2022年春、兵庫県・神戸市で、ある壮大な旅が始まった。
「ナチュラルワインは、あらゆる社会課題を解決する一つの手段になると思うんです」
確信に満ちた目でそう語るのは、神戸市でナチュラルワインショップ「ビバ・バン・ビバン」と、地域食材とナチュラルワインをあつかう飲食店「エノテカ・ベルベルバール」を経営する宮本健司さん。2022年3月から、神戸市北区で栽培放棄されかけていた2.4ヘクタールのぶどう畑を引き継ぎ、ナチュラルワインの造り手としての挑戦を始めた。
筆者はその旅の始まりの年、約一年かけて宮本さんに密着取材をしながら、ぶどう栽培からワインの醸造に到るまでの全ての過程を実際に体験。そこから見えてきた現代社会が抱える課題、そしてその解決策としてのナチュラルワインの可能性を宮本さんのこれまでの活動とともに紐解いていく。
パリで見た「カウンターカルチャー」としてのナチュラルワイン
宮本さんは20代30代の頃、建築家を志してヨーロッパで活動していたという。
「昔は尖っていましたね(笑)常に進化を求めていたし、日本にはない新しいものを生み出したくて、活動拠点は国内ではなくヨーロッパを選びました。建築で自分が世界を変えるんだと、本気で思っていました」
そんな宮本さんがなぜ、ワインの道に進むことを決意したのだろうか。
「2000年代初頭、パリに3年ほど滞在していたことがありました。その時期、フランスは長年の不況で、どことなく庶民のあいだに閉塞感が漂っていたように思います。というのも、1950年代〜60年代にかけて流通革命が起き、時代は大量生産・大量消費の流れになっていきます。外貨を稼ぐため、農業も効率・工業化が進み、ワインもそのムードにのまれていきました。身近な人々のために少量で造られていたワインが、海の向こうに住む人々のために大量に造られるようになった。除草剤や化学肥料を撒き、培養酵母による人工的な発酵を行う。さらには味の劣化や変質を防ぐため、酸化防止剤を入れる。本来ワインは、土地の風土や造り手の想いが色濃く現れるものなのに、大量生産のために味は均一化していきました」
そんな折に出会った、一軒のビストロが宮本さんのその後の人生を大きく変える。
「パリで滞在していた場所のすぐ近くにLe Verre Voléというビストロがあったんです。そこは、パリで暮らす庶民のための食堂といった雰囲気で、いつも地元の人たちで活気づいていました。食材は、近くのマルシェで調達し、ワインは小規模につくられたナチュラルなものを出す。それらをジャストな価格で提供しているんです。酒屋としての機能も兼ねていて、マルシェで買い物を終えた近隣住民が、食材を片手に今日のディナーに合うワインを店主に相談する。壁一面の棚からナチュラルワインを選び、買って帰っていくというシーンは印象的でした。私自身、フレンチと言えば高級食材に高級ワイン、というイメージがありましたから。本来ワインは肩肘張った飲みものではなく、庶民が日常的に消費するために造られていたという事実も、土地や生産者の違いによって、こんなにも味に変化が生まれるという事実も、何もかもが衝撃でした」
パリに滞在していた3年間、そしてその後数年のあいだに、次々とLe Verre Voléのような、庶民のために地元の食材やナチュラルワインを提供するビストロが出現したという。
「大量生産・大量消費というシステムへのアンチテーゼだと感じました。料理もワインも、もともとはその土地に住む人々のために内向きに表現されていたのに、そこに住む人たちを置いてけぼりにして、外向きの表現になってしまった。いくらお金を稼げても、そこではもう文化が失われています。自分たちで自分たちの作り上げてきたシーンを壊すのはやめて、もう一度内向きに戻ろうよ、と。それは食文化だけではなく、社会全体のムードを変えてしまうような、力強いパワーがありましたね」
近年国内でもエシカルやサステナブルという概念が広がりをみせるなか、自然に敬意を払い、できるだけ化学肥料や農薬を使用せずにぶどうを栽培し、野生酵母で発酵させるナチュラルワインは、一躍ブームとなっている。しかし当初は、フランス国内の時代の流れに対するカウンターカルチャーとして生まれたものだった。
「ナチュラルワインに可能性を感じました。こんなまちづくりもあるのかと。建築はハードからまちをつくっていくけれど、そこに住む人の想いや動きによってソフト面からまちをつくっていくことにどんどん興味が湧いてきて、まずは日本でワインの概念を変えようと思いました。ワインは、高級なものではなく、庶民の日常に寄り添った飲み物なんだということを広めようと。そこで地元神戸に戻り、ナチュラルワインと料理の店として16年前にオープンしたのが『エノテカ・ベルベルバール』です」
神戸の農村でひっそりと消えかけていたぶどうを救う
日本国内でもナチュラルワインのシーンは広がり、神戸でもナチュラルワインをあつかう飲食店は増えている。そんななか、宮本さんは数年前から新たなフェーズに進むことを考えていた。
