いま、地球の自然環境が破壊されている中で、世の中のプロダクトが石油由来のプラスチックから自然のマテリアルにどんどんシフトしている。「植物由来」や「生分解性」という言葉はもはや、私たちにとって目新しい言葉ではなくなりつつある。
一方で、それらの自然マテリアルに使われる植物は一体、どこから生まれているのだろう。その答えは、「土」である。しかし、国連食糧農業機関(FAO)によると、食料生産に欠かせない地球上にある土壌の33%以上がすでに劣化しており、2050年までに90%以上の土壌が劣化する可能性が訴えられている。
「土には、生態系全体を助ける大きな役割があります。地球の持続可能性を考えたときに、土の健康が一つのゴールになると思っています。」
そう話すのは、日本とイタリアを拠点に食文化教育を行う「株式会社GEN Japan」(以下、GEN)の代表である齋藤由佳子氏だ。GENでは、日本やイタリアの地域資源を伝統知(Traditional Ecological Knowledge)としてキュレーションし、世界各国のイノベーターに学んでもらう文化教育プログラムを欧州を拠点に日本各地で実施している。
そんなGENがこのほど、人間を含むあらゆる生態系の回復に取り組む日本・ドイツ・イタリアなどの企業が参画する国際企業コンソーシアム「JINOWA(じのわ)」を設立した。JINOWAは、2021年から2030年まで国連が進めている「生態系回復の10年」に参加し、あらゆる産業を循環型へ転換するために、地域コミュニティレベルでの生態系回復に向けた活動を行う。そんなJINOWAが最も注力して研究するのが「土の力」であり、健全な農作物を育てるための土壌の大切さや、生態系全体における土の役割を実証していく。
今回はそんな、世界を舞台にして「土の可能性」に挑む齋藤由佳子氏に、「土が根本的な地球環境の回復となるのはなぜか?」「土をよくすることが、私たち人間にどうつながっていくのか?」話を聞いた。
話し手: 齋藤 由佳子(さいとう ゆかこ)氏
2011年にヨーロッパへ移住し、2013年にイタリア食科学大学大学院を修了後に地域文化と環境教育プログラムを提供するイタリア『Genuine Education Network』を2014年にミラノにて設立。2016年から『株式会社GEN Japan』の代表取締役社長CEOに就任。2021年5月に循環と土壌再生を推進する国際コンソーシアム『JINOWA』を設立。現在の専門は持続可能な発展(SDGs)の教育政策(ESD)および衣食住のエコロジカルな伝統知(Traditional Ecological Knowledge)を活かしたイノベーション戦略、食文化による地域振興を目指す自治体、NPO、企業、生産者へ向けた持続可能な観光・食文化政策・国際コミュニケーション戦略アドバイスなどを行う。2016年 Forbes Japan「世界で闘う日本人女性55名」に選出。『シーバスリーガル ゴールドシグネチャー・アワード 2020 presented by GOETHE』ビジネスイノベーションカルチュラル部門受賞。
「土」こそが、地球環境の“根本的な回復”に必要不可欠
いま、世界中で脱炭素化への取り組みが進むなか、空気中のCO2を吸収する「土の力」が、地球環境の改善において注目されている。フランス政府は2015年に開催されたCOP21で国際的な取り組み「4パーミルイニシアチブ」を提唱した。脱炭素化社会へ向け、土壌中の炭素量を毎年0.4%ずつ増やすと、大気中のCO2増加量を大幅に削減することができ、人間が排出するCO2をほぼ相殺できるとしている。
「土」こそが、地球環境の“根本的な回復”に必要不可欠である──齋藤氏は、確信を持ってそう話す。
「最近の腸活ブームにより、人間の免疫力を高めるためには腸内細菌が大事だという認識が高まっていますよね。つまり対症療法ではなく、そもそもの人間が持つ自然回復力を高めるには、腸内環境を整える必要があるんです。」
「それとまったく同じで、生命である地球を根本的に回復させようと考えたとき、地球における人間の腸内細菌は何にあたるのかと考えたら、それは『土の中の微生物』なのではないかと思いました。」
肥沃で健康な土は健康な農作物を育て、そこに育つ草木を食べる畜産物にも良い影響を与える。土が肥沃で健康であれば、結果的に人間や自然環境の健康につながっていくというのが、齋藤氏の考えだ。
「五感教育をしたい」という一心で食の世界に入り、GENを設立
