イギリス南東部の海辺の町、マーゲート。潮風が運び、豊かな海の恵みを育むこの場所で、2012年一つのビューティーブランドが生まれた。かつて「Haeckels(ヘッケルズ)」として知られたそのブランドは、地元の海藻など自然由来の成分を活かした製品で、世界中の人々を魅了してきた。
今回IDEAS FOR GOODは、その哲学の源泉を探るべく、活気あふれるイーストロンドンの店舗を訪れ、同社のコミュニティ・ハブ・マネージャーであるテリ・ダフィー氏に話を聞いた。

当日店舗でインタビューを受けてくれた、テリさん|Photo by Naoya Toita
取材を通して見えてきたのは、単なるプロダクトの魅力だけではなかった。広告塔にはプロのモデルではなく実際に彼らの商品を使っている顧客を起用し、誰でも無料で利用できるコミュニティサウナを運営する。そしてときに、製品の価格を「あなたがふさわしいと思う金額を払ってください」と顧客に委ねさえするのだ。
なぜ彼らは、ビジネスの常識から逸脱するかのような挑戦を続けるのか。その答えは、ブランドが経験した過去と、そこから見出した「It’s about all of us.(私たち全員のことなのだから)」という、シンプルで力強い哲学にあった。これは単なる美談ではない。ビジネスのあり方、顧客との関係、そしてサステナビリティの意味そのものを問い直す、彼らの誠実な挑戦の物語だ。
過去を直視し、未来を共創する覚悟
ブランドの変革に至ったきっかけは、その名前に向き合うことだった。創業者であるドム・ブリッジス氏は、19世紀の生物学者エルンスト・ヘッケルによる海洋生物のイラストに魅せられ、ブランド名を「Haeckels」に決めたものの、そのヘッケルが人種差別的な思想を持っていたことがわかった。その思想はブランドが掲げる包括性の価値観とは相容れないものであり、彼の名をブランド名として冠することをやめた。現在は新しいブランド名を検討中の段階だ。

創業者のドム・ブリッジスとCEOのアン・マーグレット・カーニー|Image via Formerly known as Haeckels
そしてこの決断は、ブランドが直面していたもう一つの危機と重なる。急激な成長路線がコストを増大させ、会社を破産の瀬戸際まで追い込んでいたのだ。
彼らは、自分たちの置かれた状況から目を背けず、それをオープンに語ることを選んだ。そして、新しい名前をトップダウンで決めるのではなく、コミュニティとの対話を通じて共創していくという、前例のないプロセスに踏み出した。これは、ブランドが顧客を単なる「消費者」ではなく、未来を共にする「パートナー」と見なしていることの、何よりの証左となっている。
価値を纏い、土に還るパッケージ
ブランドの哲学は、そのプロダクトとパッケージに何よりも色濃く表れている。マーゲートの海岸で年に数回、社員たちによって手摘みされる海藻「ブラダラック」や、発酵スピルリナといった自然の恵みを活かした製品。その価値を包むのは、華美な装飾を一切排した、ミニマルな容器だ。

スピルリナ|Photo by Naoya Toita
「私たちは、製品の内側にあるものこそが重要だと考えています。パッケージは二次的なものであり、お客さんが愛する製品を運ぶための、単なる器なのです」
その「器」は、単にミニマルなだけではない。英国の企業Shellworks社が開発したVivomerという素材でできており、家庭のコンポストで約1年かけて完全に生分解され、土の栄養となる。
ブランドはさらにその先を行く。顧客から返送されたパッケージや自社で使い終えた容器を、マーゲートにある自社農園で堆肥化し、そこで育った作物をコミュニティに還元するという循環を生み出しているのだ。
「私たちは18ヶ月間、自社の農園でパッケージを堆肥化してきました。廃棄物は、栄養豊富な無農薬の食料を育てるための重要な要素であると気づいたのです」

