東京での暮らしは便利だ。家の目の前にスーパーもコンビニもあって、最寄り駅の電車は10分に1本出ている。必要なものはすぐ手に入るし、行きたいところへ行くのもそう難しくはない。
筆者は最近、そんな東京の生活を離れ、四国の田舎に移住した。スーパーもコンビニも、歩いて行ける距離にはない。日用品は市内まで移動して買わなければならないし、近所に外食ができる場所はない。どこに行くにも車で10分以上かかるので、気軽にどこへでも移動できるわけではない。正直、不便だと感じることもある。
それでも筆者は、便利な暮らしができた東京での日々よりも、ここでの暮らしが気に入っている。朝晩の静けさも、顔見知りの人との何気ない会話も、いつも行くカフェの薪ストーブのあたたかさも、手触り感があって心地が良いのだ。
便利であればあるほど幸せになるわけではない──そう考えているときに出逢ったのが、作家・四角大輔さんの本だった。本には「身の丈」という言葉が登場する。
もっともっとと何かを求めるのではなく「減らす・手放す」ことで、自分のほどよいポイントを探る。それが幸せのカギなのだ──筆者はそんなメッセージを受け取った。
前著「超ミニマル主義」では、生産性を向上させながらストレスと労働時間を最小化する方法が紹介され、IDEAS FOR GOODでも取材をした。
▶ 仕事を“軽く”して楽に生きる。執筆家・四角大輔さんが考える「超ミニマル主義」
一方、2023年10月に出版された「超ミニマル・ライフ」では、身体や食、心と脳、人間関係、お金といった分野まで網羅し、本当の意味で「心が満たされる生き方」を実践するためのメソッドが語られている。
2冊の出版を通して、四角さんは社会にどのようなメッセージを伝えてきたのか、そして背景にはどのような課題意識があったのか。インタビューを通して、現在の社会の悪循環と、そこから抜け出すためのキーワードが見えてきた。
話者プロフィール:四角大輔(よすみ・だいすけ)
作家/森の生活者/環境保護アンバサダー。ニュージーランド湖畔の森で、サステナブルな自給自足ライフを営み、場所・時間・お金に縛られず、組織や制度に依存しない生き方を構築。「グリーンピース・ジャパン」「フェアトレード・ジャパン」「Earth.Org」等の国際NGOの日本人初アンバサダー、環境省「森里川海」のアンバサダーを務める。レコード会社時代には、ヒットメーカーとして10回のミリオンセールスを記録。『超ミニマル・ライフ』『超ミニマル主義』『人生やらなくていいリスト』『自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと』など著書多数。会員制コミュニティ〈LifestyleDesign.Camp〉主宰。「もっともっと」の日本社会にある渇望症のループ
現代社会では、常に成長すること、上を目指すことが求められる。この成長志向は、人間が生き残るために本能としてインストールされているものではある。しかし、生死の危機に直面することがほとんどない社会においても「競争」が採用されてしまった結果、息苦しさを感じる人も多いという。
こうした日本社会の様子を、四角さんは「渇望症」と表現した。この症状が見られるのは、大きなシステムだけではない。心・経済・社会という要素が相互に影響しあって症状が見られている。
「渇望というのは、人間の本能でもあります。長い人類史の99%の期間を、人間は物質的な不足に苦しんできた。水も食料も足りなかった世界において、足りないことや渇きへの恐怖感が、脳の原始的な部位にインストールされているんです」
こうした本能的な心の作用を煽る形で形成されているのが、資本主義経済だという。
「経済そのものは、モノの流通という形で紀元前から存在していました。そこに貨幣が投入され、パワフルな資本主義経済となっていった。人類が苦しんできた物質的な不足を解消し、数々の課題を解決するまではよかった。今や充分に足りているはずなのに、『足りないこと』への恐怖感がハックされ、経済は拡大・成長し続けるべきという幻想に日本は支配されています」
