「暮らす」を大事に生きてゆく。未来につながる復興のカタチ【能登半島レポート・後編】

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美しい日本海の魚に塩や米、山の山菜……豊かな里海と里山の恵みのもと、人々の営みが続いてきた能登半島。長年、自然と共に暮らしが育まれてきた地である。半島の最北部・奥能登にある、北陸最大級の縄文時代遺跡「真脇遺跡」は、長期定住型遺跡として知られており、約4000年にわたって縄文の人々が生活していたことがわかっている。長きにわたり人々が住み続けられるほど生活環境に恵まれていた。それが、能登という場所だ。

そんな自然と伝統・文化が折り重なる能登半島を襲ったのが、2024年元旦に発生した能登半島地震。発災から7か月が経とうとしている7月下旬、筆者は能登半島を訪れた。人生で3度目の能登半島。世界農業遺産にも登録されている里山と里海の自然の美しさは変わらないままだったが、まちの景色は変わっていた。大きく歪んだ道路や崩れかけの家々──それらを見ていると、まるで元旦から時が止まっているようだった。

能登の景色

変わり果てた景色のなかで、悲しみや怒り、虚無感など、さまざまな想いを抱え、葛藤しながら生きる人々。復興への兆しが見えない日々のなか、希望を失いかけている人々。前を向こうと歩き出した人々──その一人ひとりが、新たな日常へと少しずつ踏み出している今、筆者が能登で出会った何人かは、復興への想いをこう語った。

「全部が壊れ、なくなってしまった。であれば、単に元に戻すのではなく、震災前よりももっと良い能登に変えられるような復興をしていきたい」

宿を営む人、地域の人たちのための拠点をつくろうとしている人、ボランティアのための拠点をつくった人──能登で出会った3人が語った「新たな復興のカタチ」。それは、一体どのようなものなのか。能登に暮らす人々だけではなく、今を生きるすべての人々が、これからの未来を豊かに生きていくためのエッセンスが詰まった言葉をお届けしていく。

自然と共に暮らしていくベースを「普通」に

「自給自足生活をしている知り合いは、震災後も大きく生活スタイルを変えることなく、普段通り生活していましたね」

そう話すのは、2023年にオープンした能登町の宿「土とDISCO」の女将・サナさん。もともと自給自足の暮らしに興味があったサナさんは、「奥能登の土が育む食と自然の音、地元の人と外から来た人がフラットに音楽を感じ合える場をつくりたい」との想いから築100年の古民家を改装し、宿を始めた。その建物自体は、地震による被害が小さかったこともあり、現在はボランティアの人たちに客室を開放しながら、手作業で屋外に宿泊スペースをつくっているところだという。

土とDISCO・サナさん

「農的な暮らしに興味があって能登に移住したものの、実際の田舎暮らしは想像よりもハードで、ここでの生活に慣れるだけで大変でした。自然農の畑づくりに挑戦したり、なるべく地元産の無農薬の食材で料理をしたりはしていましたが、子育てしながらなので、理想としていた里山暮らしは全然できていなかったんです。でも、震災を機に、やはり持続可能な暮らしを実践したいと思うようになりました。

そこで、今はコンポストトイレや薪風呂づくりなどを少しずつ進めているほか、ボランティアの人たちに協力してもらいながら、外にある納屋やピザ小屋、蔵を無料で滞在できる施設につくりかえているところです。ボランティアの人たちはもちろん、『自給自足の暮らしをちょっと体験してみたい』人たちにも泊まってもらえるようにしたいと思っていて、誰もいないときは自分たちもそこで生活するつもりです。日頃から自給自足できていて外での生活に慣れていれば、災害が起きたときも動じずにいられるんじゃないかと思っています」

そんなサナさんは、これからは「自然と一緒に暮らしていくことが『普通』になるようにしていきたい」と話す。

「私たちがいる場所は、もともと過疎化が進んでいて、震災が起こらなくても50年後にはどうなっているかわからない集落です。であれば、ただ前の状態に戻す復興をするだけではなく、面白いアイデアで復興していけたらいいんじゃないかと思っています。自然のなかで、自然と共に生きる──能登が、それを先導するまちになり、世界でも注目されるくらい有名になっていけばいいなと密かに思っているんです」

