ある金曜夜のパリ市内。いつもは車が走る車道を、大勢の人がなにやら楽しそうに、自転車、ローラースケート、スクーター、スケートボード、ジャイロなどのあらゆる乗り物に乗り、駆け抜けていく。
この日は警察までもがローラースケートに乗り、市民のために道を開けていた。
これは2024年10月、パリ市とフランスに本社を置くソフトウェア企業ダッソー・システムズ、パリ・ローラーが開催した、市民参加型イベント「モビリティ・ナイト・ライド」の様子だ。パリのモンパルナスからバスティーユまでの約11キロメートルを多様な乗り物で走ることができる。
セーヌ川や道路を封鎖し、パリ市民3,000人以上が参加したというこのユニークなイベントの背景には、元車いすラグビー選手であり、現在はパラサイクリング選手であり、ダッソー・システムズ社員の官野一彦さんの想いがあった。
「人間が持つ無限の可能性と、誰もが自分の意志で自由に移動できる手段を持てるようにするために、インクルーシブ・モビリティの重要性を知ってほしい」
官野さんはイベント前日の2024年10月3日、パリの森林公園「ブローニュの森」にある全長3.541キロメートルのロンシャン競馬場サイクリングコースにおいて、1時間で8周を完走してギネス世界記録™を達成。
モビリティ・ナイト・ライドで官野さんは、パリ市民とともにギネス世界記録™達成を祝い、インクルーシブ・モビリティの重要性について広く発信した。今回のイベントに込めた想いを官野さんに聞いた。
話し手プロフィール:官野一彦(かんの・かずひこ)氏
22歳の時に事故で頸椎を損傷して以来、車いす生活となる。過去にロンドン・パラリンピック(2012年)とリオデジャネイロ・パラリンピック(2016年)に車いすラグビー日本代表選手として出場し、リオでは銅メダルを獲得。その後、パラサイクリングへと競技転向し、現在は会社員として働きながらパラリンピックを目指し、世界大会などに出場している。これまでにはユニバーサル・ジムを運営するために起業をしたり、直近では自身の経験を活かした福祉住宅コンサルタントとしても活動。
誰もが利用できる包括的で持続可能なモビリティを生み出す「バーチャルツイン」
今回のイベントを企画したダッソー・システムズは、ソフトウェアを売るだけではなく、2020年以降、社会的課題に関連するイニシアチブにも注力している。今回の官野さんによるギネス世界記録™達成とモビリティ・ナイト・ライドの開催は、同社の「The Only Progress is Human(未来を拓くのは、人間)」キャンペーンの一環であり、人間の移動に焦点を当てたものだった。
現在、世界人口の半数以上が都市に住んでおり、都市での生活には、仕事や日常に必要なサービスを利用するために、何らかの移動手段(モビリティ)が欠かせない。しかし、従来のインフラや技術では、さまざまな移動のニーズに十分に対応できていないことが課題である。
同社は、誰もが自由に好きな場所へ移動できる未来を目指し、「バーチャルツイン」という技術を導入している。バーチャルツインは、現実の建物や交通システム、都市全体の構造をデジタル上に再現し、シミュレーションを行う技術である。これにより、都市計画や交通システム、医療・スポーツ施設などを仮想空間で再現し、実際にそれらが人々の移動にどう影響を与えるかを分析することが可能だ。この分析を通じて、柔軟で適応性のある移動手段の開発ができ、誰もが利用しやすいモビリティが実現する。
同社による3DEXPERIENCE プラットフォームとアプリケーションは、世界中の企業に活用され、義肢や悪路対応の車椅子、障害者向けの電動バイク、視覚障害者支援システムなど、多様な人々が使えるモビリティ・ソリューションの開発を助けているのだ。
インクルーシブ・モビリティによって、障害は乗り越えられる
Q. 今回のイベント「モビリティ・ナイト・ライド」開催の背景を教えてください。
「モビリティ・ナイト・ライド」は、障害の有無や年齢・性別を問わず、誰もが一つの活動をみんなで楽しめることを証明するイベントです。モビリティの手段に少し工夫を加えれば、誰もが一緒に楽しめるんだと感じさせてくれます。
