「終わり」「死」──この2つの言葉を聞いてイメージするのは、どのような色だろう?
きっと、多くの人が「黒」「灰色」「青」といった暗い色を想像するのではないだろうか。「あまり良いことではない」「悲しい」といった言葉が思い浮かぶ人も少なくないかもしれない。
でも、「終わりや死」って、本当にネガティブなものなのだろうか──。
「今って終わりへのタブーがあると思うんです。終わっちゃいけない、成長していかなきゃいけないという風潮がある気がしていて。『いつから終わりがタブー視されるようになったんだっけ?』という問いについて探っていくなかで見えてきたのが、“死に出会わなくなったこと”でした。」
そう話すのは、株式会社むじょうの前田陽汰(まえだ ひなた)さん。死が人々から離れつつある今、彼は血縁がなくても誰でも追悼の場を主催できる「葬想式」や、遺書を書き、棺桶に入ることで自分の死を客観視できる「棺桶写真館」を通して、「死に気付く」ことに挑戦している。
そんな前田さんに、事業立ち上げのきっかけや、それぞれのサービスに込めた想いを伺った。
話者プロフィール:前田 陽汰(まえだ ひなた)さん
株式会社むじょうで代表取締役を務めるほか、地域活性化以外の選択肢について模索するNPO法人ムラツムギでも代表理事を務める。撤退・消滅・死といった忌み嫌われる変化に対し、優しい眼差しを向けるべく、無常観というメンタリティを現代に取り戻す事業を行っている。
地域をどう活性化させていくか、ではなく「どう畳んでいくか」
2020年5月に「株式会社むじょう」を立ち上げ、「死」をテーマにした活動を行ってきた前田さん。その原点は、4年程前から「まちの終活」「まちをどう閉じるのか」をテーマにNPO法人で活動してきた経験にある。
普通科の高校で大好きな釣りができるという理由で、高校進学に際して移住したという島根県海士町(あまちょう)。地方創生を学びに来る人が多く、地域活性化の取り組みが活発なことで知られるその町で、前田さんが興味を持ったのは、地域を「どう活性化させていくか」ではなく「どう畳んでいくか」だったそう。
「私は畑や漁の手伝いを釣りを通して地元の方によくお世話になっていました。そのなかで、『もう活性化を目指すのは疲れた』『子どもも返ってこないし、この集落の先は長くない』と思っている地元の方の率直な想いに触れることがありました。そのときに、『活性化も大事だけど、みんなが罪悪感やうしろめたさを感じずに死んでいけることが大事ではないか』と感じたんです。」
手触り感のない“活性化”には興味がなく、一人の生活者として日々釣りのことしか考えていなかったからこそ、現実をフラットに捉えられた気がする。そう振り返る前田さんは、こう続ける。
「地域活性化の取り組みが実を結び、にぎやかになっている町がある一方で、10年後には人がいないんだろうなという集落もあります。活性化する状態を“正解”とラベリングすると、意志を持って活性化を目指さないという選択をした地域には、“不正解”という相対的なラベルが貼られてしまう──そんな空気を感じたんです。もちろん活性化させることも大切ですが、自分は、“今ここに住んでいる人たちがどう生き切るか”に、焦点を当てたいと思いました。」
変化にもっと優しくなって、生きやすい世界に
町を「畳む」ことも選択肢の一つに入れてもいいのではないか──そう感じたことから、より良く終わる、潔く畳むという選択肢を考えるようになった前田さん。「終わっちゃいけない、成長していかなきゃいけない」といった成長一辺倒の風潮があるなかで、その風潮が生まれた理由を問うたとき、見えてきたのが、私たちが“死に出会わなくなった”現実だったという。
「かつて日本では、お葬式は相互扶助の形で地域で執り行われていました。隣に住んでいる人が亡くなったら葬式を手伝うので、人々は自然と遺体を見ます。つまり、死と対峙する機会がありました。しかし、戦後直後くらいから葬式は“商品”になり、人々は死に触れることがなくなっていったんです。」
一人一人が死から遠ざかり、終わることや死ぬことを意識することが少なくなった。そんな今こそ、生老病死という抗うことのできない内なる自然と対峙する必要があるのではないか。「まちの畳み方」に限らず、終わりという変化に優しい眼差しを向けるメンタリティが成長一辺倒の次を作り出すのではないか。そのような仮説を出発点に前田さんが立ち上げたのが、「株式会社むじょう」だった。
