失われた「能登の日常」を取り戻すために。 支援が遠のく現状と、人が繋ぐやさしさの循環【能登半島レポート・前編】

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自動車が走る音、エアコンがきいた部屋、蛇口をひねれば当たり前に出てくる水。

当たり前のような日常は、一瞬で当たり前でなくなってしまうことがある。2024年元旦に発生した能登半島地震は、能登の人々の、そして周りの人々の生活を大きく変えた。

能登の景色

震災は、多くの犠牲を生み、今もそれによって苦しんでいる人がたくさんいる。いまだ避難所に暮らす人がおり、断水している地域がある(2024年7月末時点)。にもかかわらず、日々のニュース番組で能登のことが報じられることは少なくなり、ボランティアの支援は下火に。多くの人が、「能登は見放された」と口にし、ある人は、変わらない町の景色に「心がむしばまれていくようだ」とつぶやいた。

届いていない支援、支援の先にある苦労や困難……きれいごとでは片づけられないさまざまな現実がある。そのなかで、発災から8か月が過ぎようとしている今もなお、自らの日常を大きく変えながら、被災者のために動く人たち、自らが被災者でありながら、よりよい能登をつくるために走り続ける人たちがいる。

子どもたちが読書や音楽を楽しめる場や遊び場を届ける人、たった一人でも必要な人がいる限り店を開くことを決めた人、唄を通して全国に能登の現状を伝え続ける人。誰かのために強くあり続ける人たちの姿、そこに宿る人々のあたたかい気持ち──壊れてしまった町に広がったやさしさの輪を届けていく。

子どもたちの未来と能登の未来のために。つながれていく希望

コーヒー屋に生まれた小さな奇跡。子どもたちと大人たちの笑顔を生み出すやさしい音

石川県輪島市。能登半島の最北部である奥能登の中核であるこの地域は、輪島塗や朝市などで知られる。日本三大朝市の一つである輪島朝市には、その場で新鮮な海鮮を焼いてくれる店、輪島ならではの工芸日や民芸品を売るお店、名物の黄色いまんじゅうを売っているお店などが軒を連ねていた。

だが、その200軒以上が、震災による火災で焼失してしまった。

能登の景色

2024年7月23日 筆者撮影

まるで戦禍のただなかにあるかのような景色。建物の多くは崩れかけたままそこにあり、歩道や道路にはガレキが飛び出している。解体作業が追いついていない町の景色は、元旦から時が止まっていた。

そんな輪島市内にあるコーヒースタンド「Hosi bosi coffee」は、倒壊をまぬがれ、2024年3月に営業を再開した。筆者は、震災前に一度訪れたことがあったため、様子が気になり再び訪れることにした。店内には、以前訪れた際にはなかった大量の本と黒いピアノが置かれていた。

hosi bosi coffeeに集まった本

店主の山崎里香さんに尋ねると、輪島には震災以降、本屋がなくなり、学校の図書室も使えなくなっているところが多いという。そのことをSNSに投稿したところ、子どもたちが再び本を読めるようにと、知り合いや発信を見た遠方の支援者から大量の本が届けられたそうだ。

また、金沢の刺繍作家さんが始めた、バッグに子どもたちの絵を刺繍して本と一緒に届けるプロジェクトにも協力しているという。

「金沢在住の髙知子さんという刺繍作家さんが、能登の子ども達が描いた絵をトートバッグに刺繍して、絵本や本を入れて送り返してくれる『miim project』という取り組みを始めていて。Hosi bosi coffeeに届けられた子どもたちの絵を髙さんに送ったり、刺繍してもらったバッグはうちから子どもたちに渡したりしているんです。絵には、子どもたちの名前や性別、年齢などが記載されていて、それをもとに選んだ本を入れて送ってくれています。

子どもたちの絵の上に刺繍が施されたトートバッグ。この中に本が一冊入れられて子どもたちに贈られる

輪島では多くの学校の校舎が使えなくなり、中学校に市内の小中学生が集まって勉強している状況。図書室が小学校の職員室になっていたり、小学校向けの本が中学校に少なかったりして、各教室と廊下に少しずつある本をみんな順番に見ているらしいんです。だから、本が送られてきたとき、娘もとても喜んでいて。能登に想いを寄せるたくさんの方々のおかげで、笑顔溢れる娘の顔をみれたことが本当に嬉しいし、感動と感謝でいっぱいです」

それから、本の裏に置いてあるカバーがかかったピアノについて聞いてみると、山崎さんは涙ぐみながらこう話してくれた。

Hosi bosi coffee

「震災前、子どもたちはピアノを習っていてよく練習していたのですが、ピアノ教室が被災し、練習できなくなってしまいました。震災前からお店にピアノを置きたいと思って周りの人に話していたのですが、最近、近くの町で被災された方が、家屋から救出したピアノを贈ってくれると連絡をくれて。ちょうど置いたところだったんです。

