絶望の中にも、希望はある。 被爆者・田中稔子さんがアートで問いかける「私たちの平和」

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6歳だった、あの日
原爆がもたらした 圧倒的な破壊の中で
垣間見た青い空が
今も私を励まし、導いてくれるのです。

絶望の中にも、希望はある、と。

広島・原爆ドーム

1945年8月6日、広島。80年前のあの日、6歳だった田中稔子(としこ)さんは、ひどい火傷を負いながらも空を見上げ、思った。「これで終わりじゃない、明日があるんだ」と。

終戦から月日が流れ、70歳になったとき、稔子さんは戦争体験を語り始めた。ピースボートに乗り、世界を5周した彼女は、これまで80か国以上の国を訪れ、今もその物語を世界へと伝え続けている。

筆者が稔子さんと会ったのは、広島市の静かな住宅街にひっそりと佇む民家。これまで乗り越えてきたであろう痛みと苦しみを微塵も感じさせない明るい笑顔で、彼女は出迎えてくれた。だが同時に、ぽろりぽろりと紡ぎ出された言葉には、苦しみの影があった。

「原爆で小学校の時の同級生を全部なくしているんです。それで、たった一人だけ残ったという負い目があるんですね。生き残ると、必ず負い目があるんですよ」

田中稔子さん

田中稔子さん

そんな稔子さんの胸の内に深くとどまり続けていた負い目、幼いころのトラウマを癒してくれたものがあった──七宝(しっぽう)壁画。金属板にガラス質の釉薬を塗り、高温で何度も焼き上げる手間と時間のかかる技法で、彼女は50年以上にわたり作品を作り続けてきた。それらを展示した「Peace Culture Museum」が、2025年9月、広島市の民家のなかに誕生した。

そこは、単なる美術館ではなく、「平和を体感する」ミュージアム。民家を改装した部屋の中に並べられた七宝作品の数々には、稔子さんの半生と「祈り」が込められ、訪れた人がそれぞれの平和に想いを馳せられる空間が広がる。

Peace Culture Museumに飾られた稔子さんの七宝作品

Peace Culture Museumに飾られた稔子さんの七宝作品

今回、筆者は広島の地を訪れ、田中稔子さん、そしてPeace Culture Museumを立ち上げたNPO法人「Peace Culture Village」の住岡健太さんに話を訊いた。ふたりの口から語られる平和への願い──そこから、2025年を生きる私たちが、受け取れるメッセージは何だろう。

話者プロフィール:田中稔子(たなか・としこ)

田中稔子さん1938年10月18日、広島市水主かこ町まちに生まれる。父親、母親、2歳年下の妹、6歳年下の妹、戦後に生まれた弟の6人家族。偶然から始めた七宝作品は日展、現代工芸で認められ、常連作家となる。1981年、広島市長より、広島を訪れたローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世に、稔子さんの作品が贈呈される。2007年から2017年まで4度ピースボートに乗船。世界を旅しながら、被爆体験証言を行う。2016年に自宅を「Peace交流スペース」として開放。現在、七宝作家としては「宇宙を包含する自然と人間の関わり」を主題とし、フリーで作品制作。被爆者としては、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)、ヒバクシャストーリーズ、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)などの活動にも貢献。被爆証言活動を精力的に行っている。

話者プロフィール:住岡健太(すみおか・けんた)

住岡健太さんNPO法人 Peace Culture Village 専務理事。広島出身の被爆三世。幼い頃から祖母の被爆体験を聴き「平和とは何か?」が大きな問いとなる。20代にはアメリカ留学、アジア一人旅を経験し、25歳で起業。「平和をつくる仕事をつくる」をミッションに掲げるNPO法人PCVへ参画。平和×◯◯を軸に持続可能なソーシャルビジネスを創造している。グッドデザイン賞(2022)、若者力大賞(2022)、国際交流基金地球市民賞(2023)受賞。2025年までに71カ国8万名へプログラムを提供。G7広島サミットでは次世代平和シンポジウムのモデレーターを担当。

