近年、欧米諸国を中心とする先進国において、LGBTQ+の人々の権利を保護し、社会の理解を増進するための取り組みが活発化している。インクルーシブなジェンダー教育を目指すイギリスにおいて、2020年9月から初等・中等学校の教育カリキュラムにLGBTQ+に関する内容が追加されたのも、このような潮流を反映したものだ。
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導入から4年が経過した現在、ポジティブな取り組みが進む一方で課題も浮上している。この記事では、さまざまな観点から2020年以降のイギリスのLGBTQ+教育の歩みを見ていきたい。
多様なジェンダー教育を義務化した二つの背景
冒頭で述べた通り、イギリスでは2020年にインクルーシブな社会作りの一環として多様なジェンダー教育が義務化された。以下、2つの主な理由と共に、もう少し詳しくその背景を見てみたい。
LGBTQ+を自認する人口の増加
LGBTQ+を自認する人々の数が年々増加の一路を辿っているイギリスにおいて、ジェンダーの多様性が認められるインクルーシブな環境作りは極めて重要な課題だ。英国国家統計局の推定によると、2022年時点でイギリスにおける16歳以上のLGB人口が全人口に占める割合は3.3%(※1)、2021年時点で婚姻あるいは市民パートナーシップを結んでいる同性カップルが全人口に占める割合は0.5%弱に達した (※2)。このようなカップルの中には養子や人工授精といった形で、子どもをもうけているケースもある。
性別に疑問をもつ子どもたち
そして、「Gender Questioning Children(性別に疑問をもつ子どもたち、以下GQC)」と呼ばれる、自分のジェンダーアイデンティティに疑問を抱く子どもの存在も、多様なジェンダー教育を加速させている大きな要因となっている。
正確な数字は明らかではないが、「Gids(NHS/英国国民保険サービスが2024年4月まで運営していた子どものジェンダークリニック)」に相談をした子どもの数は過去15年間で100倍増加し、2020・2021年には5,000人を上回った。
相談件数の増加は特に女子に多く見られ、そのうち3分の2を占めたという(※3)。これを裏付ける調査結果がある。世論調査企業YouGovが実施した調査(※4)によると、回答した300人の中学教師中79%が「自分の学校にはトランス或いはノンバイナリーの生徒が1人以上いる」と答え、そのうち85%が「過去3年間でトランス或いはノンバイナリーの生徒が増えた」、46%が「その多くは女子生徒」であることを明らかにした。
これまでLGBTQ+であると自覚していたとしても隠さなければいけない状況にあった子供たちがいることを考えると、必ずしもこれを単純な「GQCの増加」と読むことはできないが、近年彼らの声が教育現場でより直接的に届くようになってきたのだ。
Image via Shutterstockこのような背景から、学校という限られた空間で、LGBTQ+の子どもがいかにして心身の健康を維持しながら学習できるのかが、教育現場の大きな課題となっている。
政府の取り組みとガイダンスが教育現場での理解を広げる
若者間でそうした多様なジェンダーに対する考え方が急速に広がる中、教育現場で混乱が生じることは容易に想像できる。多くの学校は生徒の要望を尊重しているが、より長期的な視野から生徒のウェルネスを考慮すると同時に、他の生徒への影響や反応も慎重に考慮する必要がある。教育者の意識改革も重要だ。
イギリスの教育省は過去数年間に渡り、こうした教育現場の混乱や懸念を払拭し、子どもたちが心身ともに安心して学べる環境作りを目的とする、以下のようなガイダンスや調査報告書を発表してきた。
人間関係・性教育及び保健教育
その一つが2020年9月に策定された新ガイドライン「Relationships and sex education (RSE) and health education:人間関係・性教育及び保健教育(※5)」だ。このガイドラインの主要目的は、ジェンダーアイデンティティや性的指向、LGBTQ+を含む多様な人間関係と性教育を施すことにより、子どものウェルビーイングをサポートすること。LGBTQ+について単体で教えるのではなく、健全かつ多様な人間関係(家族・友人・学友・オンラインなど)について学ぶ機会をカリキュラムに組み込み、年齢に応じて段階的に教えることで、性の多様性に対する子どもの理解を深める狙いがある。
