1973年にニューヨークで誕生したヒップホップは、黒人文化(ブラック・カルチャー)のひとつである。現在その定義には、ラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティ、物語・文学性、そして自己理解(ヒップホップに影響を与えうるようなモラル、精神、社会観)の6大要素が含まれるという(※1)。
この定義も時代とともに拡張しており、極めて広範囲に及ぶ。今やクールな音楽やファッションといった言葉には収まりきらないスケールとなり、その自由自在な性質そのものがヒップホップともいえるだろう。
半世紀にわたる歴史に目を向けてみると、ヒップホップに救われた若者が時を経て今は大人になり、次世代に向けて興味深い学びのサイクルを繰り広げている。ヒップホップを紐解くことは、不確かな時代において、カルチャーと社会のポジティブな結びつきを再考する機会になるのではないだろうか。
ヒップホップは、アメリカ社会にどのような影響を与えてきたのか。20年以上にわたり教育との関係性に目を向けてきた、サウスカロライナ大学のトビー・ジェンキンス教授の研究を通して見ていきたい。
社会学としてのヒップホップ
ジェンキンス氏によると、アメリカでは1991年にハワード大学がヒップホップのクラスを開いたこときっかけに、さまざまな高等機関でヒップホップに関する学術的な研究が行われてきたという。たとえばハーバード大学のHiphop Archive & Research Institute(ヒップホップ・アーカイブ&リサーチ研究所)は、2002年からヒップホップに関連する世界中の資料を収集し、「人々の生活や思考に変革をもたらすような知的で挑戦的な研究」と、「知識、芸術、文化、倫理的で信頼に足るリーダーシップの促進」をミッションに掲げて活動している。
同研究所では、学者やアーティストに奨励金を提供することで、ヒップホップの研究や作品制作の支援も行っている。2013年には文学的な歌詞で高い評価を得ているラッパーのNAS(ナズ)の名前を冠した「Nasir Jones Hiphop Fellowship(ナシール・ジョーンズ・ヒップホップ・フェローシップ)」を設立し、話題を呼んだ。ナズの名前を採用した理由を、同研究所はハーバード大学のサイトで以下のように述べている。
歌詞の巧みさ、社会分析力、そして献身的な姿勢で称賛されるナズことナシール・ジョーンズは、都会の若者の不安や葛藤、知性、自信、野心を反映し、ヒップホップの表現に新たな議論と分析をもたらした。正直者であるナズは、リスクを恐れずに自らのヴァルネラビリティ(心理学で深い心の弱さを意味する)をさらけ出し、幅広いオーディエンスに受け入れられている。難しい政治問題と、ハードコアなストリートのトピック、その両方に取り組むことで世代を鼓舞してきたことを讃えたい。
支援対象者には、ナズのように「アメリカの若者について語るのではなく、彼らを通してもの語る」姿勢が求められる。ミュージシャン、芸術家、教師、作家、史学者、ジャーナリスト、建築家などさまざまなバックグラウンドをもつ研究者が選ばれ、ヒップホップ文化を独自に取り入れながら、教育、人種、ジェンダーなどの複雑な社会課題に対する研究を展開している。
ジェンキンス氏は、このようにヒップホップがアカデミアなどで新たな潮流を生み、独特の性質と力強さを加えながら、人々の心を引きつけているという。そういった現象に共通する思考を「ヒップホップ・マインドセット」と呼んでいる。こうしたヒップホップ文化の影響は、教育法にも及んでいる。
現在の規範に「逆らう」ための教育法
ハーバード大学ヒップホップ・アーカイブ&リサーチ研究所のフェローシップ受賞者で、南カリフォルニア大学の教育学者クリストファー・エムディン教授は、ヒップホップ文化をベースとした「ラチェデミック」という興味深い教育法を提唱している。ラチェデミックには、ラップのように、ラチェットとアカデミックという、二つの重層的な意味を持つ言葉が掛け合わさっている。
ラチェットとは本来、「教養がない」ことを意味し、当然アカデミックの場では好ましく思われない。エムディン氏は、現代の学校教育は白人的な賢さを中心に捉えており、ラチェットに対する否定的なイメージは、特定の民族、人種、社会・経済的地位の人に向けられることが多いという。
では、現在の規範がいつの間にか除外してしまう若者を、教育の場に再度入れていくにはどうしたら良いのか。エムディン氏は「教育者自らがラチェットな自分を再発見し、自演をせず誠実に行動する必要がある」と訴える。ラチェットとアカデミックの両方を兼ね備えることで、結果として、生徒が自分自身、生い立ち、そして自らの教育をバラバラのアイデンティティとしてではなく、全体の一部として捉えられるようになるという。
エムディン氏は「私たちは才能にはさまざまなかたちがあるということを認めないシステムの一部となり、本質的に人間を自由にさせないことに加担してきた」という。そしてシステムはあらゆる生い立ちを持つ教育者たちを共犯にしただけではなく、彼ら自身の自由も奪ってきたと指摘する。自分を解放しようと努力する教育者は、やがて仲間と出会い、大きな変革のきっかけになるという。ラチェデミックは、集団的自由を求め規範に逆らう、いわば「違反の教育法」を追求するようなものだ。
エムディン氏も波瀾万丈な10代を過ごし、学校で過ごすよりもラップを作ることで充実感を得た。教師の道に進むが、はじめは秩序と権威を生徒に押し付けたことで失敗し、別の方法を模索し始めた。生徒を変えようとする前に、まず教育者自身の心を解放することを呼びかける。そうすることで、初めて生徒は彼に苦悩を見せはじめるという。