こうして成長し続けることが良いと思い込まされた結果、教育や文化といった社会面においても拡大や成長が求められることになった。多様な学びや文化が受け入れられて良いはずが、互いを比べ合い、競争することで、優劣が伴うようになったといえる。
経済活動だけでなく身近な生活にも「比較と競争」という習慣が植え付けられたことで、人間の脳も、まわりと比較して競争に勝つほうが望ましいのだと再認識する。つまり、脳から経済、経済から社会、社会から脳……と互いに作用し合い、「もっともっと」手に入れなくてはという気持ちを増強するループが存在しているのだ。
私たち個人は、この悪循環の仕組みを構成する一部であると同時に、被害者でもある。自分の健康や時間、自然環境、大事な人との時間など、多くのものを失ってしまっているからだ。この「渇望症」に陥った脳によって、心からの幸せを感じることが難しくなってしまった。
ムダをなくして「心」が感じるものに
「もっともっと」を目指すなかでは幸福を感じることが難しいならば、そのループから抜け出してみてはどうか──そんな問いから「減らした先に幸福がある」という仮説が生まれる。これは身の回りの物質を減らすことだけではなく、心と身体への負担を軽減するために新しい生活習慣を身につけることでもある。
その一歩目としてできることは、日々の生活で無自覚に受け取っている情報の量を減らすことだという。
「まず、日々触れる情報を最小化(ミニマルに)することが大切です。ネットにより、ファクトチェックされていない情報が爆発的に増えた。科学的根拠がなく、事実無根のフェイク情報が頭のなかに貯まると、誰もが理性を失い、自分を見失ってしまいます」
頭のなかに取り込まれる情報は、許容範囲を超えて精神的な負担となっていることが多い。その結果、外部からの情報を処理することで精一杯になってしまい、「自分が何をしたいのか」が分からなくなってしまう。情報量が多ければ多いほど、自分の本当の意思や願いが外部情報に埋もれてしまうのだ。
だからこそ取り戻すべきなのは、外部からの情報に頼らずとも分かる「心の声」だ。
「心の声とは、内なる身体感覚のこと。鳥肌が立つ、胸が熱くなる、嫌な汗をかく、というのは、心が感じた真実を体が教えてくれているんです。頭に外部情報が詰まりすぎて、本能ともいえる身体感覚を失っている人が多い。この感覚に立ち返ることが大事です」
最近、心が動いて鳥肌が立ったのはどんな時だったか。身震いするほど高揚したのはどんな時だったか。わくわくして鼓動が速くなったのはどんな時だったか──そんな身体の反応こそ、頭でっかちでは聞こえない心の声、つまり自分自身が持つ心からの意思や願いなのだ。
その瞬間を求めて“自分”を取り戻していくことが、成長や拡大に代わる目標となりうる。その第一歩が、無意識に受け取り続けている情報を意識的に遮断することなのだ。自分自身が「もっともっと」の流れで受け取ってしまうものにNOをつきつけ、本当に必要なものやことを選び抜くことが重要だ。
足るを知ることは、「身の丈」を理解すること
とはいえ、心の声に従った結果、「もっともっと」と心が動く瞬間を増やしていきたいという願望が出てくるかもしれない。これではまた渇望症に陥り、拡大に依存していることになるのだろうか。
「その『もっと』が“質”を求めるなら真の声ですが、さらに “量”を求める場合は、資本主義にハックされた渇望症の脳が指令する偽の声です。例えば、僕が人生の大半を費やしてきた釣りでは、最初は『もっと釣りたい!』と量を求めた。経験を重ねて満たされ、『足るを知る』ようになると、心に静寂が訪れて『もっとこの道を極めたい』と質を追い求めます。遂には、釣りを極めるために『身の丈』を超えた物事すべてを手放して、ニュージーランドの湖への移住。その結果、僕は真の幸福を手にできたのです」
あくまでも、減らす目的は自分が満足するポイントを探るためであり、完全な自給自足の生活や貧しい暮らしを強いることではない。自分が心地よいと思える、ほどよいポイントを探ることが大切だ。これが「足る」という状態であり、そこに至ったことを感知するためのものさしが「身の丈」だという。