地域の伝統と環境を守りながら、コミュニティのハブを

珠洲市三崎町。能登半島の北端近く、目と鼻の先に海があるその場所にも、屋外での生活拠点、地域コミュニティの拠点をつくろうとしている人たちがいた。4年ほど前に関西から移住し、「さだまるビレッジ」として自然と共に暮らす生活を営んできた竹下あづさ・定均(さだまさ)夫婦。自らが被災者でありながら、発災直後から先陣を切って地域の人たちへの支援を開始、同時にボランティアの受け入れも行うなど、支援の中心的な存在として走り続けてきた。

さだまるビレッジ

緊急支援が必要な人は減ったが、いまだ避難所にいる人や仮設住宅で暮らす人、二次避難から帰ってきた人など、人々の状況やニーズは多様化している。そんな今、あらゆる支援現場を見てきた二人が取り組もうとしているのが、空き家の活用や小屋づくりを通した「居場所づくり」だという。

「震災で自分の家が壊れた人たちのなかには、修理すれば住めるけれど、この際解体してしまおうという人が少なくありません。ですが、直せば住める家を壊してしまうのはもったいないし、古い家々が解体されて新しい家ばかりが建ってしまうことで、能登の魅力がなくなってしまう気がしています。珠洲はもともと、農民漁民のまちで、田舎の落ち着く雰囲気が漂う場所です。そこに、ハウスメーカーの綺麗な家が並ぶのが、想像できなくて。なので、まだ住めそうな空き家を探して借りることで、地域の伝統を守っていきたいと考えているんです」

震災が起きても、能登の自然の美しさは変わらない。しかし、近代的な建物が増えれば、まちの雰囲気はガラッと変わってしまう。そう考える二人は、伝統的なまちの建物を守りながら、同時に地域の人たちのための拠点をつくろうとしている。

さだまるビレッジ

「被災した多くの人たちにとって、第一目標は仮設住宅に入ること。だけど、仮設は狭いし隣の家とも距離が近い。最初は良いかもしれないけれど、結局、壊れかけの家や車庫で日中を過ごし、寝るときだけ仮設に行く人、もともと住んでいた家に戻る人もいると聞きます。子どもがいる人にとっては、特に仮設での生活は大変です。

また、入居期間が2年間と決まっているので、仮設に入ることができても、次にその先のことを考えないといけません。なかには、アパートには住みたくない、もともと珠洲に残っている昔ながらの家に住みたいお年寄りもいて。そういう人たちに空き家を貸したり、彼らが住めるシェアハウスような拠点をつくったりできればいいなと考えているんです」

さらに、そうした空き家を「コミュニティスペース」として地域の拠点にしていきたい、とあづささんは言う。

「震災によって使えなくなってしまったお店は、やっていた人が高齢だとそのままたたんでしまうパターンが多いんです。今も営業している店は数えられるくらい。新しいことをどんどん始めていかないと、まちは萎んでいってしまうんですよね。

だからこそ、ボランティアの人や能登に来てみて『いいとこじゃん』って思った人を受け入れられる拠点が必要だと思っていて。たくさん人が入ってきて混ざっていけば面白いし、外から来た人たちが何かを始められる場所があれば、まちの未来にもつながっていくと考えています」

さだまるビレッジ

さだまるビレッジに集ったボランティアたちが作業している様子

空き家を活用した拠点づくり。加えて、竹下さんたちは、自宅の広いスペースを活かし、「新たな暮らし方」を提案したいという。

「今、小屋やトレーラーハウスをいくつかつくろうとしています。昔から能登の人たちの多くは、贅沢な暮らしをしていたわけでなく、多くがほぼ自給自足の暮らしをしてました。『家はなんでもいいから畑したい』というおばあちゃんも結構いるので、そういう人たちのために小屋を建ててあげられたらいいなと。台所などの共用スペースがあり、その周りに小屋がある。そんな新しい暮らし方もいいのでは、と思っているんです。

また、この前アーティストの方に来ていただいて、廃材でつくった小屋の中に茶室をつくってもらいました。家族で仮設に入ると、パーソナルスペースがありません。そのことがずっと気になっていて。そういう人たちが、一人でぼーっとしたいとき、ふらっと泊まりに来たりリフレッシュしたりできる場所として使ってもらえたらいいなと思ってつくりました」

