれる。
こんな暮らしの目線に立った脱成長のナラティブがそれぞれの土地で根を張っていることに、光を当てるべき時季が訪れているのではないだろうか。
【参考論文】Exploring degrowth policy proposals: A systematic mapping with thematic synthesis
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