「『足る』というのは身体の機能が安定して、心に静寂がある楽な状態のことです。この状態は、心の声が教えてくれる『人生で大切なこと』に一点集中すべく、余計な物事を手放すことで手にできます。減らしていく過程で、苦しいと思うタイミングが来る。そこから少し戻して楽だと思えるところが、身の丈ポイントです。身の丈に合った成長には喜びがあり、身の丈を超えた拡大・成長はただ苦しいだけだと覚えておいてほしいです」
たとえば、今の仕事は、身の丈に合った環境や収入であるだろうか。もし過度なプレッシャーを感じていたり、自分自身が必要とする以上の収入であるならば、それらを手放すほうが身の丈にあっているかもしれない。
身の丈とは、他者と比較することも、競争することもできない概念だ。かつ、個人にとっての身の丈は大きくも小さくも変化しうるものだという。そんな自分だけの「ものさし」こそ、渇望症や情報社会から抜け出す道標となるのだ。
それでも、減らすことは怖い
ここまで、成長や拡大に依存することの危うさや、代わりに目指すべき「身の丈」について紹介してきた。前述のとおり、減らすことには本能的に恐怖が伴う。それでも、現在の生活において何かを減らすことで命の危機にかかわるようなことは滅多にない。
「手放す恐怖感は、太古からの人間の本能です。でもいま僕らは、死と隣り合わせの狩猟時代でも、紛争国でもなく、安全で便利な先進国に生きていて充分に『足りて』いる。その事実に感謝できれば、人間の理性を取り戻して原始的な本能をコントロールできるようになる。そうやって真の幸せを見つけてほしいんです」
その恐怖を乗り越えて成長・拡大の悪循環から抜け出すには、人々の背中を押す具体的なストーリーが必要だ。誰かが実際に経験したというエピソードほど、強烈に人を動かすものはないだろう。
四角さん自身も、劇的に「減らす」という挑戦をしたひとりだ。その具体的なストーリーは、今回の著書に記されている。まだ減らすことに踏み出せないと感じる人は、赤裸々な体験談にきっと勇気をもらえるはずだ。
そしてなにより、これを読んでいるあなた自身のストーリーが、誰かが「渇望症」のループから脱出するための助けとなるかもしれない。
編集後記
何かを手放すことは、いつだって恐怖が伴う。仕事を手放すこと、家を手放すこと、もっと身近に言えば、最近まで筆者は書き溜めたノートを「いつか読み返さなくてはいけない日が来るかも」と手放すことを渋っていた。
でも、四角さんの清々しい表情と力強い語り口を感じていると、一歩踏み出す勇気が湧いてくるように思えた。四角さんは、音楽業界のなかでも資本主義真っただ中とも言える分野において、誰しもが認める大きな成果を残した地点から、モノ・コトを減らし続け自分を研ぎ澄ませてきた。そのリアルな実体験に、ぜひ多くの人に触れてみて欲しいと願う。
ただし、誰しもが「減らす」という行為ができるわけではない点も重要だ。四角さんは「減らすことは贅沢なこと」と表現した。未だインフラが整っていない国や混乱状態にある地域で、減らすことは求められるべきではないからだ。日本国内であっても、全ての人に、減らした先の幸福を求めるべきではないだろう。
逆にいえば「減らす」という特権的な選択肢を持てるならば、それを行使する責任があるのかもしれない。取材の途中、そう自分に問いかけていた。
また取材を経て、「減らす」という行動は、生活をデザインし直すことのように思えた。私たちが持つ時間や資源は有限。その容量のなかで、自分のものさしでバランスをとり、最も心が豊かになるような暮らしをつくる時間が、今人々に必要とされているのかもしれない。
そのものさしが、渇望症に陥った社会に奪われてしまわないよう、競争も比較もできない心の声に耳を傾けていたいと強く思った取材だった。
【参照サイト】超ミニマル・ライフ|ダイヤモンド社
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