カリキュラムの内容や導入時期に関しては各学校の判断に託されているが、主に小学校ではLGBTQ+の家族を含む多様な家族形態や友人関係に焦点を当て、健全で尊重し合える人間関係を築くために大切なことを教えている。
中学生(11~16歳)になると性的指向やジェンダーアイデンティティなど、より具体的なジェンダー教育や性教育が行われる。その一方で、アルコール・薬物の使用などによるリスク、性関係を含む健全な人間関係など、より包括的な領域を教育の中でカバーしている。
性別に疑問をもつ子どもたち(GQC)をサポートするためのガイダンス草案
さらに2023年12月には、自分の性別に疑問を抱く子どもを最善の方法でサポートするためのガイダンス草案「Gender questioning children: Everything you need to know about new draft guidance for schools(※6)」、2024年4月には「Provisions to support genderquestioning children in schools:学校におけるGQCへの支援規定(※7)」が策定された。
これらのガイダンスは、8歳以上の生徒は男女別トイレ、11歳以上の生徒は男女別のシャワー・更衣室の使用を推奨する一方で、可能であればトランスジェンダーの生徒には個室を用意することを提案している。ただし、個室トイレが設置されている場合はこれに該当しない。
制服の着用はあくまで教育省による「強い推奨」であり、義務付けられているわけでなく、ジェンダーニュートラルを含む制服に関する規則は学校に一任されている。
その一方で、学校は生徒が自分の性別に疑問を抱いていることを把握したからといって即座に「社会的移行(学校での性別を変更すること)」に同意するのではない。まずは保護者と話し合い、児童に重大な危害が及ぶような例外的状況を除き、保護者の意見やより広範囲の影響を考慮するよう学校側に求めている。
ジェンダー教育の変化が子どもたちの「生きやすさ」に
このように政府主導のもと、教育現場で多様なジェンダーを受け入れる環境が整いつつあることで、子どもたちにとってどのような「生きやすさ」が生まれたのだろうか。
長期的なウェルビーイングの向上
ポジティブな変化の一つは、インクルーシブなジェンダー教育と共に、子どもたちが自分のジェンダーについての悩みを一人で抱え込むことなく、誰か(学校・かかりつけの医師・非営利LGBTQ+組織など)に相談したりサポートを受けられる環境作りが進んでいることだ。LGBTQ+に精通したカウンセラーやアドバイザーを、生徒に紹介している学校もある。
そして、このようなサポートが子どもの現在だけではなく、将来にも大きな影響を与えることが明らかになっている。例えば、学生に関する市場調査企業・CibylがイギリスのLGBTQ+の若者(18~25歳)について調査した報告書『Just Like Us(※8)』によると、家庭と学校でサポートを受けたLGBTQ+の若者が成人してから幸福を感じている割合は、サポートを受けなかった子どもと比べて2倍高かったという。
コンプレックスを「自分らしさ」に
「自分は他の人とは違う」という、ジェンダーに関するコンプレックスに悩む子どもは多い。中にはそれがきっかけで、不安障害や鬱病といった精神疾患を患うケースもある。
しかし、ジェンダー教育を介して「男だから」「女だから」といった固定観念が払拭されることで、コンプレックスを克服し、ありのままの自分で人生を楽しむチャンスが生まれる。
前述の通り、多くの学校はジェンダーニュートラルな制服を導入したり、生徒の意志を尊重している。そのため、子どもは自分の生態的性別にとらわれることなく、自分が心地よいと感じる性別の制服を着たり、名前を使ったりできる。筆者の子どもが通う中学校にはその日の気分で制服や名前を使い分けるノンバイナリーの子どももいる。
これらの子どもは「自分自身に対する肯定感が芽生えた」「自分を他人と比べて卑屈になる必要はないと分かった」と口を揃えていう。自分らしく生きられる環境の中で、コンプレックスが自分らしさに変化しつつあるのだ。
教育現場の意識改革
もう一つの大きな変化は、教育現場の意識改革だ。インクルーシブなジェンダー教育は、教育現場の意識改革なくして成し遂げられない。単にガイダンスに従うのではなく、「どのようにすればLGBTQ+の子どもたちがのびのびと学校生活を送れるのか」という点を重視する学校が増えている。