移動手段が向上すれば、誰もが挑戦や自由を手に入れられます。この場に参加したのも、僕自身の決意の表れです。車椅子の方も、もちろん一緒に楽しむことができます。足や手が動かなくても、技術があることで誰もが参加でき、皆と同じ距離を走れるのです。そうすれば、僕が思っている「足や手が動かない」ということは、もはや障害ではなくなり、実は大した問題ではないのだと感じることができると思っています。
Q. 官野さんは、日常の移動でどのようなときに課題を感じますか。また、今回のイベントでもフォーカスされているところだと思いますが、それを改善するインクルーシブ・モビリティについて詳しく教えてください。
日本にいる際、僕は車を使えば目的地に簡単にたどり着けますが、公共交通機関を利用する場合は段差がある、エレベーターがないなどの問題があり、事前に交通機関に連絡しないといけないこともあります。車椅子で急に行くと嫌な顔をされてしまうこともあります。そう考えると、日本にもまだ改善の余地があると感じます。
もちろん、こういった改善には費用がかかりますが、単に「お金がかかるから無理」というのではなく、誰かが「すぐ気づき、すぐに手を差し伸べる」環境があるかどうかが大切だと思います。それは人の心の問題であり、マインドを変えていく必要があります。今回のイベント「モビリティ・ナイト・ライド」が、そうした意識を持ってもらうためのきっかけになればと思っています。
今回のイベントで使用する車椅子は、僕が普段使っている車椅子やレース用のものとは異なり、マウンテンバイクのような形状のものです。言ってしまえば、これは日常に必須なものではないかもしれませんが、障害があっても「何かを諦めない」「人生を豊かにする」という価値が重視されています。
また、今、国立障害者リハビリテーションセンターと協力し、リハビリやアスリートのサポートに役立つものを一緒に作っていこうとしています。具体的には、モーションキャプチャーを用いて動作データを収集し、僕たちの技術でソフトに落とし込むことで、仮想空間内で最適なポジショニングや動作を分析するツールです。これにより、データを基に最適な動きを探り出し、リハビリやスポーツにおいて効率的な時間短縮が可能になります。
例えば、僕が自転車に乗っているときにクランクの位置を1センチ単位で調整する作業は、毎回車椅子に戻って確認し、繰り返す必要があり、多くの時間と体力を消耗してしまいます。しかし、これが仮想空間で一度に確認できるようになれば、その手間が省け、自分のベストなポジションがすぐに見つかるのです。
さらにリハビリの分野では、くも膜下出血などで麻痺が残る人に対しても、この技術が役立つ可能性があります。3Dプリンターと組み合わせれば、リハビリの先にスポーツを目指す人々にも新たな希望を与えることができるかもしれません。
「心のあり方」が変わっていくことで、ハードも進化していく
Q. 官野さんはよく講演活動などをされていますが、どのようなメッセージを伝えているのでしょうか。
障害者アスリートの成功ストーリーはよく「美談」として語られがちですが、僕が伝えたいのはそういう内容ではありません。障害のある人ほど、人よりも劣等感やさまざまな葛藤を抱えながら生きており、その姿はむしろ人間らしい「ドロドロ」としたものだと感じています。僕は、そうした部分も自分らしく発信したいのです。僕自身は、ただ足が動かないだけで、他の人と何も変わらない「普通の人間」であることを伝えたいと思っています。
「障害」とは何かを考えると、僕の場合、僕の周囲、つまりハード面にあるだけだと思います。例えば、階段しかなければ移動が難しいですが、エレベーターがあれば問題は解消されます。足が動かなくても、車椅子があれば障害にはなりません。むしろ、障害者というフィルターを通して僕たちを見ている視点こそが、ある種の「障害」なのかもしれません。そういった視点に気づいてもらえたらと思っています。
僕の周りの人たちは、誰も僕のことを「障害者」として扱いません。背の低い人が高いところにあるものを背の高い人に頼むのと同じように、僕もできることは自分でやり、できないことは周りに頼みます。それは人として自然なことです。障害者として扱われるのではなく、同じ仲間として扱われることが何よりも嬉しいのです。