「万物に常はない」「どんな物事も永遠ではない」──そのような意味を持つ「無常」という言葉から名付けられた同社は、「変化にもっと優しく」という理念を掲げている。変わりゆくものに対して、もっと優しいまなざしを向けていけたら……そのような想いが込められているという。
「たとえば、『バイト辞めます』の一言は、結構言いづらいですよね。でも本来、バイトを辞めてもその人の人生は終わらないし、むしろ“新しいことがスタートしていく”タイミングとも言えます。私たちは、『終わらせることはネガティブなことではなく、始まりへの境目』だと考えています。」
「それは、“死”という終わりに関しても言えます。大事な人が亡くなったらもちろん悲しいけれど、人間は皆いつかは死ぬ存在。悲しい一方で、その人が亡くなったからこそ、見えてくることもあると思うんです。たとえば、『その人がいない新しい日常が始まる』というのも、死が持つ性質だと思っていて、『そっち側にも光を当ててみる』考え方もあると思っています。」
「こういう捉え方をすることで前向きになれ、と言いたい訳ではありません。だけど、一人一人が少しでも生きやすくなるためには、『変わっていくこと』に光を当ててみてもいいのかなと感じていて、そんな選択肢を提供できればいいなと思っているんです。それが、『変化にもっと“優しく”』という理念に込められた想いでもあります。」
身内だけでなく、誰でも追悼の場を主催できるプラットフォーム
むじょうは立ち上げ以来、いくつかのサービスを展開している。その一つが、オンラインの追悼サービス「葬想式」。友人など、親族以外も主催できる追悼の場だ。身近な人の死の前後に抱いた「お葬式に関する違和感」から思いついたという葬想式。一体どのような想いが込められているのだろうか。
「このサービスの目的は、これまで血縁に紐づいてきた死というものを、血縁以外にも広げていくことです。お葬式をどうするかって、基本的に遺族が全部決めるじゃないですか。また、お墓参りへ行くときには家族に一報入れることも多いですよね。『死は穢れだから身内が処理しようよ』というのが、昔から現在にまで続いてきた文化なんです。」
「一方で、裁量がすべて遺族にあることで死を私有化するような状況になってしまっています。今はSNS一つで誰とでもつながれるし、飛行機一本で国境を超えられる、言わば血縁や地縁だけでないさまざまな関係性をつくれる世の中ですよね。でも、死に関しては、未だに身内だけみたいな風潮があると感じていて。そこを解きほぐしていきたいと思ったんです。」
親族以外の人たちも弔える「葬想式」という場。これをつくろうと考えた背景には、血縁関係の有無を問わず、「誰もが悲しむ権利を持っている」という前田さんの考えがあった。
「たとえば、亡くなった人と年に一度しか会っていなかった親族と、毎週会っていた親友。そのどちらが悲しいですかと聞かれたら、どちらとも言えないと思うんです。友人にも弔ったり、悲しんだりする権利がある。でも近親者のみでのお葬式では、友人たちの感情の行き場はありません。その想いの行き場をインターネット上に作ろうというのが、葬想式。お葬式を代替するというよりは、お葬式で抜け落ちてしまう部分を補完していくものですね。」
そんな葬想式のほか、むじょうは、自身の死を体感できる機会を提供している。それが、「棺桶写真館」。遺書を書いた後に、棺桶に入り、棺桶の中の自分を撮影することを通して、自分の死を客観視できるサービスだ。
そのコンセプトストーリーには、こんな言葉が並んでいる。
私たち人間は自然をコントロールできるようになってきました。
アスファルトの道。河川の護岸。各家庭のエアコン。いつしか、自然に勝てると錯覚を起こしてしまっています。
人間も自然なのに。
“ここ(棺桶)に来てしまったら、何もできないや”
死という内なる自然には敵わない、という“負け感”を味わってください。
そして、今の生の尊さを見つめ直してください。
葬想式と棺桶写真館──この二つに共通するのは、「いずれも“あいまいな死”を扱っていることです。」と、前田さんは話す。