学生たちのメンタルヘルスケアのためのヒップホップ
また、近年では、ヒップホップがニューヨークのブロンクス区という貧困地域で誕生したことや、アーティストの多くが社会・経済的に恵まれない環境で育っているという背景を生かし、生徒のメンタルケアにも積極的に取り入れられている。
これは、そうした人々への共感を生み、個人が経験する社会・経済的な挑戦を表現する手段として機能する。さらにヒップホップは、スラム街の若者たちに、音を通じた自己表現の場を与えるだけでなく、社会・経済的な成功を掴むためのチャンスも提供する。
マンハッタン・カレッジでカウンセリング学を教えているイアン・レヴィー教授は、従来の対話型カウンセリングを拒否する生徒に対し、代わりに詩やラップを制作する機会を与えることで、精神療法をおこなっている。セラピーとしてのヒップホップの活用は真新しいものではないが、行政からの提供が不足している、社会的マイノリティや移民のコミュニティに対する精神衛生サービスとしても、最近注目を集めている。
アメリカ以外でも、イギリスのケンブリッジ大学は、うつ病に苦しむ若者の自己イメージを改善するために「ヒップホップ・サイコ・イニシアチブ」プロジェクトを開発。共同設立者アキーム・スール博士は「ヒップホップ・アーティストたちはそのスキルや才能を、自分たちの世界を表現するためだけに使うのではなく、自由になるための手段としても使う」
とランセット精神医学の記事の中で述べ、この手法は患者が自分自身、将来についてポジティブなイメージを持つきっかけになると説明する。
ヒップホップ専門ハイスクールが新たな文化を創る
カリキュラムなどに組み込まれるだけでなく、ミネソタ州にはアメリカ発のヒップホップ専門の高校High School for Recording Arts(HSRA)がある。歌手のプリンスとの活動で知られるレコーディング・アーティストのディヴィット T.C. エリスにより、1998年に設立されたチャーター・スクールだ。
チャーター・スクールとは、一般の学校とは異なる方針・カリキュラムを希望する個人や民間団体が、地方自治体の認可を受け公費で運営する公立学校である(※2)。HSRAは20年以上にわたり、学校を退学になったり、家庭や地域内で問題を抱えていたりする若者の人生を救ってきた。生徒は、最新のレコーディング・スタジオとアーティストによる指導で、楽曲制作や音楽関連のビジネスを学ぶことができる。
エリス氏自身、既存の学校に馴染めず、問題ばかり起こしていた子どもだったという。そしてミネソタ州のオープン・スクールに通い、人生が好転した。オープン・スクールは、生徒が自らカリキュラムを組み立てる自由な教育を採用する学校である(※3)。卒業後は音楽の道に進みスタジオを構えたところ、そこに地域の子どもたちが集まってきた。学校から追い出されて行き場がなかった彼らを、エリス氏は自らの経験と重ね合わせた。そこで、今度は与える側になりたいと思い、自らHSRAを設立したのである。
HSRAの生徒は、40%が現在あるいは最近までホームレス状態であった、また92%が貧困の子どもたちだ(※4)。エリス氏は、彼らに安全な場所を作ってあげたいという。その思いは、同校のミッションにも反映されている。
「過去にどんな挫折を味わった若者にも、自らの可能性を最大限に発揮できるチャンスを提供する。高校卒業資格だけでなく、音楽や、音楽ビジネス、クリエイティブな活動など、実社会で通用する21世紀の技術も与え、生徒が今後の教育や人生を前向きに歩めるよう手助けをする。」
(出典:HSRA)
現在の生徒数は350人を超え、過去5年間で90%の生徒が卒業。過去10年以上にわたり卒業生の100%が大学に合格している(※5)。HSRAの活動を見ていると、学校の多様化が求められる現代社会において、ひとつの明るい教育法と子どもたちの未来を映し出しているといえるのではないだろうか。現在、ヒップホップ研究者たちはこのようにヒップホップをさまざまなかたちで取り入れた一連の教育法を、ヒップホップ教育学と呼んでいるという。
社会的弱者の視点や感情を音楽に変容させ、人々の心に訴えかけてきたヒップホップ。文化とは何であるのか、なぜ人間や社会にとって必要なものであるのか、50年の節目を迎え、あらためて世界に問い直すようである。
※1 Hip-Hop: A Culture of Vision and Voice
※2 アメリカ合衆国のチャーター・スクールについて
※3 ‘Open Schools’ Made Noise In The ’70s; Now They’re Just Noisy
※4,5 High School For Recording Arts School Facts & Curriculum
【参照サイト】How hip-hop has enhanced American education over the past 50 years, from rec rooms to classrooms
【参照サイト】HIP HOP PSYCH initiative aims to tackle mental health issues through hip-hop
【参照サイト】Hip Hop Is Saving Teen Lives in Minnesota
【参照サイト】Christopher Emdin Wants Your “Students to See You Struggle”
【参照サイト】Christopher Emdin公式サイト
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Edited by Erika Tomiyama