Q. 日本だけでなく海外の経験も多い官野さんですが、バリアフリーの進歩などどのように感じていますか。
僕は2004年に障害者になり、そこから20年近く経ちましたが、この間に世界は圧倒的に大きく変わったと感じています。僕が外に積極的に出かける中で、人々の対応や建物の変化、全体としてのインクルーシブな進化を感じます。世の中は確実にポジティブな方向に進んでいると思います。
どこの国でも嫌な思いをしたことはありませんが、僕の主観も含めて、日本では少し異なる経験をしてきました。2006年から競技を始めた頃、ジムに行くと「介護者はいますか?」と聞かれ、いないと利用を断られることがありました。そもそも、介護が必要な人は筋トレのためにジムには来ないと思います。これはネガティブに捉えがちですが、日本は安全面を非常に考慮している国だと感じますね。日本においては特に都市部で山が多い環境の中で、バリアフリー設計が難しい面もあります。また、障害者を「外に出すのは恥ずかしい」とされていた歴史的背景もあるかもしれません。
一方、アメリカなど海外に行くと、皆が対等に接してくれますが、何かあっても保証がないことが多いです。良い面も悪い面もあり、それぞれに一長一短があると感じます。「どちらが遅れている」という話ではなく、日本はバリアフリーについては世界トップクラスだと思います。よく「海外は進んでいて、日本は遅れている」と言われがちですが、進んでいるかどうかではなく、むしろ「心のあり方」に違いがあるのだと考えています。
例えば、アメリカではアスリートとしてリスペクトを感じますが、日本では「障害者スポーツ」として見られることが多い。カナダでバリアフリーについて質問したときは、「健常者だって歳をとれば車椅子を使うこともあるんだから、整備されていて当たり前でしょ」と言われました。このように、ソフト面での違いはあると思いますが、これは単に文化の違いであると思っています。
まずソフト面が変われば、いずれハード面も変わっていくと思います。いきなりスロープが設置されるわけではなく、「ここにスロープがないと不便だね」と周りにいる人々が気づくことや、スロープがなくても「皆で持ち上げれば大丈夫」と考える姿勢を持てるかが何より大事だと思います。
Q. 最後に、メッセージをお願いします。
僕自身、会社では自由に挑戦させてもらえる幸せな環境にいます。その幸せの基盤には、やはり自分の行きたい場所に行くことができる、不自由のない移動手段や、それを支えてくれる周りの環境があるからこそだと思うんです。
僕たち人間は、幸せになるために生まれてきました。今回のパリのモビリティ・ナイト・ライド開催のためにも、多くの人が関わっていますが、障害があっても誰もが自由な選択ができるようにするために──それに奮闘している人々がいるということを知ってほしいですね。
編集後記
金曜夜の時間帯に、車道を通行止めにする。そんな大胆なことが実現できてしまう街が、パリだ。
「フランスで今回のイベントを開催するにあたり、そこには『いいじゃないか、やろうよ』というような寛容さがあり、文化として根付いているのだと感じました。こうした心の余裕や、みんながハッピーになれるようにという気持ちが、たくさんの人の中にあるのではないでしょうか」
パリに住んでいると、車椅子で移動する人をよく見かける。その背景には、今回のイベント企画の裏側にあるような「いいじゃないか、やろうよ」と声を上げる人々──自分じゃない誰かの心の声に耳を傾ける心の余白がある人々がいる。ハード面ではまだまだ課題は多いパリの街ではあるが、「人は多様で、みんな違って当たり前」という心のレンズを持つ人々の多さから、誰もが居心地の良さを感じることができるのかもしれない。
「障害とは、周囲、つまりハード面にあるだけ」。官野さんが語ってくれたように、一人ひとりが多様さを受け入れる心のレンズを持つことで、私たちは自分自身も含め、誰もが生きやすい社会を築くことができるのではないだろうか。
アイキャッチ:ダッソー・システムズ株式会社
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