「葬想式でいうと、たとえば何十年も会っていない小学校の担任の先生が亡くなったとき。長い間会っていなかったならば、『亡くなったとしても同じ』という捉え方もできると思います。これが、“あいまいな死”なのかなと思っていて。葬想式を通じて故人に向けてメッセージを書いたり、カメラロールを遡って思い出を振り返ってみたり……手や頭を動かして故人に想いを馳せることは、あいまいな状況から解像度を上げ、亡くなったことを理解しようとする営みだと思っています。」
そのように、他人の死、つまり「二人称(あなた)の死」を扱っている葬想式に対して、「一人称(じぶん)の死」を扱っているのが棺桶写真館である。
「他人が死ぬこともそうですが、『自分が死ぬ』ことも割とあいまいだと感じていて。今の時代、外で野垂れ死んでいる人を見ることはないですし、人の死を見る機会が本当に少なくなりました。ある種『死を遠ざけることに成功した』現代だからこそ、多くの人にとって、“死”がリアリティのないものになってしまったと感じています。」
「そうなると、“締め切り感”はなくなります。人生の締め切りである死と言うものが遠ざかると、なかなか締め切り効果を持っていきていけないと思っていて。締め切りがあるからこそ、『生きているうちにこれをやりたい』など、自分の人生と向き合えることもあると思うんです。締め切り効果をうまく活かせないことは、もったいないことだと感じました。」
「そこで、棺桶写真館を通して、先に肉体の最終地点に行ってみる。つまり、『身体性を伴って死ぬ』という体験をしてみることで、自分の死に想いを馳せられるのではないかと考えたんです。それが、一人一人が生の尊さに気付くきっかけになるかもしれません。」
「亡くなってから新しい思い出ができました」
死と生──この対照的な二つと向き合う“きっかけの場”として機能する葬想式と棺桶写真館。実際に利用した人からはどのような反応があったのだろうか。尋ねてみると、前田さんは葬想式を利用した人たちの声を共有してくれた。
「印象的だったのが、19歳の息子さんを亡くして葬想式で開式した、あるお母さんです。葬想式では、参列者たちは、故人へのメッセージや思い出の写真を共有することができます。そこで、集まった男の子の友達たちは思い出の写真を共有していたのですが、その写真を見たお母さんが、『私の知らなかった息子の一面と出会いました』とおっしゃったんです。」
「同様に、20代半ばの方が亡くなって、そのお母さんが開式された際も、『新しい思い出ができました』という言葉を残されました。人が亡くなったら、新しい思い出はできないと思っていたのですが、亡くなった後でも、『誰かの思い出が、他の誰かの思い出になる』と気付きました。」
ネガティブに語られる“終わり”に優しいまなざしを
最後に、これから挑戦したいことや読者に向けたメッセージを前田さんに伺った。
「『終わりと始まりは隣り合わせ』そんな捉え方が広まっていくといいなと思っています。今後はそういう触媒になれるような作品(プロダクトや企画)をもっと考えていきたいですね。」
「伝えたいことは、『変化にもっと優しく』に尽きます。変化と言うのは死に関することだけではなく、撤退や解散などもそうです。ネガティブに語られてしまう“終わり”というものに優しいまなざしを向けてみてはどうか。そんなメッセージを伝えたいです。」
編集後記
「喜びがいつまでも続かないように、悲しみもいつまでも続かない。」
前田さんの言葉のなかで印象的だったものだ。これを聞いて、思い浮かべたことがある。
私たちは、悲しいことがあったとき、「時間が解決してくれる」という言葉を使うことがある。時間が経てば、いつのまにか悲しかったことも忘れている。そんな励ましの意味を込めて、使われることが多い言葉だろう。前田さんの言葉を聞き、これはきっと、根拠のない単なる励ましの言葉ではないと思った。たとえ自分の周りは何も変わっていないように見えても、時間だけは常に進んでいるから。そして、世界は動き続けているから。
そんな「変わりゆく」側面に光を当ててみたら──。ネガティブに語られる「終わり、死、悲しみ」と、その対極にあるであろう「始まり、生、喜び」が、実は表裏一体であると気付き、いつもより少しだけ、前向きな気持ちで生きられる気がする。
【参照サイト】株式会社むじょう
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