360℃の映像でリアルな仮想世界を作り出し、未知の体験ができるVR(Virtual Reality:仮想現実)。IDEAS FOR GOODでもアフリカの村落に住む人々の暮らしを体験しながら寄付できる動画や第一次世界大戦時のクリスマス休戦の日にタイムスリップするVRマシンなど紹介してきた。
VRの可能性の一つとして、新たな視点から人に気付きを与える事例がある。人工妊娠中絶を控えた女性の視点を疑似体験するVRコンテンツ「Across the Line」だ。2016年の米国サンダンス映画祭ではじめて公開された本映像のテーマは、望まない妊娠をした女性の堕胎の権利を守ることである。
映像は、自分がその女性となって、クリニックで中絶に関する問診を受けるところから始まる。
健康状態やアレルギーの有無など一通りの問診が終わるが、落ち着かない様子の女性。医師が「大丈夫?」と聞くと、女性は涙ぐみ「いえ」「外で構えている反対派の人たちが…… 」とこぼした。彼女がどのような事情で中絶を望むのかは描かれていないが、大きなショックを受けて精神的に不安定になっていることがわかる。
この場面の20分前。女性はクリニックに向かう途中で、中絶反対デモを行っていた人々に、一方的に罵倒されていた。映像はCGを利用しているが、女性に対して「愚かな女だ」「赤ん坊は暗闇の中で逃げ回るんだぞ」「神は人を殺すことを許さない」など男女が口々に叫ぶ声は、本物の音声を収録したものである。
自分が中絶する当事者となり、人々に取り囲まれ、非難を浴びたところで終わる映像。これを作ったのは、望まない妊娠・出産を防ぐための啓蒙活動を行うNGO「Planned Parenthood」である。アメリカで大きな議論となった中絶の賛成・反対をめぐる人々の関心の高まりを踏まえて制作された。
中絶は、簡単に推奨されるようなことではない。通常であれば、望まない妊娠をしないために女性も考えなくてはいけないのだ。しかし、何かしらの事件に巻き込まれた結果の妊娠だったらどうか。結婚を考えていたが、母体にかかる負担が大きいことがわかって出産を諦めざるをえなかった場合はどうか。
5月末、中絶に否定的なカトリック教徒が国民の多数を占めるアイルランドで国民投票が行われ、いままでいかなる場合でも禁止されていた中絶が合法的に認められるようになった。中絶合法化を支持していたレオ・バラッカー首相も「静かな革命が起きた」とダブリン城でスピーチを行っている。
Across the Lineが伝えているのは、生む本人が「生まないこと」を選ぶ権利も尊重されるべきということ。あるいは、事情を知らない他人の選択を否定することへの批判かもしれない。
あなたなら、この映像からどのようなメッセージを受け取るだろうか。
【参照サイト】Across the Line