芸術の秋、アートの季節である。しかし、アート鑑賞と聞くと、作者や作品について詳しい知識がないと楽しめないと思っている人もいるかもしれない。そんな思い込みをなくし、アートをとおして「当たり前」を疑い、「違いをおもしろがる」ワークショップが東京で開催された。
それが、NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]が2001年から開講している現代アートの学校MAD(Making Art Different )のひとつ、「一緒に見ること、眺めること- 目の見える人と見えない人の鑑賞ワークショップ」である。これは、現代アートの学校MADの「アートとアクセシビリティの新しい視点」コースの1回として開催された。
当日話をしたのは、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」代表の林建太さん、スタッフでナビゲーターを務める中川さんと永尾さんである。今回のワークショップでは、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の活動について、「障害」や「鑑賞」を取り巻く問題、それらのあり方の変化などをテーマに議論が交わされたほか、通常美術館や博物館でナビゲーターの方とおこなっている美術鑑賞ワークショップの疑似体験をすることもできた。
「見えないもの」を言葉にするワークショップとは?
Q. 「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」は、2012年から122回以上開催され、参加者は360名ほどの視覚障害者も含め1700名を超えている。林さんは、なぜこのワークショップをはじめたのか。
林さん:視覚障害者の友人と美術館に行ったとき、作品について「説明」できなかったんですよね。一生懸命「説明」しても「面白くない」という返答。この現象は何なんだろうという疑問を持ちました。見える人に対する「説明」をしていたことに気づいたとき、客観的で一方的な「説明」をやめて、比喩や主観的に感じたこと、感情的な言葉を複数の人と一緒に話してみたら友人がおもしろがってくれたんです。その現象はなんなのかもう少し多くの人と考えてみたいと思い、2012年に組織として活動をスタートさせました。
Q. ワークショップの特徴は?
林さん:一つ目の特徴は、見える人と見えない人が一緒に鑑賞することです。
次に「見えるもの」「見えないもの」を言葉にします。このワークショップでは、色、形、大きさ、モチーフといった「見えるもの」と、印象、感想、解釈、思い出したことなど、言葉にしなければ他者が知りえない「見えないもの」を言葉にしてもらいます。
そして複数で見て、共同で作品の魅力を発見するのも、このワークショップのスタイルの特徴のひとつです。その場にいる人によって違ったものが生まれるライブ感もあります。なので、「障害者のための」ではなく、「障害者とつくる」というのが大事です。
今回の「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」模擬体験では、まずある作品を見てなにが描かれているのかを話し、「見えるもの」の全容を少しづつ明らかにする流れだった。
次に「見えないもの」について各自が感じたことを共有。たとえば「おいしそう」といった感想だけでなく、「どうしておいしそうだと思うのか?」も掘り下げていくと、一歩思考が深まる。こうしてどんどん印象へと話を広がっていった。
そして感想が出尽くしたところで、作品名と作者についてタネあかし。「見えない」印象を言語化し他の人の感想を知る、そのプロセス自体を楽しむ鑑賞方法であった。
「なにがいいの?」を知るのが楽しい
「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」のスタッフである視覚障害者の中川さんと永尾さんに、どうアート鑑賞をしているのかについてお話を聞いた。
中川さん:美術館にある音声ガイドは目の見える人のための美術鑑賞の補助であり、ガイドを聞くのは本を読むような感覚です。でもこのワークショップでお客さんが作品について話している会話には、本にはないおもしろさがあり、私はそれを聞いて作品を見たり眺めたりしています。同じ作品でも、「トンネルに入ろうとしている人がいる」と話す人がいる一方、「いやいや、あの人はトンネルから出ようとしてる」と言う人がいたり、人によって見方は違います。