これらの学校では教師・スタッフがLGBTQ+生徒を受入れているのはもちろんのこと、いじめや差別対策を含む明確なLGBTQ+方針を設けたり、ジェンダーの多様性についてポジティブなメッセージを発信するといった取り組みが行われている。
生徒に話しかける際、「Boys and Girls」や「Ladies and Gentleman」といった性別を区別する呼びかけをやめ、「Everyone」「Folks」「People」といったジェンダーニュートラルな単語に置き換える教師・スタッフも増えている。自分がLGBTQ+であることをカミングアウトする教師やスタッフも徐々に見かけるようになり、それを尊重している保護者が多い。
現場で生まれる混乱と新たな問い
このように、ポジティブな取り組みや変化が見られる一方で、現場では数々の混乱や新たな課題も浮上している。
教育現場での温度差
政府の積極的な取り組みと教育現場には温度差があり、子どもや保護者の反応も様々だ。イギリスのシンクタンク・Policy Exchangeの最新レポート『Asleep at the Wheel(※9)』を見る限り、全ての学校や教育者が政府の方針を受け入れているわけではない。
調査の対象となったイングランドの中学校300校中、約7割がGQC生徒の新しいアイデンティティを受け入れることを他の生徒に求めたり、ジェンダーアイデンティティ教育を施している。その一方で、生徒からジェンダーアイデンティティについて相談を受けた際、保護者に連絡しなかったり、男女共同トイレ・更衣室を設置している学校が2・3割ある。
また、依然としてLGBTQ+を義務教育カリキュラムに組み込むことに反対している保護者も少なくない。
いじめや差別、偏見がなくなるわけではない
さて、肝心の子どもの反応はどうなのか。ジェンダーに起因するいじめや差別は減ったのだろうか。
残念ながら今もなお、LGBTQ+であることを隠したり、トランスジェンダーであるためにいじめを受けている子どもは存在する。中にはいじめがエスカレートし過ぎて、学校側から「身の安全を保障できない」と匙を投げられた子どももいれば、政府が社会的移行を抑制したことにより逆に学校でいじめを受け、退学に追い込まれた子どももいる。
より身近なケースを挙げると、筆者の子どもが通う中学校の校舎にはLGBTQ+を象徴するレインボーフラッグが飾られており、ジェンダーや人間関係の多様性についてのセッションが設けられるなど、多様なジェンダー教育に積極的だ。しかし、彼女がLGBTQ+を支持する意図でレインボーのソックスやバッグで登校したところ、教師から校則違反(ソックスは白か黒と決まっている)については注意されなかったが、一部の生徒からは侮辱を受けたそうだ。
制服についても学校側はジェンダーニュートラルを認めているが、「女子が学校でズボンを履くと、生理中かトランスジェンダーだとからかわれるのよ」とズボンを履くのをやめてしまった。一部のトランスジェンダーの生徒も他の生徒から執拗な嫌がらせを受けた経験があり、現在はそれぞれの(生物学的)性別の制服を着用しているそうだ。
ただし、これはあくまで筆者の身近な人の体験談であり、イギリス全土の学校で同じようなことが起こっているとは断言できない。しかし、このような出来事は多かれ少なかれ、「LGBTQ+への偏見が根強い」という現状を象徴していると言えるだろう。
国内で波紋が広がる、ジェンダーニュートラル・トイレの是非
ジェンダーニュートラル・トイレ(男女共有トイレ)の是非も、社会的波紋を広げている。
子どもに限らず大人でも、ジェンダーニュートラル・トイレの利用に抵抗を感じる人は少なくないだろう。イギリスのバデノック平等大臣の主張によると、「男女共有トイレを使いたくない」という理由でトイレを我慢し、尿路感染症起こした女子生徒もいるという。
このような背景から、今後イギリスで新設されるレストランやオフィスなどの非住宅用建物に男女別トイレの設置を義務化し、ジェンダーニュートラル・トイレを追加導入する法案も提出された。
これを反ジェンダー・インクルーシブな動きだと批判する声も高まっており、今後も議論の焦点となることが予想される。
子どもたちが学校以外から受ける影響
もう一つ、懸念されているのはインターネットの影響だ。特に、レインボープライドが世界的に広まって以降、LGBTQ+をちょっとした「トレンド」のように扱うメディアやSNS投稿も見かける。影響を受けやすい子どもの中には、「自分のジェンダーアイデンティティについて疑問を抱かなくてはならない」という、ある種の強迫観念に悩まさせるケースがある。実のところ、このようなインターネットの影響がGQC急増の一因となっているのではないかとの指摘も出てきている。