さだまるビレッジの茶室

中がくつろげる茶室になっている移動式の小屋

地域の人たちの居場所をつくろうと動き始めたあづささん。もともと、海のごみを作品に変える活動をしていたが、7か月経ってもまだ復興が進んでいない今、海ごみではなく、「まちのごみ」をどうにかしていかないといけないと、想いを口にした。

「今は、海ごみどころか、町中がごみだらけになってしまいました。処分も全然追いついていません。ただ、崩れかけた家屋のなかには、良い木材もたくさんあって。そうした素材をとっておき、小屋を建てるとき、地域の人たちが再建するときに使えたら良いのではないかなと思っています。町中を解体すると、かなりの量のごみが出ると言われています。それを全部運び、金沢の焼却場で燃やすのは大変な作業だし、環境負荷も大きいです。まだ今はそこまで考えられるタイミングではないかもしれませんが、廃材を少しでも活用していけたらいいのではないかなと思っています」

さだまるビレッジの竹下夫婦

定均さん(左)とあづささん(右)

「暮らし方」から復興していく

「風の心地よさ、美しい自然、誰かにあげるために余分に野菜を作る『ギブの精神』。この風景を守っていくために、誰かがプレーヤーにならないといけないと思ったんです。自分がこの暮らしを豊かだと感じたならば、一員として飛び込んでみよう──そう思い、10年前に能登に移住してきました」

元旦の震災前、輪島市三井町にある「里山まるごとホテル」を営んでいた山本亮さんは、移住のきっかけをそう語った。

発災当時、東京にいた山本さんは、その後能登に戻り、近所のキャンプ場「健康の森」に勤務していた尾垣吉彦さんと共に、ボランティアの拠点「のと復耕ラボ」を立ち上げた。里山まるごとホテルの茅葺の建物自体が被害を受け、営業できなくなっていたこともあり、そこをボランティアの人たちが寝泊まりしながら支援活動に従事できる拠点にしたのだ。

のと復耕ラボ

本格的にボランティアの受け入れ体制を整えたのは4月頃。その時々の支援のニーズとボランティアのニーズをできるだけマッチングできるよう仕組みをつくり、7月末までに、およそ1700人のボランティアが訪れたという。

「1月の時点では、『3か月運営すれば何とかなるだろう。その後は自分たちがやりたいことをやろう』と考えていました。しかし、現実は厳しくて。4月にはボランティアがほとんどおらず、復興が全然進んでいない状況でした。そのとき、一度ちゃんと受け入れ体制を整える必要があると感じ、新たにコアメンバーに加わってくれる人たちと一緒に始めました。何度も何度も、活動を辞めようと思いながら、その度にやって来るボランティアの人たちに力をもらい、『まだできるかも』と踏ん張ってきました」

なかなか進まない復興。県としても9年と長期にわたった復興計画を進めようとしているなか、山本さんは、のと復耕らぼの活動として、「暮らしづくり」に力を入れていきたいと話す。

「農家でありながら、外から来る人たちとかかわり、地域一帯を守ったりより良くなるようにしたり。そんな暮らしをやりたいと思って僕は能登に来ました。でも結局は、週5・6日働き、残った日に畑仕事をするので精一杯。振り返れば、移住してからの10年間、能登での生活を楽しんでいたものの、やりたかった『暮らし』が全然できていなかったんです。

でも、震災によってリセットがかかった今、改めて田んぼや森づくりを中心に『暮らし』を実践したいと思っていて。森とかかわることで、薪で自分たちのエネルギーを得られるのか、田んぼやってみたらどう変わるのか。業としてではなく、『営み』としてそういうことをやってみたら、どんな変化が生まれるのか──そんなことを、自分たちだけでなく、関係人口と言われる人たちと一緒に、やっていきたいなと思っているんです」

里山まるごとホテル

ボランティアで来てかかわるようになってくれた人たちや周りの人たちを巻き込みながら、里山の暮らしをもっと楽しんでいきたい。そう話す山本さんは、それからこう続けた。

「そう思ったのは、今の70代より上の人たちの里山とのかかわり方、暮らし方を残していきたいと思ったから。たとえば、この地域には野草が260種類くらいあるのですが、どこに生えているか、いつ採るのか、どういうふうに使えるかを知っているおばあちゃん、おじいちゃんがたくさんいて。山に山菜を取りに行ったり梅干しを作ったり、日々の営みを実践しているんですよね。

