2023年2月、イタリア、フィンランド、スペイン、タイから、食文化の研究者、ジャーナリスト、世界トップクラスの料理人など、計12人の食や農の専門家たちが日本にやってきた。そのほとんどが初めて日本を訪れるという彼らの訪問の目的──それは、日本各地の「発酵の現場」を回ることだった。
日本の食文化の伝統的な知識を学ぶ機会を提供する「株式会社GEN Japan」が、イタリアを拠点とする国際土壌コンソーシアムJINOWA(じのわ)のために企画した10日間のツアー。「世界と日本の地域をつなぎ、持続可能な食のあり方について考えるきっかけをつくりたい」という同社の想いから生まれたこの旅は、自然を大切にしながら社会課題に取り組むチェンジメーカーたちに向けて「JINOWA Master course」として実施された。
訪れたのは、鹿児島、埼玉、群馬、静岡、東京。これらの地で、参加者たちは発酵食品の生産現場を訪れ、見て、聞いて、食べて、つくって、日本の文化や歴史に浸った。
豆腐、納豆、酒、醤油、味噌……日本で古来から親しまれてきた発酵食品は、私たちの健康にとって大きな役割を担う。発酵を引き起こす微生物の多様性が、第二の脳とも言われる腸にとって重要であることから、「腸活」や「菌活」という言葉も頻繁に耳にするようになった。
こうした健康面での効果に加えて、自然素材を多く使用し、廃棄物をほとんど出さない生産の過程から、発酵食品はサステナビリティの面でも注目されている。
ただ、そうした発酵の健康やサステナビリティという側面とは別に、今回深く掘り下げたいテーマがある。それが、「目に見えないもの、命との向き合い方」だ。
本記事では、ツアーの一部に同行した筆者が、さまざまな発酵食の現場を訪れたなかで特に印象的だった、群馬県の醤油醸造所・株式会社有田屋の湯浅康毅(ゆあさ・こうき)さん、参加者の一人であり、ヨーロッパにおける発酵食のプロフェッショナルであるカルロ・ネスラーさんの話を通して、発酵に欠かせない微生物の魅力を探っていく。
「発酵食品は、人間の力だけでつくりあげられるものではないんです」
発酵にかかわる者たちが、口を揃えて言っていた言葉。一体どういうことなのだろう。そして、微生物という目に見えない小さな命は私たちに何を教えてくれるのだろう──その答えを見つける旅に一緒に出掛けよう。
「宗教」と「教育」が織りなす発酵食品
寝かせて発酵、熟成させることから、完成までに時間がかかる発酵食品。味噌は数か月~1年、醤油はおよそ2~3年、ウイスキーは長いもので10~20年程寝かせる。あっという間につくることができる“インスタント”な食品とは異なり、手間暇かけてゆっくりとじっくりとつくられていく。
そんな長い時を経て生み出される発酵食品に欠かせないのが「微生物」。あまりにも小さなその存在は、私たちの目には見えない。
しかし、そんな「目に見えない」存在こそ、いま、私たちは大切にしなければならない──そう教えてくれたのは、群馬県安中市で江戸時代から醤油づくりを行ってきた「有田屋」の7代目、湯浅康毅さんだ。
江戸時代、中山道の宿場町として栄え、山紫水明の郷として知られる上州安中の地に創業。以来191年間、有田屋は昔ながらの天然醸造の製法にこだわった醤油をつくり続けてきた。吟味した素材、微生物の働き、上州の風土、豊かな時間の流れ──それぞれが出しゃばらず、すべての要素がうまく融和できるよう最大限の注意を払って管理する。その哲学の下で、「ありのまま」の醤油の味わいを今に伝えている。
そんな有田屋で醤油づくりを行う湯浅さんが、有田屋の歴史や醤油にかける想いを話してくださった。そのなかで湯浅さんの口から出てきたのは、発酵からは程遠いような、ある言葉だった。
「この町はキリスト教(プロテスタント)と深いつながりがあります。かつて私の高祖父は、京都の同志社大学の創立者であり、アメリカの宣教師であった新島襄とこの町で出会いました。高祖父は3代目で、私も含めて5代続けてクリスチャン。高祖父を含む当時聖書を学んでいた者たちが、新島襄から受洗し、この町に『安中教会』という教会を建てました」
「そしていま、私はこの安中教会の信仰から生まれた『新島学園』というキリスト教の学校の理事長をやっています。なので、有田屋と安中教会と新島学園、つまり事業と教会と学校がつながって三角形になっているのが、この会社の特徴。その一番中心にあるのが、有田屋なんです」
宗教と教育と深くつながり合いながらつくられてきた有田屋の醤油。湯浅さんは、それら二つと発酵のかかわりについてこう続けた。
「醤油づくりも宗教も教育も、何となく似ている気がします。いずれも、“目に見えないもの”に生かされているからです。醤油の醸造所では、目に見えるものは限られていて、目に見えない空気がとても大事なのです」
