【特集】幸せなお金のありかたって、なんだろう?今こそ問い直す、暮らしと社会の前提
お金は、ただの紙切れでも数字でもない。生き方や価値観、人間関係、社会制度にまで影響を及ぼす「見えざる力」だ。便利で、時に残酷で、そして人間的なこの仕組みは、いつから私たちの当たり前になったのだろう。自己責任が求められる働き方、そして「お金がない」ことを理由に後回しにされる福祉や環境対策──議論は世界中で交わされているが、日々の暮らしの中でお金の本質を見つめ直す機会は少ない。だからこそ今、問いたい。「お金」とは何か、そして私たちはそれとどう向き合っていけるのか。本特集では、経済だけでなく、文化人類学や哲学、コミュニティの現場など多様な視点からお金の姿を捉え直す。価値の物差しを少し傾けてみた先に、より自由でしなやかな世界が見えてくることを願って。
「ビジネスは成長し、利益を最大化すべきである」。この前提のもと、私たちは効率を追い、時間に追われ、空白を恐れるようになった。気づけば「成長」という名のマラソンで、終わりも知らず走り続けている。
だが、もしそのレースから降りるという選択肢があるとしたら。
イギリス北部・ヨークシャー地方を拠点に活動するバッグブランド「Wildish」は、週にわずか25個しか製品をつくらない。この「意図的なスロー」の背景にあったのは、成長のために切り捨てられてきた“あるもの”──それは、お金では買えない「時間」だった。
「もし過去に戻れるなら、会社の成長を止めて、自分の人生をもっと楽しむ時間を持てばよかったよ」
これは、Wildishの創業者Oscar Boatfield(オスカー・ボウエン)氏が、フライフィッシングの顧客である大企業の経営者たちから何度も聞いてきた言葉である。この後悔の言葉は、Wildishが選んだ道が、いま多くの人々が心のどこかで求めている方向と重なっていることを示しているのかもしれない。そして、その根底にある哲学を、オスカー氏はこう語る。
「お金を原動力にするのは危険です。なぜなら、終わりがないから。もしそれが目的なら、決して満たされることはないでしょう」
本記事では、オスカー氏に「意図的に成長しない」ビジネス哲学の背景やモノづくりの倫理、そして顔の見える関係性を世界に広げるグローカル構想について話を聞いた。

オスカー・ボウエン氏 Image via Wildish
「成長しない」という選択が、人生の余白を取り戻す
Wildishの物語は、お金やビジネスとは無縁の、川の流れの中から始まった。オスカー氏自身、ビジネスの成長が必ずしも幸福に直結しないことを知っていた。
「ビジネスが大きくなればなるほど、使うお金も増える。成長が富と時間の増加につながるとは限りません。むしろ、より多くのストレスと、より少ない時間につながることの方が多いでしょう」
彼の物語は、そうした違和感の中から始まる。プロのフライフィッシング指導者として、人生の多くの時間を川と共に過ごしてきた彼は、ある経験をきっかけに、ビジネスを始めることになる。
「約6年前、自分自身のメンタルヘルスと深く向き合う時期がありました。その中で、フライフィッシングがどれほど自分の精神に良い影響を与えてきたかに、気づき始めたんです」

Image via Wildish
その経験を分かち合いたいと、メンタルヘルスを支援するチャリティの設立を試みたが、善意だけでは乗り越えられない壁にぶつかり、ストレスから心身のバランスを崩してしまう。そんな中、彼に転機が訪れたのは、のちにパートナー、そして共同創設者となるネル氏との出会いだった。
「ある日、ネルが言ったんです。『釣りを始めたかったけど、釣り具店に行ったら、必要な道具の多さに圧倒されてしまった』と。その言葉を聞いて、ハッとしました。そこで考えたんです。『釣りに本当に必要な最低限のモノだけが入る、すごく小さなバッグをつくるのはどうだろう。それを売ったお金で、メンタルヘルスのための釣りコミュニティを運営できるじゃないか』と」
しかし、それは単なる製品開発ではなかった。彼には譲れない哲学があったのだ。
「私たちがつくるものが、世界にこれ以上ガラクタを増やすだけのものであってはならない、と強く意識していました。もし環境に責任を持ち、長く使える本物の品質を追求できないのであれば、この事業を始めることはなかったと思います」