里山まるごとホテル

それって、年老いて時間があるからとかではなく、体に馴染んでいるんですよ。『この季節にはこれをやる』というのが習慣になっている。だから、震災があって家の片づけが全然できていなくても、じゃがいもを植えたり、田植えをしたりする。家のことやお金を稼ぐことよりも『営み』を実践しているんです。

そういう価値観に僕は魅力を感じるし、大事にしていきたい。だから、今までの優先順位を変えて、自分がそんな暮らしを実践していこうと思ったんです。週5日で暮らしを実践して、週2日で稼ぐための仕事をする。これまでと真逆の生き方に変えた方が、能登の自然はより豊かになるだろうし、そういう復興のあり方もありなんじゃないか、と思ったんです」

のと復耕らぼ・山本亮さん

東日本大震災の際、日本では「エネルギーの変換」問題が提起された。一方で、今回の能登半島地震においては、「暮らし方や生き方」が提起されても良いのではないだろうかと山本さんは言う。

「たとえば、能登の食材をブランディングして、高く売っていきましょう、という復興のあり方もあると思うのですが、大事なのは、豊かな里海を里山を守り育てていくこと。山が荒れるから海が荒れるし、山が荒れるから獣害被害が増える。この問題に目を伏せてブランディングと言っても、僕にはそれが『対処療法』であるようにしか思えないんです。

輪島市の市域の8割は山林なのですが、20~30年で林業の従事者が50人くらい減ってしまいました。その山林を放っておきながら、環境へ負担をかける。自分自身、ずっとそういう生活をしてきた一人です。だからこそ、このタイミングで、自分で自然の恵みを得て生活できる仕組みをつくりたい。それが今、一番わくわくすることだと感じています」

のと復興ラボに滞在する人々

のと復興ラボに滞在するボラティアたち

「ラボ」という名の通り、山本さんたちは、のと復耕ラボを「実験の場」にしていきたいと言った。ポータブル電源とソーラーパネルがあれば、トレーラーハウスでオフグリッド生活できるのか。薪ボイラーを使ってお風呂のお湯を沸かせるか──みんなで実験しながら、暮らしをつくりあげていくのだ。

「世の中には色々な技術があるけれど、使ったことがなければそれがいいのか悪いのかわかりません。だからこそ、自分が実際に使ってみて手垢を付けていくことによって、初めて自分の暮らしのなかに落とし込むことができると思うんです。その結果、何の仕事につながるかわからないけれど、そうした暮らしをみたい、知りたい人が来てくれるかもしれないし、そういうツーリズムが生まれていったら面白いですよね。

本当はみんな、もっとゆっくり生きたいとか、自然に触れたいという欲求を持っているはず。だけど、それができていないのが今の世の中だと感じています。そんな今だからこそ、これからの能登の姿が、人々の価値観を変えるきっかけになれるかもしれないし、なれるといいなと思っています。稼ぐための生き方ではなくて、生きるための営みを続けていく。自分ができることが増えていくことで、自信や安心感が増していくし、何より『ちゃんと暮らしをする』ことは、楽しくて豊かなんです」

のと復耕らぼの皆さん

編集後記

今回の能登の震災のような大きな災害は、文明の利器に頼り切っているがために非常時に生き延びられない、人間の「弱さ」を露呈させる。それはまた、「便利なのが当たり前」に慣れ、自然と共に生きることを忘れてしまった私たちに、その「忘れ物」を取り戻すようにと聞こえない声を発しているようだと思った。

筆者が能登で出会った人々は皆、口を揃えて、「暮らし方」について語った。それは、人間中心の暮らしではなく、自然と共に生きる暮らし。大地のリズムを大事にする暮らしであり、長い間多くの地で続いてきた「営み」である。

能登の海

自然の一部として、日々の暮らしを紡いでいく──そんな生活を営んできた人々の知恵がわずかでも残っている今こそ、私たちはどこかに置いてきてしまった「忘れ物」に気づき、それを探し始めなければならないのかもしれない。

【参照サイト】土とDISCO
【参照サイト】さだまるビレッジ
【参照サイト】のと復興ラボ

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