「誰もが一生に一度は、ロンドンやヴェネツィアのような素晴らしい都市を訪れる機会を持つべきだ」
そう語ったのは、世界最大の旅行関連企業のひとつ、Booking Holdings(Booking.comの親会社)のCEO、グレン・フォーゲル氏である。彼は2025年8月6日、BBCのラジオ番組「Today」で、オーバーツーリズム問題への解決策として、人気観光地への訪問を「抽選(lottery)」で制限する仕組みを提案した。
観光都市をめぐる規制はこれまで、値上げによる「経済的なハードル」をつくることが中心だった。たとえばイタリアのヴェネツィアでは入市料が導入され(現在10ユーロだが、100ユーロにすべきだという声もあるほどだ)、オランダのアムステルダムでは宿泊税が引き上げられている。それらは確かに観光客数を抑制する効果をもたらすが、同時に「払える人」だけが現地にアクセスできる仕組みを生み出す。
フォーゲル氏は、ラジオ番組の中でこうした現状を「観光が富裕層の特権となってしまう危険」と話し、「高額化のみに頼るのは世界にとって良くない」と強調する。だからこそ、抽選制と価格調整を組み合わせることで、経済力に左右されない公平なアクセスを確保できると提案するのだ。
「私の仕事は人々を別の場所に行かせることではない」という言葉は印象的だ。夢見てきたロンドンを訪れたい人に「代わりにバーミンガムへ」とは言えない。観光は単なる商品ではなく「人生の一部」である──彼の発言からは、そんな意図が汲み取れた。
観光の抽選制は前例のない発想ではない。米国の国立公園ではラフティングや山小屋の宿泊が抽選で割り当てられ、日本国内の文化行事や人気イベントでも応募抽選は広く行われている。公平に機会を分配し、観光客数を管理する仕組みとして一定の効果は期待できる。
しかし課題も多い。誰がどのように抽選を行うのか、透明性をどう確保するのか、落選者の不満にどう応えるのか。また、観光収入が一時的に減少する可能性も無視できない。責任ある観光を推進するNGO「Responsible Travel」のCEOジャスティン・フランシス氏は「抽選自体には意義があるが、社会的弱者に優先枠を設けるべきだ」
と指摘している。制度設計の細部こそが、成否を分けるだろう。
抽選制度は観光の公平性を確保する有力な方法の一つだ。しかし同時に考えるべきは、旅の本質が「効率」や「公平さ」だけで測れるものではないという点ではないだろうか。
迷子になること、不便さに直面すること、予想外の出会いに驚くこと──そうした摩擦や偶然性が、旅を単なる移動以上の体験に変えてきた。制度やテクノロジーが過剰に整えられた世界では、旅が「消費されるパッケージ」に矮小化されかねない。
フォーゲル氏の提案は、観光の公平性と持続可能性をめぐる議論を前に進めるものである。しかしその先にある問いは「誰のための観光か」だ。富裕層のためか、すべての人のためか、あるいは地域社会のためか。
抽選制度は、その問いに向き合うための一つの入口に過ぎない。観光を未来へとつなげていくためには、公平性と持続可能性、そして文化としての旅の価値。この三つを同時に考え続ける視点が欠かせないのだ。
【参照サイト】The CEO of Booking.com Speaks to Wake Up to Money
【参照サイト】Holiday roulette? Boss of world’s richest travel firm proposes lottery to tackle overtourism
【関連記事】「夏のサントリーニ島はおすすめしません」仏・旅行会社が人気観光地を“ディスる”広告を出したワケ
【関連記事】オーバーツーリズムに加担したくないあなたへ。「より良い旅行者」になるためのヒント7選