平和の多様性。一人ひとりが考える、私にとっての「平和のテイギ」

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新型コロナウイルス(以下、新型コロナ)が生活に大きく影響を与えている2020年の夏。お盆休みなのに帰省ができず家族に会えなかったり、旅行に行くことができなかったりと、今まで当たり前のように手にしていた自由のない生活を私たちは強いられている。家族や友達とご飯を食べることや、何気ないことで一緒に笑い合えること、そんな何気ない日々が当たり前ではなかった――そう感じている人も多いのではないだろうか。

しかし、人々の「当たり前」を奪ったのは新型コロナだけではない。ちょうど75年前の今日、8月15日に終わりを迎えた第二次世界大戦。あの戦争の経験者たちもまた、突然「日常」を失った人々である。いまでも8月に入るとセミの鳴き声とともに、テレビやインターネットから聞こえてくる戦争の話題。「核兵器をなくさなければならない」、「かつての戦争の過ちを繰り返してはいけない」という声は、戦争を生き抜いた者たちの心からの叫びだ。

かつて日本が経験した戦争について知り、想いを馳せること、核兵器の廃絶に向けて声を上げることが大切であることを前提としたうえで、このコラムでは、身近なところから一人ひとりにとっての「平和」とは何かを考えることを提案したい。

2つの「平和」と3つの「暴力」

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世界中で耳にする「平和」という言葉だが、その意味はどこか漠然としていて抽象的、また壮大なイメージを持つ人もいるかもしれない。実際のところ、平和とはどう定義されるのだろうか?

平和学の父と言われるヨハン・ガルトゥングによると、平和は大きく2つに分けられる。暴力や戦争がない状態を指す消極的平和(negative peace)と、共感をもとにした協調と調和がある積極的平和(positive peace)だ。そして彼が平和の対義語として捉えているのが「暴力」である。暴力の中にも、容易に想像される戦争や虐待などの「直接的暴力」、貧困など構造的暴力構造が不利益を引き起こしているものを「構造的暴力」、弱い立場の人の抱える問題を自己責任とし、暴力を肯定する深層心理である「文化的暴力」の3つがある。具体的な例を挙げると以下のようになる。

2つの平和
消極的平和:戦争反対、対立関係の解消など
積極的平和:新たな仕組みづくり、協力関係の構築など

3つの暴力
直接的暴力:紛争、虐殺、家庭内暴力など
構造的暴力:貧困、飢餓、環境問題、差別、疎外、搾取など
文化的暴力:他者への不寛容、偏見、憎悪、無関心など

以上の例の中でもそれぞれの中身は多様であり、例えば紛争一つをとっても、太平洋戦争や第二次世界大戦からシリア内戦、レバノン内戦まで幅広く、差別にも、外国人や障がい者、同性愛者、ホームレスの人、原発避難者や人種などを理由としたあらゆる差別がある。さらに最近では、新型コロナにかかった人を非難したり、偏見や憎悪のまなざしで見たりする人も増えている。そんな私たちの心に潜む感情も実は暴力の一つということだ。

一人ひとりにとって異なる「平和」

「世界が平和になりますように。」もし心の中でこうお願いをしたことがあるならば、あなたはこのとき、どんな世界を想像しているのだろう?――戦争のない世界や差別のない世界、貧困で苦しむ人がいない世界。もっと身近なことであれば、家族が健康で過ごせることや、新型コロナの終息が自分にとっての平和だと答える人もいるだろう。「平和」という言葉を発するとき、それが意味するものは一人ひとりが過ごした場所や関わってきた人など、育った環境や今置かれている状況によっても大きく違っている。

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学校で平和学習があり、戦争のこと、世界の貧困問題を学んだが、平和という言葉は壮大で自分には何ができるか分からない。そんな人はまず、自分の趣味や街のことなど関心のある所から考えてみてはどうだろうか。

例えば、サーフィンや釣りが好きな人はビーチでのごみ拾いなど海をきれいにする活動、動物が好きな人は殺処分の問題に興味を持つかもしれない。また外国にルーツを持つ日本人や障がい者などマイノリティの当事者だけでなく、友人が当事者として苦しんでいるのを知る人も、差別をなくすために何かしたいと思うかもしれない。新型コロナによって失業した人、仕事が減った人が生きるために補償を求めることだって平和な世界に必要なことだ。今も多くの国では戦争や内戦が起こっている中、一刻も早く戦争がない世界が訪れることを願ってやまない。しかし、同時に平和とは戦争のない世界だけを意味しない。社会に生きる一人として感じる生きづらさを一つ一つ解決していくことも平和な世界につながるのだ。

「私にとっての平和」とは?

75年前の戦争については、いまだに多くの課題が残されている。被爆者の高齢化に伴い戦争体験を語り継ぐことが難しくなっていることに加え、年々学校での平和学習の機会は減少し、学びの一環として広島や長崎の地を訪れる学校が減っている。それに追い打ちをかけるように、今年は新型コロナの影響で多くの現地での平和学習がキャンセルになった。また、いまだ世界中には約1万3千の核兵器が存在しており、唯一の戦争被爆国である日本は核兵器禁止条約に批准していない。

しかし、戦争の記憶が薄れることが懸念されているとしても、今の時代だからこそできることもある。Zoomなどのオンラインビデオツールを使ったオンラインでの伝承の機会や平和を伝えるイベントの開催、1945年当時生きていた人の日記をもとにTwitterで発信する「ひろしまタイムライン」という企画など、テクノロジーを使って全国、全世界に発信し、届けられる声もある。また広島などでは、高齢化する経験者に代わって当時のことを伝え聞かせる「被爆体験伝承者」の育成も行われている。

戦争が終結し、まもなくして経済大国となった日本は、平和な国だと言われてきた。そして今もそのように考える人もいるだろう。たしかに今日本は、かつてのように暴力を伴う戦争をしていないが、平和を「ただ戦争がない世界」ではなくもっと広義の平和と捉えるとき、私たちの生きる社会を「平和」ということはできるだろうか。

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直接的・構造的・文化的暴力のすべてがない世界が「究極の」平和な世界だとすると、その道のりは遠いと感じられる。だが、平和な社会をつくるためには色々な方法がある。課題ばかりを見て悲観的になってしまうのではなく、一人ひとりが自分にとって「気になる」ところから小さな行動を起こすことで世界は変わっていく。まずは自分が関心のあるテーマから。一人ひとりの平和の「定義」を考え、頭をフル回転させて”IDEAS FOR PEACE”を生みだすことで、様々な面からピースフルな世界を描いていきたい。

【参考文献】ヨハン・ガルトゥング(2017)『日本人のための平和論』ダイヤモンド社
【参考文献】木戸衛一 編(2014)『平和研究入門』大阪大学出版社
【関連サイト】1945 ひろしまタイムライン

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