Image via Wildish
責任の持てる人間的なつながりを生み出すコンセプト「グローカル(global + local)」
Wildishの哲学を最も象徴するのが、「週に25個まで」という生産数だ。この数字はオスカー氏が、ある高級車メーカーの生産台数を知ったことから始まった、問いの答えだという。
「どの規模であれば、このビジネスは巨大でストレスフルなものになるのではなく、“良いビジネス”でいられるのだろうかと、自問したんです。その答えが、週に25個という生産量でした」
それは、自分たちが世に送り出す一つひとつの製品に、最後まで責任を持つための境界線でもある。
「何かをつくるということは、それに責任を負わなければならない、ということです。もしこれ以上つくれば、私たちは無責任になってしまうでしょう」
その言葉通り、彼らのものづくりは、お金では測れない人間的なつながりに支えられている。製造を担うエイミー氏やレイ氏といった職人たちは、単なる外注先ではなく、共にブランドを育む「友人」でもある。
「私たちのバッグをつくってくれている職人たちは、私たちの本当の友人になりました。これは、人生において本当に素晴らしいことです。世界で最も倫理的とされるブランドでさえ、自分たちの製品を誰がつくっているのか、その名前を知っている人はほとんどいないでしょう」

Wildishの職人である、エイミーとレイ Image via Wildish
そして、この「顔の見える関係性」を世界に広げようとする未来のビジョンこそが、彼らが掲げる「グローカル(global + local)」というコンセプトなのだ。彼らは、真に持続可能な販売方法とは「地元でつくり、地元で売る」ことだと信じている。
「私たちの目標は、世界中にいるローカルなバッグ職人を見つけ出すことです。彼らがその土地の素材を使って私たちのバッグをつくり、その地域の中で販売する。そうすれば、使い捨ての大量生産から脱却し、環境負荷を大幅に減らせるだけでなく、私たちはバッグをつくってくれる一人ひとりのことを、個人的に知ることができるのです」
このグローカルというビジョンは、彼らが大切にする「責任の持てる人間的なつながり」を、ビジネスの仕組みそのもので実現しようとする試みなのである。
「つくらない時間」が生み出す、人間的なつながり
彼らが大切にする「つながり」の哲学は、作り手との関係だけではない。それは、製品を手にした顧客と、その「モノ」との間に生まれる、時間をかけた関係性にも広がっている。現代の消費サイクルは、モノの寿命を極端に短くした。Wildishは、この刹那的な文化に「公正な修理制度(Fair Repair Scheme)」という仕組みで対抗する。
「多くの会社は修理で利益を出しますが、私たちは絶対にそれをしません。私たちは、修理にかかる実費だけをいただきます。人々にモノを大切にしてほしいですし、手入れをすれば、それは永遠に使い続けられるのだと気づいてほしいのです」
傷がつき、色が褪せ、持ち主の手によって修理が施される。その一つひとつが、モノと人が共有した時間の証となる。バッグは単なる消費物ではなく、人生の物語を刻み込むパートナーとなる。Wildishのバッグを持つことは、使い捨てる時間の流れから降り、モノと共にゆっくりと時間を編んでいくという、新しいライフスタイルを選ぶことでもあるのだ。

