世界の5人に1人。これは、一生のうちに精神疾患を発症する人の割合だ。
ヨーロッパ域内だけでも、精神疾患は6,300億ユーロ(=GDPの4.2%)の経済損失を出し、がんや糖尿病、心臓血管、呼吸器疾患を合わせた医療負担を上回る。
精神的な不健康が私たちの個人および集団の可能性に与える影響は計り知れない。そんな中、メンタルヘルスを取り巻く状況に変化をもたらそうと動いているのが、ドイツで誕生した「メンタルヘルス特化」のインパクトファンド、Masawa(マサワ)ファンドだ。
一体どのような理由で創業され、どのような仕組みで動いているのだろうか。Masawaファンド創業者のジョシュア・ヘインズさんにお話を伺った。
(以下、ジョシュアさんの回答)
きっかけは、「自分自身の不安定さ」だった
私は、人生のほとんどをうつ病や不安、摂食障害に苦しみながら過ごしてきました。子供時代の母との関係が原因でした。絶え間なく聞こえる頭の中の声、それを消すためにアルコールやジャンクフードを過剰摂取するという繰り返し……。
しかし私の周りの人は、その苦しみに全く気付いていませんでした。経験豊富で、業績も堅調で、ユーモアにあふれた事業家。そんな姿しか外向けには見せていませんでしたから、当然ですね。
最初に、抗うつ薬と心理療法を試しました。自分の精神状態と、その原因を理解するためには必要なことだったのです。私の場合は、処方を受けることで状態は少し改善しましたが、常に何かが欠けていると感じていました。そして2018年に体重は136kgを超え、何度も失敗を経験し、私の中で何かが芽生えました。この状況を何とかしなければならないと──。
それからは非西洋医学的なアプローチや栄養学、瞑想、運動を取り入れることを始め、ゆっくりと頭の中にあった霧がなくなり、生きる喜びが戻ってきました。精神疾患が私に影響を与えていることに気づくのに結果的に35年間かかり、対処方法を学ぶのにさらに5年かかりました。
個人的には長すぎたと感じていますが、多くの人は一生かかります。だからこそ、現代に変化をもたらすために、インパクトファンドであるMasawaを起業しました。インパクト投資(※1)については、昔留学していたアメリカで既に知見を得る機会があり、アイデアは常に私の頭の中にありました。今回の創業にも、その当時の友人が多く参画してくれています。
※1 経済的リターンと並行して、社会や環境へのインパクトを生み出すことを目的とした投資のこと。
ファンドが投資をする基準とは?
私の経験は少し極端ですが、現代社会を生きる多くの人が、職場や、人間関係、家族等様々な局面で精神的な問題を抱えています。完璧を目指さなければならないというプレッシャーに苦しみながらも、特にドイツでは専門的な医療を受けるのも難しいのが現状なのです。
そんなギャップを埋めるために、メンタルヘルスの分野に取り組む、創業して間もない事業(アーリーステージ)に投資するインパクトファンドがMasawaです。
まず、投資先を決定する際には私たちが開発した六角形を適用しています。この六角形は、以下の6つの要素で構成されています。
- 潜在的な社会的インパクト
- インパクトを重視した意思決定
- 健全な組織体制
- 創業者のパッションとビジョン
- 経済的な実行可能性
- 成長可能性構成
一つ一つの要素はそれぞれ相互に関係しあっていて、私たちの企業評価ではこの六角形が一般的な経済的指標よりも重視されています。
投資先は多岐にわたりますが、分野でいうと「メンタルヘルス×デジタル」に一番注力しています。例えば、スマホ中毒を改善するために、AI技術を利用して自分自身の習慣を観察し、改善に導くアプリを開発中のスタートアップなど。ただ、メンタルヘルス事業と一口に言っても、ヨガや自然療法、東洋医学、ハーブ、スマホアプリとさまざまなアプローチがありますし、それを広く受け入れているのが私たちの強みでもあります。
投資家についてですが、メインの投資家は、High Net Worth Individuals(投資資本を5百万ユーロ以上所有する個人)や、資産家の家族ですね。彼らのモチベーションとして、社会的意義のあるプロジェクトに投資したいという理由はもちろん、家族や友達のだれかが精神疾患に苦しんだ経験があるといった、個人的な理由がある投資家もいます。また、資産のポートフォリオの多様化が目的の場合もあります。