そもそも齋藤氏が、そうした根本的な地球回復を考えるうえで「土」の大切さに気づくまでには、一体どのような道を歩んできたのだろうか。「よく『色々なことをやっていますよね』と言われますが、実は全部の事業がつながっているんです。」と、齋藤氏。彼女のことをよく知る人は、「『食』の齋藤さん」と、彼女のことを連想するという。
「もともとはリクルートに10年以上勤めた後、お客さまの好みに合わせ、提案型でワイン販売をする会社を経営していました。そのときに、外国のお客さまと比べると、日本人のお客さまはあまり味覚表現されないことに気づいたんです。そうした、食に対する日本人と外国の方のアプローチの違いにヒントを見つけ、日本人である私たちも味覚を含めた五感を、もっと自由に表現できたらと思ったんです。」
そんな「五感教育をしたい」という一心で、齋藤氏は食の世界に入る。2012年、シングルマザーとして、2人の小さい子どもを連れてヨーロッパに移住。現在160カ国以上に広まる国際組織「スローフード協会」のもとに開設された、イタリア食科学大学院に入学した。修了後、イタリア政府公認ソーシャルイノベーションスタートアップ制度にて、初の外国人企業家としてGENを創業。
そんな齋藤氏がデザインするGENのプログラムは、普通の食文化プログラムとは一線を画している。外国人に日本の食文化を伝えるべく、食べる経験だけではなく、農業や水産業、林業なども含めて、政策的な部分や、生物多様性などの観点でも学べる教育プログラムを作っている。これまでにユネスコ食文化創造都市として日本で唯一認定されている、山形県鶴岡市、古来から御食国として海洋環境を守ってきた三重県の各市などと共同事業を行ってきた。
人間は、微生物が生み出すエコシステムの中の一員
食文化の伝統知を伝えるGENが、食の他にも力を入れているテーマがあり、それがJINOWAで「土の力」にこだわる今へとつながっている。そのテーマが、左官(さかん)技術だ。左官技術とは、建物の壁や床、土塀などを、こてを使って塗り仕上げる日本に古くからある伝統技術で、GENではこの左官技術をテーマにした教育事業を行っていた。
「いま、この日本の左官技術が世界から注目されています。左官技術は日本では衰退産業と思われてしまっている一方で、世界で今注目されている『マイクロバイオーム(微生物叢)』という考え方にも通ずるものがあるんです。」
マイクロバイオームとは、人や動物、植物などの生物回りや土壌、水、大気などの環境中に存在する多様な微生物の集合体のことを指す。人の中にも常在菌と呼ばれるおよそ1000種、数十兆個の微生物が生息しているといわれ、それら微生物叢が、私たちの健康や疾患に深く関与していることがわかっている。
「今までは『人間にとっていい菌だけ使おう』『悪い菌は全部取り除いてしまおう』という考えだったのですが、それだけではどうやら上手くいかないことがわかってきました。排除するのではなく、私たち人間もそのシステムの一部なのだから、その中の一つとして人間も機能するように考えていこうというマイクロバイオームの流れが建築の世界でも広がっており、日本の土壁が改めて注目されています。」
たとえば、醤油や味噌などの発酵食品は、土蔵でできている。土壁の中の生きている菌は呼吸しているので、調湿作用や臭いを取る機能があるのと同時に、生き物である発酵食品が持つ菌の一部と空間中で相互作用し、お互いを支え合う微生物圏を作り出す。それらによって、人間がコントロールせずとも、自然のバランスの中で調和をとる持続可能な移行システムができるのだ。
「土を食べるという文化も伝統知の中にはあるんです。オーストラリアのアボリジニや、霊長類などの動物を見ても、体調が悪ければ土を食べる習慣があります。それは土というより、微生物を取り入れて自分たちでバランスを整えているんです。」
人間が、そうした微生物が生み出すエコシステムの中の一員であるという感覚を持ち、暮らしを変えていかなければならない。「人間が自然をコントロールする」という感覚を持ち続けて発展することは不可能なのだと、齋藤氏は警鐘を鳴らす。
世界中の「土」にこだわる企業を集め、循環ソリューションを提供するJINOWA
2021年5月、GENのそうした「食」と「建築」分野のネットワークを「土」を通して融合させ、設立に至ったのが企業コンソーシアム「JINOWA(じのわ)」だ。
「大きいシステムを変える必要性から、JINOWAを企業のコンソーシアムとしました。時間はかかるけれど、廃棄を生まない、土に還すまでのデザインを生産に組み込む産業シフトを訴えていくやり方で、持続可能な社会を実現したいのです。」
JINOWAという名前は「地の環、知の輪、千の和」の3つの意味が重ねられている。あらゆる生態系につながっている人間や地域に根ざす産業のあり方、廃棄をゴールとせず、良い土にしてその土地に返すまでを一つのサイクルとする世界中のビジネスを結びつけていくことを目指す。