要するにインターネットからの情報には、LGBTQ+に対する認識を深めるというポジティブな効果が期待できる一方で、過度な、あるいは誤った情報発信が子どもを必要以上にジェンダーコンシャスにしている可能性があるというわけだ。
編集後記
筆者個人的には積極的な取り組みにより幅広い層の間でLGBTQ+への認識や理解が広がり、社会や学校、家庭においても、ジェンダーについて以前よりオープンに話す機会が増えている印象を受ける。80歳のおばあちゃんが「ゲイの孫から貰ったのよ」と嬉しそうにレインボーTシャツを着て歩いているなんて、ひと昔前には想像すらできなかった光景だ。
もちろん、イギリスでもすべての人がLGBTQ+に理解を示しているわけではない。差別や偏見の解消に向けて、より多角的な取り組みが必要となる大きな問題が顕在化していることも事実だ。最近のBBCニュースによると、9歳以下の子どもへの性教育・ジェンダーアイデンティティ教育を廃止する新ガイダンスが近日中に発表されるといった、流れに逆行する動きも見られる。
しかし、様々な試行錯誤を経てジェンダー教育が確立されるにつれ、一般社会でも自分がLGBTQ+であることを認めたり、ジェンダーの多様性を受け入れ、尊重できるインクルーシブな環境づくりが進んでいくのではないだろうか。平等と尊重の基盤となる社会的多様性の推進は、社会全体の幸福と繁栄に寄与する重要な要素なのだから。
※1 Sexual orientation, UK: 2021 and 2022
※2 Marriage and civil partnership status in England and Wales: Census 2021
※3 What Cass review says about surge in children seeking gender services
※4/7 Provisions to support gender questioning children in schools
※5 Relationships and sex education (RSE) and health education
※6 Gender questioning children: Everything you need to know about new draft guidance for schools
※8 Just Like Us
※9 Asleep at the Wheel
【参照サイト】NBC News: Over 30 new LGBTQ education laws are in effect as students go back to school
【参照サイト】Guardian: Badenoch claims girls developed UTIs due to lack of single-sex toilets at school How the single-sex toilet law in England will work
【参照サイト】Guardian: What Cass review says about surge in children seeking gender services
【参照サイト】BBC: Plan to ban sex education for children under nine
【参照サイト】DfE: Relationships education, relationships and sex education (RSE) and health education: FAQs
【参照サイト】KANTAR: How does the UK feel towards the LGBTQ+ community?
【参照サイト】You Gov: Should pupils be taught about gender identity in schools?
【参照サイト】VICE: Children Are Too Scared to Go to School Because of Transphobic Bullying
【関連記事】イギリスの学校、LGBTQ+についての教育が必須に
【関連記事】若者とシニアをつなぐ。LGBTQ+当事者が支え合う、LAの多世代ハウス
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Edited by Megumi