「私にとっての平和」を問い直す。抽象表現だからこそ生まれる「自由な対話」

重厚な金属の土台に重なる、深く鮮やかな色合いに立体的な模様。そのなかには原爆ドームやきのこ雲、アインシュタインの相対性理論の数式や鳩などが散りばめられていた。抽象的な表現の中に、戦争の記憶のかけら、平和や核廃絶を表現するサインが映し出されている。

七宝作品

稔子さんの七宝作品

もともとアートに関心があり、義母に勧められるがまま七宝の世界に入ったという稔子さん。それら作品は、自分にとって「脱いだ衣」のようなもの。そう稔子さんは表現する。約半年間かけて一つの作品を制作するそのプロセス自体が、彼女にとって「癒し」であり、気持ちが少し楽になる時間だった。だからこそ、ひとたび完成した作品は、稔子さんにとっては役割を終えたも同然。家に溜まっていく作品を稔子さんは廃棄しようとしていた。

それら作品たちを救ったのが、Peace Culture Museumの運営を担う住岡健太さんだった。祖父母が被爆者である「被爆三世」として広島に生まれ育った住岡さんは、「平和をつくる仕事をつくる」をミッションに掲げるNPO法人PCVに参画。平和×◯◯を軸に、若者たちが持続可能なアクションやソーシャルビジネスを考える機会を提供してきた。

住岡健太さん

住岡さん「祖母の戦争体験を最初に聞いたとき、頭の中にリアルな地獄のような光景が浮かんだんですよね。『なんで大好きなおばあちゃんがこんな経験しなきゃいけなかったんだろう』『みんな平和を望んでいるはずなのに、なんで世界は平和にならないんだろう』『なんで人って戦争するんだろう』と疑問に思っていました」

そんなシンプルな問いが原動力となり、平和活動を仕事として成立させるべく全力を注いできた住岡さん。稔子さんの哲学、そして作品に魅了され、Peace Culture Museumを設立することに決めたという。

ミュージアムの一階には、稔子さんのプロフィールなどを通して、作品を見る上でのマインドセットとなる「始(し)」の部屋がある。階段を上がると、アートを通して平和に思いを馳せる「想(そう)」の部屋、さらに、一人ひとりが自分と平和、平和の尊さを考え、祈る「祈(き)」の部屋がある。

PCM

Peace Culture Museumの想の部屋

住岡さん「稔子さんの作品は、見る人に対し、一律の『答え』を押し付けない。作品の抽象度が高く、答えが提示されているわけではないからこそ、見た人それぞれが絵から感じることを尊重している気がするんですよね。稔子さんの作品を通して、ただ視覚的に作品を鑑賞するだけでなく、平和を体感してもらいたい。自らとの自由な対話を促し、一人ひとりが『自分なりの平和』とじっくり向き合える場所にしたい。そんな想いでつくりました」

作品に込めた「宇宙的」な平和の視点

稔子さんが生み出すすべての作品からは、壮大な「宇宙」が連想される。彼女が貫き続けてきた「宇宙的な視点」には、ある想いが込められている。

稔子さんの七宝壁画

山の中に身を置き感じた「すべてのもののつながり」を表現したという作品「森羅」

稔子さん「宇宙から見れば、地球はまるで小さな船。私たちはみな、一つの船の乗組員です。そう考えると、ある場所での諍いは、必ず全体に影響するんです。

どこにもたどり着くところのない船で、乗員が食料やエネルギーを奪い合う。それは国同士がやっていることと同じで、地球の中でも取り合いをしていたら、いずれ漂流して最終的には終わりですよね」

宇宙的な視点から物事を見る。表面的な戦争や平和の話ではなく、人間が何のために生まれてきたのか──そんな本質を問い続けてきた稔子さんは、現在の世界の構造に対し、強い危機感を抱く。そして、理想論だと言われながらも、「被爆体験という『究極』を見た自分こそが、理想を語り続けなければならない」と語った。

稔子さん「私は6歳と10ヶ月で、『人間が死ぬ』ことを身をもって知りました。子どもでしたが、戦争を知っています。戦争が起こると、国家に自分の命も財産も全てのものを差し出すのが当たり前。そうしないと、刑務所に入るかひどい目にあってしまいます。今も、戦争を続けたい武器産業の人々や、各国のリーダーたちによって終わらない戦争が世界中で起きています。

