床に水をこぼしてしまった……そんな時、あなたならどうするだろう?
「すぐに床を拭く」──おそらく、それが多くの人の答えではないだろうか。だが、中には意図して床を拭かない人たちもいる。
「床が水を飲みたがっているから。」アイヌ民族の人たちは、床を拭かない理由をこう説明する。拭いてしまうことで、床が水を飲めなくなってしまうと言うのだ。世界で起こっている様々な事象は、すべてが人間によって引き起こされているわけでなく、「人間を取り巻く環境が起こさせている」。アイヌの価値観の根底には、このような考え方がある。
そんなアイヌたちは、この世界で魂をもって活動している人間以外のすべてのものを「カムイ」と呼ぶ。火や水、犬、鳥から、パソコンや車、鍋といった人工物まで、人間にできないことをするもの、人間のために何らかの役に立ってくれているものは、みな「カムイ」なのだ。アイヌたちはそれらカムイという存在と、独自の価値観をもって共生してきた。
「人間とカムイ(=環境)は、お互いがお互いを必要とするパートナー…人間はなにもない空間で生きることはできず、環境からの恩恵によって生きています。…その恩恵を感謝して受け取ることによって、環境を悪化させないように配慮することができるようになります。たとえば、獲った獲物の肉を食べ残すようなことは、強くいましめられていました。……」
アイヌ文化の研究者である中川裕先生の著書「アイヌ文化で読み解く『ゴールデンカムイ』」の中の一節だ。このようなアイヌの考え方に加えて、今の社会を危惧するような言葉が続く。
「……過度の森林伐採によって土砂災害が起こったり、大量の食糧が食べ残されて捨てられている一方で、多くの人が飢えていたりする現実。これは、アイヌ的な考え方から言ったら、カムイとの関係がうまくいっていないということに他なりません……」
『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』 P.22
溢れんばかりの、いや、溢れかえったモノに囲まれて生きる現代の私たち。人間が作り出した人工物の総量は、今や地球上の生き物の総量を超えた。その数およそ1兆1千億トン。このままいくと、20年後には、人工物の総量が生物量の3倍近くにもなるとも言われている(※1)。深刻な気候変動に直面し、大量生産・大量消費のあり方に疑問が投げかけられる今、「パートナー」として共生してきたアイヌとカムイの関係から学べることはないだろうか。
今回は、2021年10月にDeep Care Labが主催した、気候変動時代のウェルビーイングを探求するオンラインプログラム「Weのがっこう」の「わたしと人工物・モノ」セッションでの体験から、“モノ”との向かい方について考えてみたい。
“与え、与えられる”アイヌとカムイの関係性
人間はカムイから色々なものを手に入れることで生きている──これは、アイヌの世界観の根底にある考え方だ。たとえば動物や火といったカムイのおかげで、人間は食べ物や熱、光などを得ることができ、鍋や茶碗というカムイのおかげで食事をすることができる。このような、生存に必要なものを与えてくれるカムイに対し、アイヌは感謝の言葉(お祈り)やごちそう(酒や団子などの人間にしかつくれないもの)などを捧げることで「お返し」をしている。
つまり、アイヌとカムイは、互いに与え、与えられる関係性。したがって、もしアイヌが動物のカムイからのお土産を粗末にすれば(=肉を食べ残すと)、動物たちは怒って人間のもとに来なくなり、樹木を伐採しすぎれば、大地を守るカムイである樹木のカムイがいなくなり、土砂崩れなどが起きると考えられていた。このような厄災を避けるため、アイヌたちは自然と必要以上に動物を殺したり、樹木や山菜をとったりすることを控えるようになったという。
周囲の環境との共生を重んじるこのアイヌの世界観は、実は日本に暮らす多くの人にとって、そう遠いものではない。日本には、古くからあらゆるものの中に神(霊魂)が宿っているとされる「八百万神」という考え方があり、日本最古の歴史書である『古事記』の中にも、すでに八百万神の記述があった(※2)。今も神社などで目にする神木などは、その象徴の一つであろう。アイヌ民族の信仰と八百万神の概念は、アニミズムという考え方で共通している。
しかし、翻って現代の私たちの生活を見つめてみると、アイヌや八百万神という思想からは、かなりかけ離れていると言わざるを得ない。動物、自然、人間が生み出した人工物……身の回りの存在から恩恵を受けていながら、そこには「お返し」が抜け落ちているからだ。必要な時、いつでもどこでも欲しいものが手に入る今、一つ一つのモノが単なる無機物以上の存在と捉えられることはほとんどなく、いとも簡単にごみ箱に捨てられている……。
「モノへの感謝の手紙」をしたためる
そんなモノとの向き合い方を改めて考えようと、「Weのがっこう」のセッションで、とあるワークショップが行われた。それが、「自分が今捨てようと思っているモノに対して、手紙を書く」というもの。参加者それぞれが、モノとのこれまでの想い出や感謝の気持ち、別れの言葉など、思い思いのメッセージを「感謝の手紙」として綴った。