「ナチュラルワインがブームになっても、一体どれだけの人が、その中にある本質的なことを暮らしに落とし込めているのだろうという疑問はありました。今度は私自身が神戸でナチュラルワインの造り手となり、そこに住む人々が地元で採れた食材と地元で造られたワインを当たり前に消費する、そんなまちづくりを実践したい」
ほかの都市と比べ、街と農村部との距離が近いというポテンシャルを持つ神戸では、比較的実現しやすいのではないかとも感じていたそうだ。また、時代はコロナ禍に突入し、外の世界と遮断されたことにより、身近なものを大切にしようとするムードが漂っていたことも背中を押したという。
宮本さんは一念発起し、まずはぶどう栽培のノウハウを身につけるため、神戸市の農村部にあるワイン用のぶどう畑で研修を受けることになった。しかしそこで、ある問題と直面する。
「神戸市は、農業振興を目的に、38年前にワイン用のぶどう栽培を開始し、神戸ワイナリーを創業しました。栽培総面積40ヘクタールという広大なぶどう畑なのですが、近年、生産者の高齢化と後継者不足によって、減反、伐採、栽培放棄が起こっていることを知りました。樹齢30年超えの国際品種のぶどうの木は、全国的に見てもあまりなく、本当に貴重なんです。世界のワインシーンでは古木ほどその土地の風土が反映されると捉えられています。その価値を見出すことなく、まだまだ元気に生きているぶどうの木がひっそりと伐採、栽培放棄されていくことに危機感を覚えました」
しかし、約40年という長い時間をかけて、自分たちの手で一生懸命育ててきたにもかかわらず、生産者自身が「手放す」という究極の選択をしてしまうのは、高齢化や後継者不足だけが理由ではない、と宮本さんは言う。
「自分たちの造るものに誇りを持てていたら、きっと手放さないじゃないですか」
ここ数年、気候変動の要因で起こる異常気象や長雨により、不作が続き、収量は減少。買い値は例年価格の10%にまで落ち込んだ年もあったという。
「身体にムチ打ってどれだけ手をかけて育てても、収量も価格も下がる一方。これでは自分たちの造るものに価値を見出せなくなるのも当然です。高齢になり、体力も落ちていく中で、必死にやっているのに、こんな価格でしか売れないんだったら減らしてしまおう……となるのも理解はできます」
「神戸は、街と農村部が近いにもかかわらず、生産地と消費地が分断されてしまっていると感じました。同じひとつの市であるのに、農村部の問題は農村部で片付けるというサイクルが起きてしまっている。街を輝かせる豊かな資源があるのに、それを自分たちの手で消してしまうのはあまりにも愚かなことです。絶対に未来につなげなければいけない。そのためには、街の人々がもっと『自分ごと』としてこの問題を捉えることが必要だと思いました」
どうすれば、街の人たちにも農村部の問題を自分ごととして伝えられるかを考えていたちょうどそのとき、宮本さんはあるアイデアを思いつく。
「塩屋町という小さな街で、空き家や放棄地をどうするかという問題が勃発していたんです。そこで農村部のぶどうが役に立つのではないかと思いました。その街は神戸市内でも最も海の近くに位置していて、『塩屋町のみんなでぶどうを育て、そのぶどうで造ったワインを海を見ながら飲みましょう!』と提案すると、すごく盛り上がってくれて。農村部の現状を伝えながら、そこから持ってきたぶどうの枝を一本ずつ挿し木にして、地域の人たちに持ち帰ってもらったんです。一年間自分で育ててね、と言って。でも見た目はただの細い枝ですから、初めはみんな半信半疑でしたね(笑)でも一年でそれぞれ立派に苗まで育ててくれて、それをまた放棄地に持ち寄り、定植から垣根造りまでをおこないました。現在はいつかそこでワインを飲める日を夢みながら、定期的に集まって作業をしています」
2023年からは塩屋町で「ぶどうアカデミー」と題したプロジェクトを開始し、街中でぶどうの栽培方法を学びながら、ゆくゆくは神戸でナチュラルワインの造り手となる人材を育てていくという。
この活動は、じわじわと神戸中に広がりをみせ、活用法を見出せない街の屋上や公園などで、ぶどう栽培を核としたアーバンファーミングがはじまった。すると、やはりそこが地域の憩いの場、人と人とがつながる場にも変化していったという。地域に住む人々が集い、ぶどうをはじめとするさまざまな食材を育て、そして消費するというサイクルが、小さな波ではあるものの、神戸の街中で生まれはじめた。
人が立ち入ることのなかった、ひっそりと眠っていた場所で、ぶどうによって新たな人の流れができ、つながりが生まれる。さらには農村部の現状を知ることで、問題を自分ごととして捉える人が増え、街と農村をつなぐということが本当の意味で実践できているのではないだろうか。
街と農村がワインで一直線につながる
2022年3月。宮本さんは神戸市北区のぶどう畑2.4ヘクタールの栽培放棄に待ったをかけ、正式に畑を借り、神戸市でナチュラルワインを造るプロジェクトがいよいよ始まった。