平和は『当たり前』にあるものではなく、意識的に作り続けなければならないもの。平和を絶えずつくっていないと、すぐ戦争になってしまうんですよ」

田中稔子さん

戦争文化ではなく、「平和文化」をつくっていきたい。そのためにPCVで2014年から平和づくりに携わってきた住岡さんは、稔子さんの思想に共感し、また人類の存在意義を問い直す。

住岡さん「本質的には、私たちは戦争を起こすために生まれてきたのではないと思うんです。本当は平和をつくるために生まれてきているし、幸せになるために生まれてきているはず。平和に向かって生きることはとても幸せなことだし、究極の幸せではないでしょうか。

だから、ミュージアムやPCVの活動を通して、一人ひとりが『自分なりの平和』を大切にしながら生きられるきっかけをつくりたいんです。被爆者だから、被爆2世3世だからではなく、みんなに平和をつくる役割がある。一人ひとりが自分なりの平和と向き合って、ようやく少しずつ平和が達成されるのではないかと思うんです」

Peace Culture Museum

木々の生命力を描いた作品「いのちのき」

戦争を断ち、平和をつくり続ける。「究極」を見た人が語る、人類の生き方

平和は一部の人が頑張って達成できるものではない。一人の心にある平和の集まりが、平和な世界につながる。いつ花開くか分からない平和のタネを植えつづけている稔子さんと住岡さんは、数年前に出会ったそのときから平和への想いを同じくした。

住岡さん「特に、稔子さんが伝え続けている『世界中に友達をつくってください』『地球益で考えよう』という二つのメッセージに共感しました。その言葉を未来に残していくため、子どもたちにそのメッセージに触れる機会をつくり続けています」

田中稔子さんと住岡健太さん

田中稔子さんと住岡健太さん

稔子さんは言った。「世界中に友達をつくってください。友達がいたらね、相手の国との間に問題が起こったときに、『爆弾を落としてしまえ』なんて思わないでしょう。それに、国益だけを考えたら争いになるけれど、地球全体の利益とか、地球未来を考えたうえで選択できたら争いは起こらないでしょう」と。

そして、そんな平和へのあり方が可能であると世の中に伝えるかのように、稔子さんは自ら行動していた。原爆投下を命じたトルーマン元大統領の孫、そしてあの日広島に原爆を投下した爆撃機の乗組員・ビーザー氏の孫を許した稔子さんは、彼らの家を訪問するようになり、交流を続けている。

「恨みを恨みで返す復讐の輪を断ち切るには、どこかで誰かが許すことが必要だから」

これまで抱き続けてきた負い目を原動力に、平和証言をしながら、未来への道筋をつくる一人となった稔子さんの姿は、とても美しかった。

編集後記

「平和はずっとつくり続けなければならないものです」

その言葉が、心の中でずっと鳴り響いていた。どうやって平和をつくっていけるのだろう。自分にとっての平和って何だろう──そんな問いが、ぐるぐると頭の中を駆け巡った。でも、たとえ答えがすぐには出せなくても、「平和とは何だろう」「どんな世界で生きていきたいのだろう」と考え続けてみる。それが、平和な世界を描いていくはじまりなのかもしれない。

平和記念公園

稔子さんと住岡さんと会った翌々日の朝、平和記念公園を散歩した。見上げると、ちょうど太陽の光が降り注いできた。あの日の朝も、きっと同じような「日常」が、そこにはあったんだろう。雲が浮かぶ澄みわたった空の下で、川が流れ、公園には美しい花たちが咲いていたんだろう。人々がベンチに座ってゆっくりと朝の時間を過ごしていたのだろう。

数十年の月日を経て再生された木々を見ながら、「この日常が奪われませんように」と何度も何度も祈った。

<Peace Culture Museum>
営業時間9:00-18:00 閲覧時間:90分/回
広島県広島市東区牛田東2丁目4−17

一人ひとりがじっくりと作品を通して平和と向き合えるようPeace Culture Museumは、完全予約制で運営されています。訪れる際は、公式ウェブサイトから予約状況をお問い合わせください。

【参照サイト】Peace Culture Museum
【参照サイト】Peace Culture Village
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