その作品を実際に目で見ることのできない私からすると、お客さんの意見が分かれたり、不確かなほうがおもしろく感じます。逆に同じコメントばかり出てくると、みんな先入観をもって見ているんだなとも感じるので、ナビゲーターとして「本当にそうですか?」と疑問を投げかけるようにしています。
永尾さん:見えることを前提に「良い作品」「きれい」などと言われてもなにが良いのかわからないし、そこがまさに知りたいところです。どうして良いのかは無意識の部分であり、目の見える人にとってはわかりきったことで置き去りになっている。私はもともと大学院で美術史を研究していたのですが、病気で弱視になりました。弱視になってから、作品を目の前にして一方的に説明を受けるだけでは本当に作品を理解したとは思えなかったですが、このワークショップに関わって参加者がどう感じたかを知ることで作品に対して自分が近くなったと感じるようになりました。
「常識」を疑ってモノを見る
私たちは普段、近くで意識的に「見る」行為と引いて焦点を定めない「眺める」行為を、無意識に往復している。文字ひとつとっても、デザインとして形をとらえるのと、意味として読むことも違う。このように対象物との距離を変えることでいろんな「見る」「眺める」があわられる。
「見る」が意識的な一方、「眺める」という行為は無意識でやっていることだ。この無意識なことを自分一人で意識することはできないので、自分の意識の外にいる人たちの言葉を同時に集めて取り出すことが大事になる。
「見えることを前提に作られた社会は見える人にとっては合理的だけど、それが限られた人にとっての合理性であることはマジョリティである見える人は意識することがない。自分がマジョリティに属しているときにアイデンティティを問われることがないのと同じようにです。だから、見えない人がそのなかに入ったときにこそ、どうすればいいのか知恵を絞ることができます。ポジティブでもネガティブでもなく違いを気負わずに安心して話せる場を提供したい。それを語るのにアートはふさわしいと思っています」と林さんは語った。
目の前にはひとつの事実があるだけ。しかし私たちが見ている世界はそれぞれの「フィルター」がかけられており、同じではない。そして普段はそれに気づくこともない。そこにアートが介在し、複数の目が入り込むことで、私たちの世界の見方はもっと広がり、深まっていく。
主観的・個人的なことをシェアして、違いをおもしろがる
ワークショップ後の参加者からの感想のなかに、「美術鑑賞で主観を述べるのが怖い」というコメントがあった。「誤った情報を伝えているのではないか」「自分だけの偏った見方を与えているのではないか」という気持ちからだ。
しかし、中川さんは次のように話してくれた。「美術作品は主観なしで見られないもの。映画や演劇と違って、視覚芸術は見た人の言葉でしか私たちは見ることができません。作品を見る手がかりのひとつとして主観を話すのであれば怖がる必要はないと思います。誰かの主観をひとつの作品鑑賞の素材として自分の感想を持つために使っていて、そこからアートを自分なりに深められます」
また、他の参加者から「そもそも正しく伝える必要があるのかと疑問に思いました。共有すべきは、その人がなぜそのように感じたのかではないでしょうか。自分はここしか見てなかったんだという気づきが得られると思います」という発言があった。
中川さんも「目の見える人は正しく伝えなきゃ、私たち視覚障害者も言われたことを正しく理解しなきゃとお互いにプレッシャーを感じているのではないでしょうか。でもこのワークショップでみんなが感想を共有することで、自分の見えているものだけが正しいわけではないと揺らいでくる。私としても、見えている人にも迷いってあるんだという気づきがあります。こういった日常生活で削ぎ落とされてしまっている、揺らぎや迷い、遊びを感じられるのがおもしろい」
編集後記
人はひとつの答えを欲している生き物であるし、学校では「正しい答え」を学んできた。そのためか、白黒はっきりせずどちらでもないモヤモヤしている状況を心地よく思わない人が多いのは事実である。そこに切り込む力を持ったものが現代アートである。
しかし、多くの人が美術鑑賞には正しいやり方や解釈があると思い込んでいる気がする。だから、アートに対して敷居を高く感じてしまう。そんなアートを、視覚という人間の五感のなかで最も強力な感覚がない視覚障害者の方と「見たり」「眺めたり」することで、自分の意識の外にある部分や新たな見方が見えてくる。そして、よくわからない感覚も含めて自分の感性を大事にしていいのだと気づき、怖がらずに誰かと共有することを楽しいと思うことができる。それが、一番の収穫なのではないだろうか。