「自然」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
山、川、海、太陽、月、花、野生動物……美しい映像が脳裏に浮かんだ人がほとんどだろう。現在の社会において、私たちが「自然」という言葉を用いるとき、こうした対象を指し示していることが多い。一方で、その言葉自体にはあまり光が当てられて来なかったかもしれない。
自然という“言葉そのもの”に焦点を当ててみると、その表現を使うごとに、私たちの思考や世界観の形成に大きな影響を与えていることが見えてくる。環境問題を考える際に避けることの難しい「自然」という表現に向き合ってみると、人間と自然の相互関係や、生物界における人間の役割や行動について問い直すきっかけとなった。
日本語としての「自然」
では、そもそも自然という言葉には、どのような意味があるのか。改めて立ち止まり、その単語が何を指すのかを確認したいと思う。辞書には「自然」の意味として、このような解説が書かれている。
- ①(ジネンとも)おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま。あるがままのさま。
- ②イ:(physis・natura・nature)人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態。超自然や恩寵に対していう場合もある。
ロ:おのずからなる生成・展開を惹起させる本具の力としての、ものの性。本性。本質。
ハ:人間を含め、山川・草木・動物など、天地間の万物。宇宙。
ニ:精神に対し、外的経験の対象の総体。すなわち、物体界とその諸現象。
ホ:歴史に対し、普遍性・反復性・法則性・必然性の立場から見た世界。
ヘ:自由・当為に対し、因果的必然の世界。 - ③人の力では予測できないこと。
イ:万一。
ロ:もし。ひょっとして。
広辞苑第四版(1991年)より一部抜粋
- ①人の手がくわわらない、もとのままの状態。山・川・草・木の姿など。
- ②人の力では変えることのできない、外の状態として考えられた、自然。
- ③人の力とは関係なく、自然そのものに含まれて、あらゆるものを作る作用。
- ④もとからそなわっている性質。
三省堂国語辞典第五版(2001年)より一部抜粋
このように、自然という一つの単語は幅広い意味を持つ。ただし、「自然」が示すこれらの意味は必ずしも日本で生まれた表現ではなく、国外からの影響を受けて現在に至っている。
自然という言葉はもともと中国から伝来したものであり、やまとことばとして定着した後、明治時代に「Nature」の訳語として用いられるようになった(※1)。原型となった中国語は「自分のままの状態」という意味を持つ「自然(ツーラン)」であり、「自ら・おのずから」という意味へ発展して日本に伝わったのだ(※2)。
713年に編纂された『風土記』においても「自然(おのずから)に貧窮を免るべし」
と記されている。現在でも同様の意味で「自然と○○する」という表現を用いており、日本語として「自然」という言葉が長きにわたって使われてきたと言えるだろう。
Natureがもたらす西洋的な世界観
一方、私たちが「自然」と聞いて山・川・海などのいわゆる自然物を連想する思考は、明治時代の頃に導入された「Nature」という言葉による影響が大きいようだ。その意味を調べてみると、まさにはじめに想像したような対象が最初に挙がっている。
- 人間や人間の創造物の対照として、植物、動物、風景、その他の地球の特徴や産物を含む物理世界の現象の総称。
- 何らかの基礎的または固有の特徴、性格、または性質。
Oxford Languagesより一部抜粋。筆者訳
一方で、日本語の辞書で見られたような、人間と自然物とを区分しない見方は英語の辞書には掲載されていない。あくまでも「人間や人間の創造物の対照」として理解されている。「Nature」は人間から切り離した存在としての動物や植物、存在、事象を個々に捉える色が強い。
この「Nature」という言葉が日本に入ってくる以前、「動物、植物、岩石など」を表現する日本語としては「天地」や「天地万物」などが広く使われていた(※3)。広辞苑第四版にも「天地間の万物」と記載されている。天地万物などの意味で使われる「自然」は、人間を含めたあらゆる命を総体として捉える広がりを持っているのだ。
つまり私たちが今「自然」と呼んでいるものは、近代から取り入れられた「客体としての自然」という理解に基づいており、天地万物などと捉えてきた価値観と比較すると、人間とは明確に線引きが可能な存在として理解している。