来週から先生がここに来てくれて、子どもたちがレッスンを受けられるようになります。ピアノを習いたい子どもたちや、カフェに来たお客さんなど、色々な方に弾いてもらえるようにする予定。ピアノの音色が聞こえてくる日常がなくなり寂しく感じていたので、とても嬉しいですね」

遊び場がない子どもたちのために。町中を走る移動式の遊び場「プレイカー」

震災後、学校や学童が統合されてしまい、再開されたものの通えなくなってしまった子たち、夏休みだけどどこにも行けず、遊び場がない子どもたちが増えたそう。そうした子どもたちが楽しめるようにと、軽トラックの荷台を遊び場にし、遊び道具を積みながら地域を走る「プレイカー」というものが生まれていた。

プレイカー

子どもがスーパーボールを転がして遊べる竹でつくられた流し台や、DIYでつくられた棚などが積んである。

「能登の豊かな里山をイメージしてつくりました。子どもたちが荷台の中で遊んだり、積んでいる遊び道具を使って外で遊んだりできるようにしています」と話すのは、川合福太郎さん。7月末、完成後初のお披露目の日に訪れた輪島市内の学童では、子どもたちはプレイカーの中を拠点に水鉄砲合戦をしたり、竹の流し台にボールを転がして遊んだりと、元気いっぱい遊んでいた。

プレイカーで遊ぶ子供たち

普段は東京都足立区にあるNPO法人「Chance For All」のメンバーとして都内の学童で働いている川合さん。平時も被災時も全国の子どもたちにあそび場を届けるという事業を担当しており、4月に初めて能登を訪れ、子どもたちの居場所づくりの活動を始めた。そこでのつながりや夏休みのあそび環境への課題感から、再び能登を訪れた川合さんは、長期滞在しながら、遊び場を届ける活動をすることにしたという。

「どのような家庭や環境に生まれ育っても、豊かに遊ぶことができる社会をつくりたいと思っています。それは被災時でも平時でも同じことで、震災があったから子どもの権利が保障されなくても仕方ない、ということはあってはならないと感じています。

プレイカー

川合さん(写真中央)とプレイカーを製作したボランティアの方たち

なので、子どもたちが日々楽しみを見出して、遊びを通して成長し、安心できる居場所を見つけてのびのび過ごしていくことができたら嬉しいです。それは、この地で子育てをされている方、こどもたちと向き合っている方の想いでもあると思うので、そうした方々のお手伝いをしながら気持ちに寄り添っていけたらいいなと思っています。

この街に住む方々が、今後どのように暮らしていくか、子育てされている方や子ども支援の活動をされている方々がどのように生活していくか、といった観点も含めて、能登全体を応援したいという気持ちで活動しています」

プレイカーで遊ぶ子供たち

生活必需品ではないけれど、奪われてしまったら困るもの。子どもたちの未来のために失われては困るものがたくさんある。高齢者も若者も大人もみんな大変。しかし、未来を生きていく子どもたちが、今をイキイキと生きられるようにする活動は、決して失われてはならないものだと感じた。

今、能登では、住環境や学校環境などを考慮し、引っ越しを考えている家族が増えてきているという。特に小さな子どもがいる人たちにとっては、子育ての環境を優先するのは想像に難くない。震災によってますます高齢化が進むなか、まちが元気であり続けるためにも、子どもたちの今を守り続けることが大切ではないだろうか。

目の前にいる人たちのために、動き続ける人たち

「奇跡の2キロ」に生まれた、世界初の無料商店「山ん」

能登半島の北端、珠洲市三崎町小泊。そこで、震災後の2月末、地域の人たちの「無料商店」を開いたのは、秋山誠さん。富山県のスキー場でレストランを営んでいた秋山さんは、1月の発災後、すぐに店を閉めて能登へ向かった。能登に住む2人の友人の安否を心配してのことだったという。

「もともと、サーフィンをしに能登にはよく来ていましたが、今この場所におるのは、ほんまにたまたま。無料商店という仕組みが生まれたのも、物件を譲ってくれる人がいて、全国から物資や支援金を集めて心を寄せてくれる仲間がいたからです。県内でも、地元の服屋さんが着なくなったシャツを持ってきてくれたり、被災者の人たちが自宅にあったお皿を持ってきてくれたり、余剰でもらった支援物資を持ってきてくれたり。それをまた必要な人が持っていくという循環が生まれています」

山んにある物資

支援者や地元の方々が持ってきた物たち

自分の商売を一旦辞めて、1月から物資の運搬をスタート。以来、秋山さんは能登の復興のためにさまざまな支援を行ってきた。家族は金沢にいて、会えるのは週末だけ。そこまでして、珠洲の小さな町で活動を続けるのはなぜなのか。

「今、ボランティアでかかわってくれているスタッフが5人くらいいるのですが、僕たちは全国の仲間が集めてくれたものを地域の人たちに提供しているだけ。単なる代弁者です。始めた当初は、2か月くらいで行政がもっと入って、半年経てば僕たちはここに居なくてもよくなると思っていました。でも、現状は支援がどんどん減る一方。自分らも離れられなくなって、気づいたら7か月経っていました。

