「人類の歴史を1日に凝縮すると、23時59分まではアフリカのサバンナで狩猟採集生活を送っていました。今のような現代的な環境、私たちの日常となった都市生活やデジタル化というのは、最後の1分だけ、つまり誤差範囲のようなもの。私たちの脳はサバンナで生きていくために、狩猟採集民の生活に合わせてプログラムされているのです」
そう主張するのは、スウェーデン出身でニューロデザイン(脳が環境にどのように反応し、それがどのような生理的・心理的な影響を与えるかについての研究)の専門家のイサベル・シェーヴァルだ。
彼女は脳科学の観点から、私たちの幸福度を高め、クリエイティビティを向上させる建築・空間・環境づくりを提案している。今回紹介するのは、そんなヒントが詰まった書籍『デザインフルネス』だ。
本記事では、私たちの感情や行動を左右する「居心地のいい“ミィーシグ”な空間づくり」に着目する。そして、多くの時間を過ごす職場や自宅において、集中力と、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を高めるにはどうしたらいいのか、すぐに実践したくなるような具体的なヒントも見ていく。
“ミィーシグ”な空間とは?
本書には、スウェーデン語のミィーシグ(mysig)という言葉が出てくる。これは、居心地のいいと思える環境でリラックスしていることを表す。デンマーク語で同じような意味を持つ「ヒュッゲ」、または「ヒュゲリ(ヒュッゲの形容詞)」は聞いたことがある、という人もいるのではないか。
ミィーシグであることは、人がリラックスするホルモンであるオキシトシンを放出させるのにも密接に関わっている。「愛情ホルモン」とも呼ばれるオキシトシンが放出されると、ストレスが軽減され、抗炎効果があり、免疫系も強化してくれるなど、さまざまなメリットが本書には書かれている。
では、具体的にどうしたらミィーシグな空間を作っていけるのか。ここでは、「無意識のストレス要因を減らす」「ミィーシグな要素を増やす」の二つに分けて書いていく。
無意識のストレス要因を減らす
空間づくりは、常に足し算ではない。何か新たな要素を足すときには、自分の居住空間のマイナスの要素を認識し、まずはそれを減らしていこうとすることも大切だ。実際に『デザインフルネス』に登場したストレスのかかる要素としては、以下が挙げられていた。
- 印象や刺激が多すぎる雑然とした環境
- シグナルカラー(赤やオレンジ)
- 明るすぎる照明、逆に暗すぎる照明
- 大きな音や不快な音
- とがった角や鋭い角
- 狭い空間
居住空間においては、狭い空間はストレスになるだろう。しかしシチュエーションによっては、それが有利に働くこともあるというのも本書で学んだことだった。本書にある脳科学者ソフィ・スコットへのインタビューでの「コメディアンと一緒に部屋に入ると、彼らはその部屋が笑うのに適しているかを瞬時に判断する」という話である。照明が明るく天井が高い空間よりも、部屋全体が少し暗く、天井も低めで、観客の椅子同士が近くに並んでいる方が、笑いが起きやすいというのだ。
実際に筆者がイベントなどを開催するときも、広くて開けたスペースより、多少密集していて、参加者と膝を突き合わせるくらいの方が心の距離が近くなり、スムーズに進行しやすいということはこれまでにもあった。空間を使う目的が明確になっていれば、多少の条件は変わっていくのかもしれない。
ミィーシグな要素を増やす
次に、ミィーシグである条件を見ていこう。デンマークの幸福研究所が、ミィーシグあるいはヒュッゲだと感じる対象を調査したところ、特に多い回答として得られたのは「温かい飲み物」「キャンドル」「クリスマス」「ボードゲーム」「休暇」「ケーキや甘いもの」「本」などであった。
筆者もデンマークに暮らしていた頃に、寒くて暗いクリスマスの日に何の予定も入れず、部屋にキャンドルだけを灯して、暖炉の前でホットチョコレートを飲みながら読書をしたりすることを「ヒュッゲ」と周りが表現するのを見てきたので、この結果は非常に共感できるものだった。
他にも本書では、副交感神経を刺激して心を落ち着かせてくれる要因として、以下が挙げられている。
- 自然、植物、バイオフィリックな要素
- くすんだ色(青や緑の濃淡など)
- 温かい照明(焚き火のイメージ、1700-2500ケルビン)
- 有機的な丸い形
- 触覚に訴えかけるやわらかい素材(ブランケットやクッションなど)
丸い形は対立的な雰囲気を和らげ、炎を思わせる要素は、サバンナで焚き火を囲んでいた時代から社交や交流を促進するとしている。上記の要素を満たすものをインテリアに取り入れたり、雑貨を置いてみたり。自宅にキャンドルを一つ置き、夜になったら火を灯してみるだけでも変わるかもしれない。
集中し続けるのが難しい現代で、環境を整える
『デザインフルネス』では、マイクロソフトの創設者であり世界的な富豪ビル・ゲイツが、年に2回ほど「シンク・ウィーク(考えるための週)」に出かけるエピソードが描かれている。大量の本だけをお供に、人里離れた小屋でひとり静かに過ごす。刺激もなく、人間の脳が集中するのに適した環境だ。