「変に聞こえるかもしれませんが、醤油は決して人間の力だけでつくりあげられるものではないと思っています。醤油とは、自然界の中の営みによる産物であり、自然界が創造してくれた芸術の結晶。我々職人は、醤油づくりのプロセスの一つに過ぎないのです」
風土、微生物、職人の力、時間、そして原材料──すべてが「一滴の醤油」に詰まっている
有田屋では、江戸時代から今日に至るまで、191年間同じ蔵で醤油をつくり続けてきた。その長い時間は、会社としての歴史であり、同時に「菌の歴史」でもある。そう語る湯浅さんが考える、醤油の魅力とは何だろう。
「僕が考える醤油の魅力は、土地の風土、微生物、職人の力、時間、そして原材料──それらを“一滴”で表現できること。すべての努力が一滴で表現できるのが非常にカッコイイと思うんです。191年の微生物のエネルギーが、その一滴には詰まっている。それは、他にはない魅力だし、醤油の素晴らしいところだと感じています」
ほんの一滴の醤油。そのつくり手は、職人だけではなく、蔵に住む微生物、安中という地の風土、原材料……それらすべてであった。そんな醤油を構成する原材料の一つが「大豆」だ。有田屋は昨年、新たに地元の大豆を使った醤油づくりをスタート。周辺の耕作放棄地の土づくりから始め、10年ほどかけて地元産の大豆100%の天然醸造醤油をつくろうとしている。
さらに、そうした挑戦のほかにも、酵母の株を一株一株切り分けて株を残して醤油を仕込んでみたり、トンネルの中で二次熟成をさせてみたりと、他では見られない一風変わった取り組みも始めている。背景には、伝統を守りながらも発酵の新たな可能性の追求を楽しむ湯浅さんの姿があった。
「つくり方次第で、全然違う味の醤油ができます。こういう何かを作り出すような取り組みをするのが楽しいと感じますし、まだまだ発酵食品で面白いことができるんじゃないかなと考えています。次の時代につながることをしたいと思っているので、新しいことをするときはいつもワクワクします。夢がありますね」
「“as nature intended(自然のままに)”。それが、私たちの蔵のモットーです」
説明がつかないからこそ面白い、発酵の魅力
自然を敬い、自然に感謝し、目に見えないものを大切にした醤油づくりを行う有田屋。長い歴史と共に伝わる伝統的な製法を守りながらも、「自然のまま」に新たな挑戦を続けている。その姿は、ある人と重なった。
今回のツアーの参加者であり、ヨーロッパにおける発酵の第一人者であるカルロ・ネスラーさん。同じく、伝統を大事に挑戦を続けながら、微生物の重要性を伝えている一人だ。
イタリアでひよこ豆やヘーゼルナッツ、空豆などを用いて味噌や醤油などをつくるカルロさん。日本の技術をベースに、イタリアでとれる食材と掛け合わせた発酵調味料をつくるほか、シェフなど食にかかわる人々に対して教室や開催し、発酵の魅力を伝えている。
そんなカルロさんに、発酵に興味を持ったきっかけを尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。
「すべてが魔法のようで、説明がつかないことだから」
その言葉は、日本の発酵食品の現場で生産者たちが口を揃えて言っていた「発酵食品は人間の力だけでつくりあげられるものではない」という言葉と通じるものだった。そして、発酵の要である微生物の存在こそが、もっと大切にされなければならないとカルロさんは言った。
「私たちは、微生物や動物、野菜、菌……この世界の全ての生き物とかかわりあっているという事実を忘れてしまっているようです。いま、世界が多くの地球規模の問題に直面している理由の一つには、微生物が生きる土壌を私たちが破壊してきたことがあります」
「人間が『空気を汚染している』『ものやエネルギーを消費しすぎている』と考える人は多いかもしれません。しかし、土や土中の生き物を破壊していることに気付いている人は少ないように思います。何十年も何百年も、私たちは殺虫剤や化学肥料を使った農業を通して、生態系のバランスを崩してきました。もはやいま、地球上の土は生きていません」
身近な「食」に立ち返り、微生物との美しいつながりを取り戻す
そんな壊れてしまった土を回復させるためには、微生物を殺すのではなく、「発酵」させること。自分の手で野菜や発酵食品をつくってみること。食べ物と“きちんと”つながることが、微生物との美しいつながりを取り戻していく──カルロさんはそう強調した。