しかし、これまで30年以上慣行農法で育てられていた畑を、無農薬栽培に転換することは困難を極めた。薬によって病気にかからないように守られていた木は、菌に対応する免疫がないため、とても弱い。初夏にはベト病という病気が蔓延してしまい、収量ゼロということも頭をよぎった。
筆者も実際に畑に立ち入らせてもらうなかで、先の見えない挑戦を続けることへの忍耐力の必要性をひしひしと感じた。
「とにかく誰もやったことがないわけですから、トライアンドエラーの連続です。『自分で一からやった方が早いんじゃない?』なんて周りから言われることも沢山ありました。そんなことは分かっているんです。けれど、神戸の未来をより豊かにするために、この畑でやることに意味があると思っています。40年近くここを守ってきてくれた生産者のみなさんとも、一緒に未来に進みたいんです。自分たちがやってきたことが、未来につながり、意味のあることだったんだと誇りを持って欲しい」
宮本さんの言葉はいつも力強い。なにか新しいことを始めるとき、それが大きな挑戦であるほど、多くの人は前例がないことを理由に諦めてしまう。しかし、誰かが始めなければ、革命は起こらないのだ。
初年度の収量は当初の予想のわずか5%となったが、なんとか収穫に至った。収穫したぶどうは、兵庫県・加西市のボタニカルライフというワイナリーで天然酵母による発酵と醸造を行い、酸化防止剤無添加の100%神戸市のぶどうで造ったナチュラルワインが誕生した。数年内には街中にワイナリーを設立し、栽培から醸造まで全ての過程を神戸市で完結させる夢を持っているという。
なにより一番の収穫は、街の人々も畑に立ち入るようになり、生産者との盛んな交流が生まれたことではないだろうか。10月には1年間の労を労いあい、生産者と畑に立ち入った街の人々が集まり、収穫祭を開催。参加のチケットは、地域で採れた食材、または自分で育てた食材を一人一つ持って来ることだった。それらをその場で調理し、ナチュラルワインで乾杯する。
街と農村、生産者と消費者、生産地と消費地、それが一直線上につながった景色は活気に溢れ、本当に美しい時間だった。
神戸市でナチュラルワインを造るもうひとつの理由
最後に、宮本さんは神戸市でこの活動をおこなうもう一つの理由を教えてくれた。
「『神戸市ってどんな街?』って聞かれたとき、なんて答えますか?
きっと多くの人は、海と山があるとか、開港150年の港街とか、そんなふうに答えると思うのですが。神戸にはもともと、下町に育っていた文化や、街と農村をつなぐ賑やかな商店街の存在、そういった人の動きによって生まれるカルチャーが沢山あったんです。でも、28年前、神戸市は阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けて、街がそのカルチャーごと壊れてしまったように思います。ハード面は震災前以上に整ったけれど、人の営みや自然とのつながりといったソフトの復興はなおざりになってしまった。今、それを取り戻そうとする動きが、さまざまな場所で出てきていると思います。私は、神戸という街が本来持っている豊かな文化や資源を、ぶどう、ナチュラルワインによってもう一度輝かせたい。そしてそこに人が集まり、つながり、予想もできない化学反応が起き、新たなカルチャーが生まれる。そんな未来をつくりたいから、神戸にこだわってやっています」
一度壊れたカルチャーをもう一度取り戻す。
それは、いつか宮本さんがパリで見た、ナチュラルワインムーブメントと同じことなのかもしれない。誰もが「ここに住んでいる」ということを誇りに思う、そんな活気溢れるまちを取り戻す旅は、まだまだ続く。
編集後記
幸せの青い鳥を探して、世界中を歩き回ったが、青い鳥を見つけることはできなかった。しかし、旅から帰ってきて、青い鳥はずっと前から自分のうちにいたことに気づく……
これは、メーテルリンクの有名な童話だ。
現代社会になるにつれ、人もモノもまちづくりも外向きに表現されることが多くなった。もちろんそれにより私たちは多くの恩恵を受けていることも事実だ。しかし、身近にある大切なものを置き去りにして、遠くばかりをみつめることは、個性がなく、脆弱な人やまちをつくることにつながってしまう。
近くに豊かな資源があるにもかかわらず、それを活用せず、もしかしたら知ることもなく廃れさせてしまう……そんなシーンは神戸だけでなく、世界中で起こっていることなのかもしれない。
実際、神戸は筆者自身も育ってきた地域であるにもかかわらず、広大なぶどう畑が存在することも、そこで起きている問題も、この取材をとおして初めて知った。毎日のように畑へ行き、生産者の人たちの声を聞きながら、農作業に汗を流す。作業のあとに畑でみる夕日の美しさは格別だった。「このまちで生きている」という実感が湧き、毎日少しずつ地元が好きになっていく。そんな感覚があった。
今後、あらゆる街で、その場所にある豊かな資源を活用しながら、そこに住んでいることを誇りに思えるような、そんな取り組みが広がりをみせてほしい。
カルチャーとは、そこにあるものと人の動きによって生み出されてゆくものなのだから。
Edited by Natsuki Nakahara