JINOWA参画企業には、堆肥になるオムツを作るドイツの「DYCLE」や、土のインテリアを作るイタリアの「MatteoBrioni SRL」、日本の伝統的な左官技術で電気を使わない土の食糧貯蔵庫「野菜蔵」を手掛ける「蒼築舎」などの「土」にこだわる企業が名を連ねる。
「アップサイクルするためには、さまざまなソリューションがなければいけません。いま欧州ではサーキュラーエコノミーを掲げる企業も増え、投資もどんどん進んでいるのですが、よく見ると本当は循環できていない企業もたくさんあります。『生分解性』とうたっていても実は石油由来の原材料だったり、分解までに異常に時間がかかったりすることもあるんです。なので、分解を安全に確実にするソリューションを提供して、分解後の土壌や生態系への影響まで見極めている企業さんを巻き込みたいと思っています。」
循環を促すためには、土壌中の微生物の量をバランスよく増やし、肥沃(ひよく)させる必要がある。そのためJINOWAには、土の力に着目し、生態系回復に取り組む先進企業や団体だけではなく、土壌専門家も加わる。
「土壌づくりに関しては、世界一の技術を持っている堆肥・育土研究者である橋本力男先生や、土壌生態系研究者である横山和成先生のお力をお借りしながら、そのときの気候や状況、場所に合わせて土を肥沃にしていきます。」
JINOWA第一弾プロジェクト「JINEN」で、都市の循環デザインと土壌回復
今回JINOWAは、参画する企業のソリューションを、世界最大の芸術祭である「ヴェネチアビエンナーレ」に参加する世界各国の都市計画の専門家や研究機関に向けて、建築の循環モデルとして提供していく。2年越しでようやく実現したというJINOWA第1弾のプロジェクトは、長野県北佐久郡軽井沢町にある、土を使った建築を専門とする遠野未来建築事務所による土の建築作品「再生する森JINEN(自然)」だ。JINENで使う土は、日本の左官技術が使われた良質な土。そうした土を、JINOWA参画企業と共に土に還すまでをデザインしていく。
作品JINENの舞台である芸術祭「ヴェネチアビエンナーレ」は2年に1度、120年以上にわたって実施されている、世界中の芸術家からの注目が集まる場でもある。しかし近年、ヴェネチアでは気候変動による度重なる浸水や、オーバーツーリズムの影響で環境破壊が深刻になっていた。
「土のリサーチでヴェネチアを訪れた際に、地元の農家さんとお話してヴェネチアビエンナーレに対するネガティブな側面を知りました。毎年大勢の人が訪れる芸術祭に誇りを持っている一方で、展示後の廃棄問題に悩んでいるというのです。作品展示のために自分たちが大事に育てた『自然素材』が使われ、展示が終わると、廃棄だけが残される。そこで私たちは、建物を建てて終わり、展示して終わりではなく、それらを分解してその土地に戻すまでをデザインする必要があると考えました。」
今回JINOWAでは、作品JINENの展示終了後、解体するだけでなく、使った資材全てを参画企業によって地域に役立つ新たなプロダクトやサービスに活用させ、「廃棄物を出さない建築作品展示」を目指す。地域の自然素材の循環に加え、建築に使われた土を改良し、肥沃にしてヴェネチアの地に還すことで、生態系の回復にも貢献する。
「理念である「JINEN(自然)」とは、「おのずから成る」を意味する東洋的思想です。ヴェネチアは水の都市のイメージがあると思うので意外かもしれないですが、実は昔は広大な森がありました。森のカラマツの丸太を使って埋立地を作り、その上に人が住んできた歴史があるのです。そうしたヴェネチアの成り立ちから影響を受けたのが今回のプロジェクトで、『そこには森があった』『ヴェネチアに森をもう一度生まれ変わらせたい』というメッセージがあります。」
「『氵(さんずい)』や『蛇』など、昔の人が考えた地名を見るとわかるように、人間が住んではいけない土地は、日本にも多いですよね。しかし現在は、非常に過密な都市計画が進む中で、本来人間が住まなかった森や場所にも人が住むようになってきました。人間は本来、その土地にそもそもある力をお借りしているんです。そこに『住まわせていただいている』という、地球と共存する建築のあり方を取り戻すべきなのです。」
建物の土を廃棄するのではなく、建物を土に還す「常若」の循環思想
サーキュラーエコノミーという言葉が今、世界で使われているが、齋藤氏が「日本型のサーキュラーエコノミー」なのではないかと話すのが、JINOWAが提唱している「TOKOWAKA(常若)」モデルだ。これは日本で昔から大切にされてきた、「土に還ることは終わりではなく、新しい命の循環の始まりだ」という考え方である。
