「多様性」や「対話」という言葉が、これほどまでに空虚に響く時代があっただろうか。
かつてこれらの言葉は、誰もが自分らしくいられる社会を築くための「約束」だったはずだ。しかし今、私たちの目の前にあるのは、多様性を守ろうとする意志が、皮肉にもその価値観を共有できない人々を「不寛容」という枠に押し込め、結果として新たな分断の線を引き直してしまっている光景だ。
ここで一つの問いが浮かび上がる。リベラルの人々を中心に、理想として掲げられてきた価値観は、「自分たちとは異なる正解」を持つ人々を、どこまで包摂できるのだろうか。もし、特定の「正しさ」に合意できる者だけを仲間に加えるのだとしたら、それはその人々が最も避けようとしてきた「排除」の構造を、形を変えて繰り返しているだけではないだろうか。
この行き止まりのような状況は「寛容のパラドックス」とも呼ばれる。これらを突破するには、単なる道徳的な反省に留まらず、社会の根底にある共生のあり方そのものを捉え直す視点が必要だ。本記事では、リベラルな言説が直面する限界を切り口に、分断を乗り越えるための新しい対話の作法を、国内外の事例から探っていく。
「正しさ」という名の支配権
現代の分断の背景には、ある種の「最終決定権」の独占があるようにうつる。
特定のグループが、「何が真実で、何に価値があるか」を最終的に定義する権利を独占し、制度化するという優越主義が広がっているように感じられるのだ。これは、単なる偏見のことではない。もし現代の一部の急進的なリベラリズム、あるいはSNS上で散見される言説の一部が、特定の教育や言語(ポリティカル・コレクトネスなど)を背景に「正解」を独占し、そこから漏れる人々を無知や遅れとして切り捨てているとしたら、それは自由の擁護というよりも、一種の支配となってしまっている可能性がある。
こうして一方的に「正解」が定められてしまうことにより、現代では多様な人の間での対話が成立しにくくなっている。これは相手が「間違っている」からではなく、私たちが無意識のうちに「教育する側」と「教育される側」という非対称な土俵を強いているからかもしれない。
システムの機能不全への適応としての「反リベラル」
では、こうしたリベラルな価値観に背を向ける人々──欧米を中心に台頭する「新しい右派(New Right)」やポピュリズムの動きをどう捉えるべきか。日本でも、既存の政治やエリート層への強い不信感という形で、同様の地殻変動が起き始めている。
彼らを単なる「誤った存在」としてラベル貼りし、切り捨てることは簡単だ。しかし、建築家であり、Dark Matters Labの共同創設者でもあるIndy Johar(インディ・ジョハール)氏は、新しい右派の台頭を、既存の社会契約が「人々の生活を守る」という約束を果たせなくなったことへの、構造的な適応反応であると分析する(※1)。
かつてのリベラルな合意は、経済成長と福祉の分配によって「予測可能な未来」を保証していた。しかし、資産インフレや格差、地政学的な不安定さが常態化した今、その約束は揺らいでいる。人々が「権利と福祉」よりも「強さと安全」を求めるのは、彼らが剥き出しの脆弱性に晒されているからに他ならない。
もちろん、排他的な主張や暴力的な言動が正当化されるわけではない。しかし、その背景にある「見捨てられた感覚」や「先の見えなさ」に触れ、社会の脆弱性をともに眺めない限り、この分断は繰り返され続けるだろう。対話の出発点は、相手を論破することではなく、その背後にある痛みや脆さに触れようとすることなのかもしれない。
「説得」を捨てた対話の現場
こうした限界を超えようとする動きは、分断の最前線にあるアメリカでも始まっている。
その一つが、草の根団体「Braver Angels(ブレイバー・エンジェルズ)」の活動だ。彼らは、共和党支持者(赤)と民主党支持者(青)を同じ場に集め、対話のワークショップを行う。ここでのルールは極めてユニークだ。それは「相手の意見を変えようとしないこと」である。
彼らが目指すのは「合意」ではなく、相手を「人間化(Humanizing)」すること。政治的なラベルの裏側にある、その人の人生経験や、大切にしている価値観、そして「恐れ」に耳を傾ける。相手を「論破すべき敵」ではなく「隣人」として再発見するプロセスだ。
このアプローチは、対話のゴールを「同じ結論に至ること」ではなく、「異なるまま共にいること」へとシフトさせる。それは、自分とは全く異なる世界観を持つ他者が「そこに存在すること」を認め、不一致を抱えたまま同じ部屋に留まり続けるための、泥臭いデザインなのである。
▼アメリカで分断を乗り越えようとする「人間化(Humanizing)」のアプローチは他にも
日本の文脈は?多次元化する分断と、共有地の喪失
ひるがえって、日本はどうだろうか。自由民主党が大勝した2026年2月の衆院選で露呈したのは、私たちが長年頼りにしてきた、「右か左か」「保守かリベラルか」という単一の物差しだけでは、社会の動きを説明しきれなくなっているという事実だ。
特筆すべきは、自らを「リベラル」と自認する若年層の多くが、既存のリベラル勢力ではなく、強いリーダーシップや現実的な経済政策を掲げる保守政権を選択した事象である(※2)。これは若者の右傾化という単純な言葉では片付けられない。彼らにとっての「リベラルな価値」の追求は、もはや抽象的な政治理念ではなく、剥き出しの生活を守るための実利や確実性と分かちがたく結びついているのだ。
現在日本で起きているのは、思想の対立ではなく、より複雑で多次元的な分断だろう。生活水準の格差という「経済軸」、SNSや動画プラットフォームといった情報源の「新旧軸」、そして現役世代と高齢者の間の不公平感という「世代軸」(※3)。これらが複雑に交差するなかで、有権者の投票行動はかつてないほど個別化・断片化している。
ネット戦略を駆使した個人の信任投票へと政治が変質していくなかで、「共通の土俵」が失われつつある。言語化された「正しさ」で相手を裁くリベラルな作法が、こうした多次元的な不安を抱える層に届かないのは、ある意味で必然の結果だ。必要なのは、互いの立脚点が全く異なるという構造的な現実を直視した上で、それでも同じ社会を維持するための「不一致のままの協力関係」をいかにデザインするかという視点だろう。
自分の「正しさ」が否定されるリスクを引き受けられるか
真に多様性を認めるということは、自分たちの「正しさ」が否定されるリスクを引き受けることでもある。
それは、自分の理解が常に部分的であり、世界はそれを超えて広がっていると認める「知らないでいる自由」を再獲得することだ。この謙虚さこそが、支配ではない共生の土台となる。
民主主義とは、単に投票によって意思を示す制度ではない。先述のインディ・ジョハール氏はそれを、「不確実な世界の中で、私たちが『共にこの世界をどう解釈し、どう変えていくか』という能力を、一人ひとりの手に取り戻すプロセス」
と表現する(※4)。
「多様性を認めない多様性」を受け入れることは、苦痛を伴う。それは、私たちが握りしめてきた「正しさ」という盾を一度下ろすことを意味するからだ。しかし、その盾を下ろした先にしか、本当の意味での「他者」は現れない。
私たちは、自分の価値観を真っ向から否定する隣人と、明日も一緒に生きていく覚悟があるだろうか。その問いの先にこそ、私たちがまだ見ぬ、新しい対話の形が待っているはずだ。
※1 From Power Diagrams to Settlement-Construction: What we may be missing about the New Right..
※2 リベラル自認の10~30代、「自民に投票」3割 中道は1割届かず
※3 「右か左か」では測り切れない選択の多元化
※4 The Fragile Miracle of a Deep Democracy
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