台北駅からバスで15分。台湾大学の前のごった返した通りのバイクをかきわけ、少し坂を登り、緑あふれる細道をしばらく歩いたところにその村はある。寶蔵巌(ほうぞうがん)国際芸術村だ。
14のスタジオを有し、地元民が運営するカフェやホステルなどを使いながら、世界中のアーティストが創作をしながら暮らせる「アーティスト・イン・レジデンス」の場となっているこの村。多くの人が訪れ、アートと共に写真を撮っていくような、台北の隠れた観光地の一つにもなっている。
この寶蔵巌国際芸術村は、かつては台北市内の貧しい人がたどり着く、小さな集落だった。違法建築が立ち並ぶ、無秩序で危険な場所であり、台北市政府からも非常に「問題視」されていたのだ。そんな廃墟寸前だった集落が、台湾屈指の国際アート村になれたのはなぜか。
寶蔵巌国際芸術村のディレクターである、キャサリン・リーさんはこう語る。
「この場所は、住民が勝ち取った歴史を残す場所であり、今は“共生(Co-Living)”の場所なんです」
違法建築の集落が、アート村になるまで
寶蔵巌国際芸術村は、元はただの寂れた土地だった。300年前に、福建省から渡ってきた人々が寶蔵巌寺を建立。日本統治時代になると、貴重な水源地として日本軍が使うようになり、台湾独立後は、中国大陸から逃れてきた軍人たちが軍事施設として使うようになった。
その後、1970年代に軍が撤収すると、老いた退役軍人や、移民がこの土地に住み着くようになった。彼らは家を建てる資金がないため、我流で住宅(ほぼ掘っ立て小屋)を建て、増築を繰り返していく。川沿いの崖に位置するこの集落の道は、ただでさえ複雑に曲がりくねっているのに、その上に無計画に増築された200世帯もの住宅が重なっている状態だったという。ほとんどスラムと言っていいだろう。
「当時は、勝手に家を建てるのが違法だと言われても誰も気にしていなかったそうです。住民にとっては、生きることが第一だったから」とキャサリンさん。
1980年代に台北市政府は、住民の安全と景観の美化を理由にこの場所を公園予定地に定めた。道を平坦にし、形を残さずに台北市民全体の憩いの場に。もちろん住民たちは猛反発した。集落のあちこちで抗議運動が行われ、だんだんと社会の関心も集めることとなっていく。
1990年代後半には、専門家や学者、市民団体を含む公共部門が、遺跡の文化史を保存するという名目で「文化プロジェクト」を開始。社会福祉の必要性と、保存の文化的意義との間で議論があったというが、住民にとっては、「文化」が村の保存に動く原動力となっていた。
長い交渉の末、2004年に台北市政府は、寶蔵巌を「歴史的建造物」として登録し、地域活性化の一環として正式に保全していくことを決めた。そして2006年には集落の建物の修繕や、清掃を行い、2010年には住民と芸術家が共生するアート村を正式にオープンしたのだ。
このドラスティックな転換は、かつての社会的弱者であった住民が政策決定に関わった歴史的な出来事の一つとなる。寶蔵巌国際芸術村には、住民の抵抗の軌跡を記録しておくため、その当時の落書きが今でも残されている。壁には台北市政府への不満や、「災難」という言葉などが描かれていた。
また、アート村となった今でも、当時の住民が建てたであろう、木や石で作られた住宅もそのまま残っている。建物が所狭しと並ぶ細道を案内しながら、キャサリンさんはこう話していた。
「こうして残しておくことで、後の世代にとって歴史的な価値になると思ったんです。ここは地盤も強く、強い地震も来ないので、建物が多少脆弱でも大丈夫ということが分かりましたしね」
貧しかった退役軍人や移民が、苦しい生活の中でたどり着き、自らの力で作り上げていった違法建築の集落。それが今は、歴史的な価値を持つアート村として生まれ変わった。ここからは、住民と世界中のアーティストたちがどのように“共生”しているのかに着目していこう。
住民とアーティストが一緒に住む村
現在、村に住んでいる人の多くは高齢者だとキャサリンさんは話す。その子どもや孫が一緒に住んでいる家庭もあるものの、世界中から来る若いアーティストとの世代間ギャップも大きそうだ。
「正直、最初は住民の反応は渋いものでした。後から村に来たやつが何かやってるな、という感じで」
キャサリンさんがこう言うように、元々この場所に住み着いていた人々に、アート村の取り組みについて理解してもらうのは簡単ではなかったという。村のあちこちを歩いてみると、長年住んでいる住民の家と、一時的な滞在だけのアーティストの区画がきっちり分けられている節もある。
しかしここ数年で、ようやく“共生”のコンセプトに近づいてきた。それは、キャサリンさん含む事務局の10年にわたる信頼関係の構築や、アーティストと繋がるきっかけになるイベントの開催、そしてひっきりなしに訪れる観光客の存在など、さまざまな要素があってこそである。
また、台北メディアスクールと呼ばれる実験教育機関が村に移転してきたことも、外から来る人と中にいる人が交流せざるを得ないティッピングポイントとなった。映像や音楽関連の授業を特色としたこの学校は、住民の減少により空になった施設を再利用しており、村の住民でなくてもアートに関心のある高校生が通える場となっている。
今でも、村の多くの機能は住民によって運営されている。たとえば雑貨店や、お菓子屋、カフェ、菜園などは、住民が働ける場の一つだ。また、村のはずれにある涼み台では、定期的に一品持ち寄りパーティーや、お茶会、季節の料理会(チマキや白玉)などの催事が行われている。
「一度この村に住んだアーティストは、数年後にまた戻ってきてくれることも多いんです。住民と一緒に過ごしていくうちに、家族のような関係性になっていくんですよ」とキャサリンさん。
アーティストたちは、この村を舞台として自由に創作活動をしている。しかしただ外のものを持ち込んで発表するだけでなく、この村が辿ってきた歴史や、住民との対話、そして周辺地域の豊かな自然からインスピレーションを受けて、あらゆるものと共生することを学んでいるのだ。
政治が民意で動いた軌跡を残し、また来たくなる村へ
キャサリンさんに話を聞いているあいだも、多くの人がこの寶蔵巌国際芸術村を訪れ、アートスタジオを覗き、住民の生活の一部に入り、立ち止まっては写真を撮っていた。
道は狭くてすれ違うのが難しく、階段や坂も多いため、歩きやすいとは言えない道だったが、それすらこの村に来た体験の一部として、みんな楽しんでいる。
違法建築が並ぶ集落を、破壊するのではなく、そのまま放置するのでもなく、アーティストと住民と“共生”の場として残したこの場所。今後もさまざまな人が訪れては、偉大な作品を残していってくれるだろう。
【参照サイト】台北国際芸術村
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