それでも、物資や寄付を届けてくれる人がいる限り、届け続けたいと思っているし、今日困っていて、自分たちがいることで生きられる人が一人でもいるなら、支援し続けたいなと思ってやっています」

山ん

震災によって、「山ん」がある小泊地区のすぐ近くでも、多くの家が倒壊した。ただ、小泊内にある道沿いの2キロだけが、固い地盤に守られていたおかげで、被害が全くなかったという。だからこそ、この場所から、人の流れを生み出すことで、人々を、そしてまちを元気にしていきたいと秋山さんは言った。

「とにかく能登は自然豊かで綺麗な場所。だから、良い場所に変えていきたいんですよね。震災があって、珠洲市全域でそれまでなかった新たなコミュニティが形成されているし、良い方向に変わっていくんじゃないかなと思いますけどね。

山んのまことさん

支援している人たちも色々な人がいますが、誰も悪い風にしようとしていない。だから、みんなの想いがもっと集合すればいいなって思います。なんかあれば批判ばっかりになってしまいがちですが、方向合わすだけやと思っているんですよね」

最後に、秋山さんは、こう言葉を残した。

「僕は、とにかく能登の自然の素晴らしさをたくさんの人に知ってほしい。まちの景色が変わっても、自然の壮大さは変わっていません。能登の自然の素晴らしさを見て、自然を体感してほしいんです」

一匹の犬とどこまでも。全国を旅しながら能登のことを伝え続けるシンガー

無料商店「山ん」を訪ねたとき、一匹の犬を連れたひとりの男性に出会った。ギターを片手に能登半島の被災地と全国を車中泊で巡り、ライブ活動している高橋伸明さん。愛知県出身で大分県在住の高橋さんは、震災直後の1月9日、帰省先の愛知県から物資を持って富山に向かい、能登半島に到着後は災害支援団体の手伝いをしていた。それから避難所などで歌い始め、東日本大震災が発生した3月11日には、多くの犠牲者が出た輪島市の朝市通りで、追悼のための歌を捧げた。

その後、能登で撮影した写真と共に全国を周りながら、歌を通じて能登のことを伝えている。

珠洲市で地域の方々に向けて唄を唄う高橋さん

珠洲市のさだまるビレッジで久居署の方々に向けて歌う高橋さん

「♪わたしのいのちは前の誰かのいのち、あなたのいのちは次の誰かのいのちへ 残されたわたしたちは未来のために〜」

高橋さんが、能登へ向かったのはなぜか。きっかけの一つは、発災の翌朝、実家で両親と甥と一緒にニュースを見ていたときに甥が言った一言だったという。「もう、こんなんばっかりでおもしろくない、なんかやってないの?」

「どう思うか、どう感じるかは人それぞれの自由だし、彼がどういう想いでその言葉を発したのかは彼にしかわかりません。だけど、とても悲しく感じたんです。だから、自分が現地に行くことで、彼が何か感じてくれたらいいな、と思いました」

そんな高橋さんは、自身が唄い続ける理由をこう語った。

「“今”という時に、危機感を持っていて。地球であったり子どもたちであったりこれからの未来であったり、今日という一日であったり。それらが少しでも良い方へ良い方へ向かうようにと願い、祈りながら唄を唄い巡っています」

高橋伸明さん

たまたまライブをしに来ていた高橋さん。そのやさしく、力強い歌声に、初めて心が震える感覚になった。生きとし生けるすべてのいのちが幸せでありますように──そんな願いを込めて歌い続ける高橋さんは、今日も明日も、どこかで歌っている。

ただ一緒にいるだけで、やさしい気持ちになるようなオーラが溢れていた秋山さんと高橋さん。そのやさしさゆえに、多くの応援が届き、彼らはまた動き続けられるのだろう。人の心を動かす。そんな「やさしさ」の循環が手に取るようにわかった時間だった。

能登をめぐるやさしさの循環

昔ながらの家々が立ち並ぶまち
畑で野菜を育て、商店で肉や魚を買う人々
毎朝誰かを待つ朝市の人々
毎日のように祭りがある能登の夏

当たり前のようにそこにあった景色は、震災によって一瞬にしてなくなった。でも、そんな日常を取り戻そうと、能登の人たちは今を生きていた。

能登の景色

家がなくても、野菜を植えようと畑に行く人々
発災後間もない頃に、営業を再開した飲食店
朝市を復活させようと、出張朝市を始めた人々
復興が進んでいなくても、祭りをやることを決めたまち

その姿から思ったのは、人々に染みついている「日常」は、そう簡単には奪えないということ。そうせざるを得なかったのかもしれない。だけどきっと、畑に行ったりお店を開いたり祭りをやったり。習慣となった日常は、一人ひとりの人生の一部であり、失われてはいけない大切なものだと強く感じた。

【参照サイト】hosi bosi coffee
【参照サイト】miim project
【参照サイト】NPO法人Chance For All
【参照サイト】特殊支援部隊 山ん

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