「人間と自然」は「人間と人間以外」ではない
そんな「客体としての自然」という考え方は、環境問題をめぐって使われる「自然を守る・自然保護・自然環境」といった表現にも取り込まれているだろう。
こうして人間と自然を別物として捉える思考は、近代の学術的アプローチの特徴でもあり、「人間と自然」は「観察する者と観察される者」に分けられてきた(※4)。研究対象として動物や植物を客体化することは、科学的な発達を支えてきた概念であるかもしれない。
しかし、この分離は環境問題を引き起こしてきた要因の一つでもある。人間と自然を二つの要素に分けて二元論的に捉える思考は、自然を“他者化”し、優劣をつけることで、生態学的な危機の一因となった(※5)。観察対象とされた自然は、少なからず“人間がコントロールできる存在”と認識され、人間が自らの利益のためにその恩恵を搾取し続けた結果、気候危機と表されるまでに事態は深刻化したのだ。
もし人間と自然を何らかの総体として同一視するならば、生物多様性の消失も、森林破壊も、海洋プラスチック問題も、自身の痛みや危険として察知したはず。「自然は人間の外部にある」という二元論的な考えは、そんな搾取に伴う痛みを感じにくくしてしまった。
「Nature」か「天地万物」か、それとも新たな言葉か
私たちがよく用いる「自然」という表現。その言葉には、人間とそれ以外を区別しようとする意図が潜んでおり、私たちが世界を理解する視点にも影響を与えている。もし、人間から切り離した世界を意味していないのならば、「Nature」や「自然」という表現を用いないことも、私たちが世界をどのように理解するかについて、異なる視点を示す方法の一つにもなるだろう。
ただし、ここで強調したいのは、決して「Nature」にみる「客体としての自然」という表現や理解が悪ではないということだ。一つを全て悪として否定した途端に、何かが正しく何かが間違いという二元論に再び陥ってしまう。
重要なのは、一つの言葉が持つ意味の裏に、どんな前提が置かれているかを考えてみること。そして、一つの表現や見方だけを正解と捉えるのではなく、多様な視点が存在する言葉の広がりに目を向けることだ。
世界には、自然を意味する言葉を持たない文化圏や、自然という意味の言葉が「人間の手が届かない存在」として神や動植物への敬いを表現する文化圏など、多様な表現方法と世界観が存在している。当たり前に使ってきた言葉を、広い視点で捉え直してみると、新たな考え方と出会うこともできるだろう。
もう一度、「自然」と聞いて思い浮かぶ存在を想像してみたい。
それらを「自然」ではない言葉で表現するとしたら、どんな言葉があるだろうか。人間から切り離さない捉え方を可能にする言葉はどんなものだろうか。それとも、もはや言葉はいらないだろうか。私たちの紡ぐ言葉が、より良い世界のあり方を描き直すものであってほしい。
※1 関口 秀夫(2016)「本来の自然」への違和感, タクサ:日本動物分類学会誌, Vol 41, pp. 46-52.
※2 深谷 昌弘, 桝田 晶子(2006)人々の意味世界から読み解く日本人の自然観, 総合政策学ワーキングペーパーシリーズ, Vol. 96.
※3 岡本正志(1995)「自然」と「物理」の意味の変遷ー言葉に現れる伝統的自然観ー, 物理教育, Vol 43, No. 1, pp. 65-68.
※4 Kimmerer, R. W.(2020)Braiding sweetgrass : indigenous wisdom, scientific knowledge and the teachings of plants. London: Penguin Books Ltd.
※5 Plumwood, V., 1993, Feminism and the mastery of nature, London: Routledge.
【参照サイト】「自然」は新しい言葉(やさしくわかる自然保護2)
【参照サイト】伊東俊太郎(2001)[講演]「自然」概念の東西比較, 経済史研究, Vol. 5, pp. 1-23
【参照サイト】3. カムイと共に ①「カムイ」って何だろう?, ②「カムイ」としての川
【参照サイト】北海道の歴史と文化と自然 カムイへの祈り—信仰|北海道デジタルミュージアム
【参照サイト】ハワイには「自然」を意味する言葉がない…NHK取材班が知った「深い理由」|FRaU
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