これらの投資家は、社会的インパクトを重視しているので、経済的なリターンについては寛容な場合が多いです。例えば、我々が25社のユニコーン企業を発掘することを絶対的に期待しているような人はほとんどいません。
ただ、投資後のインパクトについては投資家に対してもちろん説明責任がありますし、対話を通したコミュニケーションがとても大切です。実際、インパクト評価の手法については発展途上です。特にメンタルヘルスの分野では、インパクトを定量的に測るのは難しいと考えています。
仮に血液検査や血圧、体温、声の高低といった指標が完璧な数値だったとしても、本人がその時に気分や体調が良いと感じているかは主観的で、目に見える数値とは全く別物だからです。この定量性の限界は、投資家も理解しています。
「組織としての健康」も重視する姿勢
私たちは、投資先の「組織としての健康」も重視しています。スタートアップの創業者は、うつ病に苦しむ可能性が2倍、薬物乱用の問題を抱える可能性が3倍とのデータがありますから。実に50%以上がメンタルヘルスに問題を抱えた経験があると回答しています。
現在の投資パラダイムでは、起業家は人間としてではなく、際限なく働き続けるロボットのように見られていて、燃え尽き症候群の発症や、組織内での争いに苛まれることが日常茶飯事です。そして最終的には減収や、事業の失敗の原因となっています。
そんな状況を改善しようと開始したのが、「ナーチャーキャピタルサポート」です。創業して4〜5年の若い事業者に対して、組織の大きさ・成熟度・チームの状況等をふまえた上で私たちの抱える専門家がコンサルティングを行うというものです。今のところ、起業家たちからはおおむね前向きなフィードバックをもらっています。
起業家たちはとても孤独な存在で、投資家からは常にリターンを求められるというプレッシャーの中にいますし、組織自体がどのように運営されているかは必ずしも投資家の目的と一致しません。だからこそ我々が客観的に組織の“健康”を“診断”し、良い理解者としてサポートすることは彼らにとって大きな安心材料となっているようです。
実際に、健全な組織運営を行っている企業は、投資家に対するリターンが3倍というデータもあります。「ナーチャーキャピタルサポート」は今後サステナブルな事業経営を目指すうえで必要不可欠だと考えています。
Masawaが目指す未来
今後2年は、資金調達と、先述した「ナーチャーキャピタルサポート」に集中する計画です。メンタルヘルスはまだまだニッチな分野で、積極的に投資する発想がある人もそう多くありません。我々が本拠地とするヨーロッパでは、アメリカと比較するとエンジェル投資家等も限られていますので、構造的に仕方ない部分があります。
投資先としてはヨーロッパをメインに見ていますが、長期的には非ヨーロッパ圏でも投資先を開拓していきたいと考えています。シンガポール等はスタート地点として一番現実的かもしれません。特にアジア圏では精神疾患者に対する差別やスティグマが顕著なのと同時に、データテクノロジーの分野では様々なビジネスが成長しているので、次の市場として注目しています。
新型コロナのパンデミックは、多くの人にとって自身の健康について再考する良い機会になりました。技術革新という観点からも、このコロナ禍の間に様々なビジネスが生まれ、中でもウェルビーイングを支援するようなサービスや商品は爆発的に増えたと思います。
今後、このトレンドを途切れさせないために、経済的利益だけを評価するのではなく、どのようにしたら資本をより持続可能な形で動かすことができるのか、社会的インパクトを最大化するためには何が必要か、Masawaとして全力で取り組んでいきたいと考えています。
編集後記
社会的インパクト投資、という言葉を耳にする機会も増えてきたが、その定義は学術界でも未だ定まっておらず、何をもって「インパクト」とみなすのか、実は非常に漠然としている。
再生可能エネルギー、インフラ事業、マイクロファイナンス……さまざまな実践が繰り返される中で、社会的インパクト投資もその輪郭をより明瞭にしていくのかもしれない。今回取材したMasawaファンドもその実践の一例だ。
メンタルヘルス事業が投資家に受け入れられ、スタートアップを通して社会に浸透し、そこで働く起業家や従業員も幸せに働くことができる──そんな社会的インパクトを、早く見てみたいと思った。
【参照サイト】Masawa Fund
Edited by Kimika