筆者も実際にモノとの想い出を振り返りながら、手紙を書いてみた。出来上がった手紙に並ぶ「ありがとう」や「さようなら」といった言葉を眺めていると、今自分が捨てようとしているそのモノが、感情を持つ存在かのように思われてくる。その後は、モノへの感謝の気持ちを伝える「感謝の宴」を開くため、モノが喜ぶであろう飲み物やお菓子を買いに行く時間が設けられた。コンビニエンスストアで棚を眺めながら商品を選ぶ時間は、家族や友人へのプレゼントを選ぶそれと似ていた。
これらのユニークな体験を通して感じたのは、いかに自分が日常で、簡単に選択をしていたかということ。まだ食べられるものを捨てたり、着ていない服が沢山あるのに新しい服を買ったり……。「捨てる」「買う」という行為が、あまりに簡単に行われていたと気付いた。新しいモノへの欲望から、一つ一つのモノとの関係性が希薄になった現代社会。「モノに想いを馳せてみる」ことで、モノと私たちの関係は少し良くなるのかもしれない。
日本人の食肉との向き合い方に対する“違和感”
セッションのゲストは、2021年に流行した漫画『ゴールデンカムイ』の監修を務めた中川裕さん。話の中で中川先生は、アイヌの狩猟文化に触れながら、「今の私たちと動物の関係性」について問題提起をされた。
「狩猟民族であるアイヌは、かつて男性であればみな、生きるために狩りをしていました。そのため、必然的に彼らは、『なぜ自分たちが動物たちを殺していいのか』『なぜ生きることを許されるのか』を考えていましたし、『動物を殺すことで自分たちが生きている』という感覚を持っていました。そのなかで生まれた思想が、狩りを動物と人間の戦いではなく、社会的な共存関係、つまり取引やパートナーシップと位置付けるものでした。」
「それが、熊を飼って殺し、カムイの世界に送り返すイオマンテという儀式のように、アイヌの世界観の中に組み込まれていきました。これを、特殊な民族のエキゾチックな風習のように捉える人も少なくないかもしれません。しかし、このアイヌの文化を、私たちと関係がないモノとして切り離すことはできないように思うのです。」
豚や牛、鶏など……普段口にしている食べ物に対して、私たちはお返しをしているだろうか?そう尋ねられたら、ノーと答える人がほとんどだろう。そればかりか、食卓に肉として並ぶまでの過程を知っている人はそう多くないのではないだろうか。自ら狩りに出て、動物を捕獲して食べる人は少数であろうし、自分たちが肉として口にしている動物を殺した人や、さばいた人が誰なのかを知っている人もそう多くはない。魚をさばく様子や畑で野菜を収穫する様子はテレビで流れても、屠畜の現場が放映されることはほとんどなく、学校の遠足で農園に行っても、屠畜場に行くことはないからだ。
大多数の人が、誰のおかげで肉を食べられるのか知らないどころか、伝統的に屠畜業者の多くは、「汚らわしい」と差別の対象にされ、職業を名乗ることさえはばかられてきた。その状況はほとんど変わることなく、屠畜や屠畜に携わる人たちは社会から見えなくされ、今なお、まるで「いない」存在のように扱われている。
「動物の肉を食べる」という行為には賛否両論があるだろう。また、アイヌの人たちの「戦いではなくパートナーシップ」という考え方が人間本位だと感じる人もいるだろう。ただ、自らを生かしてくれている環境に自分たちなりの「お返し」をしながら、一方的に恩恵を受けるだけではない「共生関係」を築いているアイヌの生き方から学べることもあるのではないだろうか。
「屠畜の現場と向き合うことで、牛や豚などがもっと身近な存在になっていくべき。」中川先生がこう強調されたように、「命あるモノを頂く」という感覚が生まれることが、動物と良い関係性を取り戻す一歩になる気がしている。
ごみは「枯れた雑草」だけ
最後に、中川先生は「雑草」という言葉について教えてくださった。アイヌ語でごみを意味する「ムン」という言葉には、雑草という意味がある。ただ、雑草と言っても役に立つ雑草とそうでない雑草とで言葉が違っており、役に立たない雑草をムンと言ったそうだ。アイヌたちは、「枯れた雑草だけがごみ」という生活を送っていたという。
多くのモノが過剰に包装され、使い捨てのモノが生活に溢れる今、雑草だけがごみというライフスタイルは現代の私たちにとっては難しいかもしれない。だがそんな今こそ、少し視点を変えてみよう。一つ一つのモノをカムイのように魂ある存在として捉えてみるとき、私たちの周りには、ごみではなく「宝物」が増えていく気がする。
Weのがっこうとは?
気候危機時代にわたしたちのウェルビーイングを探究するオンラインプログラム。2021年10月8日(金)から12月10日(金)まで、全10回で開校された。「自然・生きもの」「人工物・モノ」「過去・祖先」「未来・こどもたち」の4つのモジュールで成り立ち、さまざまなゲストの話を聞きながら、参加者同士の対話を行うことで、これからの「We(わたしたち)」にとってのウェルビーイングを多角的に捉え直す。
※1 Global human-made mass exceeds all living biomass
【参照文献】「アイヌ文化で読み解く『ゴールデンカムイ』」(2019年、中川裕 著、集英社新書)
【参照文献】「アイヌと神々の物語 ~炉端で聞いたウウェペケレ~」(2020年、萱野 茂、ヤマケイ文庫)
【関連ページ】「自然と共存する価値観」が魅力。アイヌ文化に触れてみよう──入門編におすすめの本【6選】