シンプルなパッケージ|Photo by Naoya Toita
廃棄物をコストではなく、価値ある資源と捉える。その思想転換がカギとなった。製品の価値は、それを包む豪華さではなく、それがもたらす体験と、地球に残す足跡によって決まるのだと、そのシンプルな佇まいが物語っている。
「お客さんが決める価格」が示す、新しい信頼のかたち
このブランドの大胆な試みの一つが、「価格設定」にあった。2025年4月、彼らは「Pay What You Feel(あなたがふさわしいと思う金額を払ってください)」と名付けたキャンペーンを実施。これは、製品やサービスの価格を顧客自身が複数の選択肢から選ぶことができる仕組みだ。
「Tier 1(段階1)は原材料費をカバーする価格、Tier 2はスタッフの人件費をカバーする価格、Tier 3は通常価格、そしてTier 4は私たちのコミュニティサウナへの寄付を含む割増価格です。Tier 1は通常価格の半額になっています」
その期間中は、最安値だと39ポンド(約7,800円)のハンドソープが18ポンド(約3,600円)で手に入ることになる。この取り組みは、サステナブルな選択肢を、経済的な理由で諦めていた人々にも開きたいという理由で開始された。最も手頃なTier 1が人気を集める一方で、自ら割増価格であるTier 4を選び、ブランドの活動を支援する顧客も数多くいたという。
彼らのコストの考え方をよく表しているのが、「Transparency Wheel」というウェブ上のツールだ。製品価格の内訳、つまり原材料費から人件費、諸経費に至るまで、すべてのコスト構造を円グラフで明確に開示している。

ホームページで見られる、Transparency Wheel
「なぜこの製品がこの価格なのか。私たちはその理由をすべてお客様に伝えます。これは、製品の背後にある価値を深く理解してもらい、コミュニティとの信頼と相互尊重の基盤を築くためです」
価格を顧客に委ね、コストをすべて見せる。それは、企業と顧客の間に存在する情報の壁を取り払い、「共に持続可能なビジネスを支える」という新しい信頼関係を築こうとする、誠実な挑戦だ。
コミュニティという名のインフラを育む
Haeckelsの活動は、店舗や製品の枠を超えていく。彼らはマーゲートに、誰でも無料で利用できる「コミュニティサウナ」を運営。地元のボランティアの協力によって維持されるこの場所は、人々が集い、繋がり、心身を癒すためのインフラとして機能している。

コミュニティサウナ|Image via Formerly known as Haeckels
また、ブランドの広告やウェブサイトを飾るのも、プロのモデルではない。マーゲートやロンドンに住む、実際の顧客たちだ。製品を使い、コミュニティサウナを訪れ、ブランドの旅路を共にする人々が、その顔となっている。
さらに、近所のコーヒーショップ・Ozoneから出るコーヒーかすをアップサイクルしたソープを共同開発したり、ロンドンの名門芸術大学セントラル・セント・マーチンズの学生プロジェクトを支援したりと、その活動は地域社会やクリエイティブシーンへと深く根を張る。イーストロンドンに2号店を構えたのも、このエリアが持つ多様でクリエイティブな雰囲気に共鳴したからだ。
「この地域はとてもクリエイティブで、若い家族や起業家、アーティストが集まっています。多様な文化が混じり合う、素晴らしいコミュニティです。私たちのやっていることに、とても合っていると感じています」自身もこの地域で生まれ育ったテリさんはそう語る。
そのつながりは、プロダクトを通じてさらに深められる。「シチズンシップ・ボックス」と名付けられた新しいサブスクサービスは、その象徴だ。四半期に一度届くこの箱には、まだ市場に出ていないサプリメントや、他社との協働で生まれた実験的なアイテムが詰め込まれている。これは単なる商品販売ではない。ブランドのイノベーションの旅に顧客を「市民」として招待し、そのプロセスを共有する試みなのである。

サブスクのボックス|Photo by Naoya Toita
彼らは製品を売っているだけではない。人と人、人と自然、人と地域を繋ぐ、目に見えない「コミュニティ」という名のインフラを、丹念に育んでいるのだ。
編集後記
取材を通して最も心に残ったのは、ブランドが貫く圧倒的な「誠実さ」と「透明性」だ。自らの名前を捨て、顧客も一緒に新しい名前を考案するという決断。製品の原価をすべて公開し、価格さえも顧客に委ねるという試み。これらは、単なる奇抜なマーケティング戦略ではない。ビジネスとはどうあるべきか、社会とどう向き合うべきかという問いに対し、彼らが差し出す一つの答えなのだと感じた。
特に「Pay What You Feel」の取り組みは、サステナビリティが一部の「意識の高い」人々のための贅沢品であってはならない、という強い意志の表れだった。誰もがアクセスでき、誰もがその価値を理解し、支え合える仕組みをつくる。その先にこそ、ブランドが掲げる「It’s about all of us.」という哲学が実現される世界がある。
この名もなきブランドの旅は、私たち一人ひとりに問いかけている。あなたが信じる価値のために、何を捨て、何を選び、誰と未来を共創していくのか、と。

Photo by Naoya Toita
【参照サイト】It’s about all about us.
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