人間が健康的な暮らしを営む上で欠かせないもの。それはトイレや下水道など清潔でよく整備された衛生環境だ。しかし、日本では当たり前の清潔な衛生環境も、一歩世界に足を踏み出してみればそれがいかに貴重なものであるかがよく分かる。
現在、世界では全人口の3人に1人にあたる24億人もの人々が清潔なトイレや衛生環境へのアクセスを欠いており、10億人もの人々が未だに野外で用を済ませているのが現状だ。その結果、毎年約80万人もの5歳以下の子供が、下痢や肺炎など不衛生な水や環境を原因とする疾患で命を落としているのだ。
この問題を解決するべく、世界では途上国における衛生環境の向上を目指して様々な活動が行われている。2013年にはユニセフが11月19日をWorld Toilet Day(世界トイレの日)と定めて啓蒙活動をはじめたほか、トイレタリーの分野では世界一といわれる日本も、これまで民間企業らが積極的に途上国でトイレの寄付や下水道設備の改善支援などに取り組んできた。
こうした活動の成果もあり、支援を受けた途上国ではこれまでに数多くのトイレが設置されたものの、現場では課題の解決を妨げる新たな問題が発生している。せっかくトイレを設置しても、人々はそれをすぐに利用しなくなってしまうのだ。
なぜ人々はトイレを利用しなくなるのか。その原因は、トイレが放つ悪臭にある。下水設備などのハードや清掃サービスなどのソフトがまだまだ不完全な途上国では、トイレを常に清潔に保つということが難しい。
その結果、人々は、耐えきれない悪臭を放つトイレを利用するのではなく、きれいな空気を吸える野外の河川などで用を済ませてしまうのだ。そして現地の人々がそれらの不衛生な河川の水を利用して生活を営むことで、疾患を患ってしまうという負のスパイラルがそこに定着してしまっている。
衛生環境の改善という社会的課題の解決には、ただトイレを設置するだけではなく「臭い」の問題を解決する必要がある。そこに目をつけて、新たな取り組みを始めているのが、マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツだ。
ビル・ゲイツは自身と妻のメリンダ氏とともに立ち上げた財団を通じて、これまでも世界の水問題・衛生問題の解決に向けて精力的に取り組んできた。
同氏はこの「臭い」という課題に着目し、数年前に”Smell Summit”を立ち上げ、世界中のエキスパートらとともに問題解決に向けた議論をはじめた。そして、ゲイツ氏とともに何かできないかと手を上げたのが、その会議に参加していたスイスの香料メーカー、Firmenich(フィルメニッヒ)だ。
ゲイツ氏はさっそくフィルメニッヒとともに協働チームを組成し、プロジェクトをスタートした。このプロジェクトは、「なぜトイレは臭いのか」というそもそもの問いに対する解を見つけるところからスタートした。
一見非常にシンプルのように見えるこの問いが、意外にも複雑なのだ。同氏によると、トイレが放つ悪臭は200以上の異なる物質で構成されており、人々の健康状態や食事などによっても異なるのだという。
研究チームは最終的に悪臭の原因となる4つの物質「インドール」「p-クレゾール」「ジメチルトリスルフィド」「酪酸」を突き止めた。ゲイツ氏は、スイスのジュネーブにある実験室でこの4物質の混合物が入った試験管の臭いを嗅いだとき、「今まで訪れたトイレの中で最もひどかったトイレと同じ臭いだ」と感じたという。
この分析結果に基づき、フィルメニッヒはこの問題を解決するべく今までとは異なる革新的なアプローチを用いた。これまでにも悪臭に対するソリューションは数多く生まれていたが、それらは基本的に悪臭をよい香りで覆い隠すというものだ。
しかし、フィルメニッヒは人間の脳と鼻の嗅覚のつながりに着目した分子レベルのソリューションを追求した。ゲイツ氏らによると、人間の鼻には350ほどの嗅覚の受容体があるものの、悪臭を感知する受容体はそのうちほんの一握りだけなのだという。
この知識を活用し、フィルメニッヒはトイレが放つ特定の悪臭を感知する受容体の働きを抑制する新たな香料を開発した。この香料を使用することで、我々の脳は悪臭を感知しなくなる。ゲイツ氏が実際に先ほどの悪臭の原因となる4物質とこの香料を混合した試験管の臭いを嗅いだところ、全く悪臭はしなかったとのことだ。
ゲイツ氏らはこの技術の実用化に向けて、現在インドやアフリカでパイロットプロジェクトを進めている。この香料をスプレーにするのか、それともパウダーにすべきかなど、その形も含めて検討中とのことだ。最終的な目標は、この香料をより低価格で入手しやすいものにすることだ。
途上国のトイレ・衛生環境の改善という社会的課題に対しては、先進国からのトイレの寄付というソリューションが思い浮かぶが、実はそれだけでは問題解決に不十分であることをこの事例は示している。人々はトイレがないから使わないのではなく、あっても使わないのだ。
もちろん、臭いを解決すれば全ての問題が解決されるわけではないものの、このように一見しただけでは分からないところに真の課題が横たわっているというのは社会貢献活動に限らずビジネスの現場でもよくある話だ。真の課題を見つけるためには、よりよく現状を観察し、人々がそのように行動する理由を正しく理解する必要があることが分かる。
ゲイツ氏とフィルメニッヒによるこの臭いプロジェクトが、問題を解決する大きな一歩となることを期待したい。