「実はこの“常若”は、伊勢神宮の理念なんです。伊勢神宮では1300年前から、20年に1回、式年遷宮(せんぐう)という形で、全部を建て替えています。日本では、遷宮があるからこそ、木を植えて森を管理するんですよね。杉が育つのは時間がかかるので、これは200年後のために行っていることです。伊勢神宮は、木材や、神様にお捧げる様々な御使用やお米など、ありとあらゆるものを全部自給自足しています。私はこれらすべてを、先人の方々が、今の私たちのために残してくれた、ある種のその循環共生モデルなのではないかと思ったんです。失ってはいけないものを、全てここに詰め込んでくださっているのではないでしょうか。続いていることには、意味があるのです。」
「ヨーロッパの建築では、石やレンガを使って頑丈なものを作ることがサステナブルだという考えがあります。その一方で日本は、壊れないことを目標にするのではなく、自然に逆らわず常に自分たちの手で直し、新しくし続ける知恵によって、限られた資源を搾取せず生きさせ、さらに人間の暮らし自体も豊かにするという概念を持っています。日本人が昔から持つ『もったいない』という感性は、『命を吹き込み、循環させながら使う』という意味だと思うんです。」
「さらに、いま気候変動の影響で自然災害も多く、地域性が保てなくなっているところも多いですよね。その中で私たちの社会をどうレジリエンスにしていくのかも問われています。個人の危機管理を考えたときに、壊れないように頑丈なものを作るやり方ではなくて、壊れたとしてもすぐに直せる方向性にシフトしていくことが世界の流れではないかと思います。」
私たちはまだ、土の持つ可能性の数%しか知らない
JINOWAが目指すもの──それは、「土というものが今後、社会資本になる世界」だ。
「これは、JINOWAの土壌づくりアドバイザーに入っていただいてる横山先生から教わったのですが、日本の都市のアスファルトの下には、ものすごく肥沃な国土が眠っているそうです。つまり、日本はとてつもないそのアセットを持っているかもしれないということ。いま、世界中で土を失っている中、私たちは宝物を足元に持っているのです。私はJINOWAのプロジェクトを通して、全ての人たちが土を良くすることの可能性に気づいて欲しいと思っています。」
「いま、ヨーロッパでグリーンリカバリーが進む中、都市計画が見直されていますが、どの都市でも食料自給率を上げることに取り組んでいます。土壌が整っていなければ有機農業も不可能なので、現在は外から土を運んでいて、それを土壌回復させる余分なコストがかかっています。しかし、東京や大阪がアスファルトを剥がして食料自給率を上げることを目指し始めれば、もう外から土を運んでくる必要はありません。そう考えたら、ものすごい希望が湧いてきませんか?」
「私たちはまだ、土の持つ可能性の数%しか知らないのだと思います。」
齋藤氏は、いまの地球の状況を、決して悲観してはいない。土こそが、私たちの生活をリジェネラティブにする無限の可能性を持っているのだ。
編集後記
私たちはこれまで、マイナスをゼロにする「サステナビリティ(持続可能性)」に取り組んできたが、それだけではどうしても現状維持の、一時的な対症療法になってしまう。そうではなく、ゼロをプラスにするための「リジェネラティブ(再生)」な考え方で、根本的に地球環境の再生に取り組まなければならない。
齋藤氏が強調していたように、土の健康なしでは根本的な地球環境の回復は実現せず、地球が健康でなければ、私たち人間の健康が実現することはありえない。そして日本は、それらからかけ離れているよかのように感じられるが、実はそうではないのだ。
「GENで大切にしているのは、伝統知です。先人の知恵の中に、全てのインスピレーションとイノベーションの種が眠っています。テクノロジーをうまく組み合わせながら、それを進化させる必要はあると思いますが、今多くの大学の研究所が大慌てで研究してることって、実は全部、日本の暮らしの中にあったものなんです。」
私たちがすでにいま持っているものを改めて見直してみれば、そこには地球を救うヒントがあるかもしれない。そんなことを考えさせられる取材だった。
【関連サイト】 GEN Japan
【関連サイト】 JINOWA
【関連サイト】 遠野未来建築事務所
「問い」から始まるウェルビーイング特集
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