「私たちはいま、自分たちの体内に、皮膚に、微生物が存在していることを理解することが大事だと思うのです。多くの医者は、『土は私たちの腸』と言います。腸には多くの微生物がいて、土中にも多くの微生物がいます。そのバランスが似ているというのです。微生物の少ない土地から野菜を食べたら、そこに栄養は含まれていません」
「現代人の腸の微生物には多様性がなく、多くの人が100年前にはなかった病気にかかっています。それは、私たちが化学物質や添加物などを通して土と腸の中にいる微生物を殺し、微生物が私たちを助けなくなっているからです」
「このように考えられれば、私たちはもっと微生物を尊重し、環境に対して謙虚に生きられるのではないでしょうか。たとえば、化学肥料や農薬をたくさん使う大規模な農業ではなく、小規模農業や家庭菜園など、もっと丁寧に作物と向き合える『小さな農業』に立ち返ることができると思うのです。身近なところでは、家庭で料理を食べる機会を増やすことも、微生物を大事にすることにつながるでしょう。環境とは、概念的なモノではなく、私たちがいる場所、私たちはその場所の一部なのです」
ラベルを貼らず、「目に見えないつながり」を大切にする
小さく農業を営む人から野菜を買ったり、自ら作物をつくったり。食と真剣に向き合うことは、時間もお金もかかるかもしれない。だけど、普段スマートフォンの画面を見ている時間を、外食をするために費やしているお金を、少しでも毎日の食のために費やすことができれば、世界は少しずつ変わっていくのではないだろうか──。目に見えない小さな命を大事にする食のあり方を教えてくれたカルロさんは、そんな想いを口にした。
そして、最後にもう一つ、目に見えない“つながり”に関して、メッセージを残してくれた。
「生態系とはつながりであり、システムです。それぞれが直接的、間接的にかかわり合っています。だから、たとえば私はあなたのお母さんのことを知らないけれど、あなたを通して私はあなたのお母さんとつながっています。あなたのお母さんが花を育てていたら、私はその花とつながっています。まるでチェーンのように。いや、チェーン以上かもしれません」
「日本は島国です。世界中の島には、それぞれ生態系がありますが、その境界はどこでしょう?微生物の境界はどこでしょうか?たとえば、日本の生態系は、中国や韓国、他の国の生態系ともつながっています。私たちは、海や土地が誰かのものだと思っていますが、世界はすべてつながっています。宇宙はすべて一つの生態系。私たちが勝手に境界線を引いているだけで、本当は、ばらばらではなくかかわりあっています。料理も同じ。イタリア料理、フランス料理……全て同じ宇宙のなかにある材料を使っています」
「“What are you(あなたは何)?”──イタリアでは、職業などを知りたいとき、そう尋ねることがあります。私は、“I’m a human(人間です)”と答えるようにしています。私はこれまで色々なことをしてきましたが、することが変わっても、『私』という存在は変わらないからです。ラベルを貼らないこと。ただそれだけです。ラベルを貼ってしまうと、ジャッジすることにつながってしまうから」
「もし、いまあなたが、何かとかかわり合っていると感じているのなら、それはきっと良い状態にあると言えるでしょう」
編集後記
カルロさんは、イタリアの自宅で500本のオリーブの木を育てている。それらが成長し、木々が高く伸びれば、カルロさんはどこかのタイミングでその木を切る。そのときに大事にしているのが、「オリーブの木を敬う気持ち」を持つこと。出来るだけ木を多く切らないで済むようにし、草を抜かないようにし、殺虫剤や化学薬品を使わないようにしているそうだ。
オリーブの木が苦しまないように。自分の利益とオリーブの利益が補完し合うように。生態系のバランスをとることが大切だと伝えてくれたカルロさんは、こう言い残した。
「いま私たちに必要なのは、大地に帰ること。大地との良い関係を取り戻すことができれば、世界中のさまざまな危機を乗り越えられます」
オリーブの木に愛情を持って接するように、ほかの植物や動物、人、それから微生物などの目に見えない存在とも丁寧に向き合うことができたら。きっと、世界中に散らばっているさまざまな課題は、チェーンがほどけるようにばらばらと消えていくのではないだろうか。
効率や論理、目に見えるものが重視される社会では、「目に見えないもの」はしばしば見逃されてしまう。だけど、そんな目に映らない存在を大事にしながら生きることができたら、そこにはきっと、もっとやさしくて明るい世界が広がっているはず。
あなたは、魔法のようで説明がつかないことがたくさん起こる世界でどんなふうに生きていきたいだろうか?
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【参照サイト】JINOWA HP