Image via Wildish
この哲学は理想だけでなく、現実の中でくだす一つひとつの選択にも表れている。たとえば彼らは、できるだけローカルな素材を選ぶ努力をしており、染色やラベルの製造はイギリス国内の事業者に依頼し、中綿には地元・西ヨークシャーでつくられた100%リサイクル・ウールを使っている。ファスナーなどのパーツも、なるべくヨーロッパ内で調達している。
しかし、すべてを「地元で」とは限らない。バッグの主な素材であるコットンは、イギリスでは栽培されていないため、インドから輸入しているのだ。「イギリスで手に入る亜麻やウールなど、できるだけ多くのローカル素材を検討しました」とオスカー氏は語る。しかし、バッグとして必要な耐久性や機能性を満たし、なおかつ長く使える素材は、そこにはなかったのだと言う。
「私にとっての本当のトレードオフは、そこなんです。たとえ地元で手に入る素材があったとしても、それが長く使えないのであれば、遠くから来た素材よりも悪い選択だと考えています。長く使えることこそ、環境に対する最大の責任だと信じているからです」
彼らは、ローカルであることの価値を理解した上で、それでも「長く使える」という、より大きな責任を優先しているのだ。

Image via Wildish
お金では買えない「時間」という究極の富
彼らが届けたいと願うのは、モノと長く付き合う時間だけにとどまらない。Wildishの物語を深く理解する上で欠かせないのが、彼らの活動のもう一つの軸である「Wildish Club」の存在だ。
人々が集まり、屋外で時間を過ごすというシンプルなアイデアからスタートしたWildish Clubは、バッグの購入者だけでなく誰でも参加できるコミュニティだ。自然の中でのイベントやワークショップを通じて、人々がつながる場を提供し、今では、毎月発行されるWildish Guideのガイドに沿って、英国全土に広がるコミュニティ主導のムーブメントへと成長している。

「Wildish Clubは、屋外にいる時が一番落ち着くと感じる人たちのためのムーブメントです。自然との繋がり、仲間との繋がり、そしてペースを落とし、物語を分かち合い、周りの世界を探索するシンプルな喜びを大切にしています」 Image via Wildish
「Wildish Clubこそ、私たちが行える最も環境的に持続可能なことです。私たちは人々を互いに、そして自然と、本質的につなげているのです。幸せで、自然とのつながりを感じている人々こそが、より責任ある世界をつくっていくと、私は信じています」
こうした彼の理念は、お金が絶対的な価値を持たなかったオスカー氏の幼少期に育まれたのだと教えてくれた。
「私はお金がほとんどない家庭で育ちました。だから、何かを解決する必要があるときは、別の方法を見つけなければならなかった。父は芸術家で、例えば車が必要になったら、誰かのために絵を描いて、それと交換するんです。今では、その環境で育ったことを、とても幸運に感じています」
彼が信じるのは、声高に環境問題を訴えることではない。むしろ、私たち一人ひとりが、お金では買えない「時間」の価値に目覚めることこそが、社会をより良い方向へ導くということだ。
「最近、人々が『時間』の価値に気づき始めていると感じます。そして、その時間の価値こそが、自然と脱成長という考え方につながっていくはずです」
Wildishの挑戦は、ビジネスを通じて人々が幸福を感じるための時間をいかにして生み出せるか、という壮大な社会実験でもあるのだ。

Image via Wildish
編集後記
取材前、「成長しない」ことを目指すビジネスには、どこか理想主義的で、現実には続かないのではという先入観があった。けれど、オスカー氏の話を聞くうちに、それは空想ではなく、「責任」と「時間」という、ごく人間的な価値に根ざした、現実的な選択なのだと腑に落ちたのだ。
彼が繰り返し語った「責任の持てる範囲」とは、単なる生産のキャパシティではない。それは、作り手と友人でいられる時間、一つのモノを修理しながら慈しむ時間、そして自然の中で深呼吸できる時間を、自分の手の中に守り残すための境界線なのだろう。
成長を追い求めるマラソンから降りた彼らが見つけたのは、自分たちの手の届く範囲で、豊かな時間を編んでいくという幸福だった。小さなバッグが私たちに問いかけるものは、意外なほど大きい。
【参照サイト】Wildish