誰もがビル・ゲイツのように小屋に籠れるわけではないが、この集中するためのコンセプトは他の環境にも応用できる、と本書は述べている。スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』に代表されるように、スマホやそれに付随するテクノロジーが当たり前の現代を生きる私たちにとって、「ただ集中すること」は非常に難しいこととなってしまっているのだ。
『デザインフルネス』によると、ひっきりなしに届くスマホの通知以外にも、集中を阻害する要素として「オープンな空間」があるという。仕切りのないオフィスは広々としていて印象がいいようにも感じられるが、同僚が何をしているのかがすぐに見えるようになっていることや、ざわざわとした音、気軽に同僚に話しかけやすい設計が、感覚的な中断を生み、集中状態からは遠ざけるのだという。
職場に流れる音楽(BGM)も、大切な要素だ。『ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション』に掲載された論文によると、自分の得意なことや知っていることなどのルーティーン作業をするときは、自分に馴染みのある音楽を聴くと正確かつ迅速に事を進められ、まったく新しいことや精神的に要求が高いことを求められるときは、静けさの方が効果があるという。
また、「色」も集中に関わってくる。本書に掲載されている研究では、9色の部屋で被験者のパフォーマンスを調べた結果、赤と青の部屋でテストを受けた被験者は、白など他の色の部屋にいた被験者に比べて間違いが少ないことがわかった。さらに、短時間でディテールにこだわったタスクには赤色が適しており、生産性を高めるフローには青色が適していることも明らかになっている。黄色や紫色は、気を散らすようだ。
職場と自宅での、心地いい空間づくりのヒント
最後に、『デザインフルネス』に掲載されていた居心地のいい空間づくりのヒントを、事例をまじえながら紹介していく。本書では、学校や病院なども含めた色々な場所での空間づくりについて書かれていたが、ここでは「職場」と「自宅」に絞って考えていきたい。
職場でのデザインフルネス
Google(グーグル)本社やNASAのオフィスでは、「ナップ・ポッド」が用意されている。従業員がひとりで入り、勤務時間中に15分〜20分程度の昼寝ができる小さな空間だ。人は8時間ずっと集中を保ち続けることが難しいので、少しの間でも休息できる場所を企業側が用意しているのである。
また、休息とは逆に、体を動かすことで脳を活性化させるための設備が用意されているオフィスも多い。Google本社ではフィットネスやクライミングウォール、トロント支社ではミニゴルフ場、チューリッヒ支社ではサッカーとバスケットボールができるコート。また、アメリカの自転車部品メーカーのスラムのオフィスには6,700平方メートルの自転車レーンまである。
フィンランドのFramery社は、オフィス家具としての防音室を開発した。スタイリッシュで機能的なデザインの防音室は、従業員の生産性と集中力を高めるほか、心地いい休息スペースも作り出す。
オフィスのデザインに、正解はない。集中したいとき、創造力を高めたいとき、人と交流したいとき、少し休みたいとき、そのときしている作業の目的や、シチュエーションを明確にすることで、適切な空間は変わってくる。場合によっては、アウトドアオフィスで仕事をしたって良いかもしれない。
自宅でのデザインフルネス
自宅での空間づくりに必要なのは、やはりミィーシグであることだと『デザインフルネス』は結論づけている。著者のイサベル・シェーヴァルは具体例として、楽しく料理のできるキッチンや、ソファにかかった手触りの良いブランケット、夜になると潜り込みたくなる寝心地の良いベッドやパリッとしたシーツなどを挙げている。
また彼女は、部屋が片付いていることや、ベッドルームに情報量が多くなく、涼しくて快適であること、空気中の浮遊粒子をとらえてくれるカーペットが敷いてあること、人間が無意識のうちに自然を求めてしまうことから、観葉植物が置いてあることなどを良い状態としている。
北欧の生活スタイルに、学べることは多い。これまで北欧に住む人々の自宅を何十と訪問してきたが、一般家庭であっても家を良い空間にデザインしようとする意識が高く、快適な家が多かった。そういった部分が、フィンランドやデンマークをはじめとした北欧の国々の幸福度の高さにもつながっているのかもしれない。自殺率が高いという別の側面があるものの、生活の質と寿命の関係性について書かれた論文も存在し(※)、それが北欧の国々の寿命の長さの一端を担っているのもうなづける。
北欧の空間づくりと脳科学を結びつけた本書。筆者を含め、リモートワークで職場と自宅が同じになりがちな人にも大切な気づきを与えてくれる一冊だ。
※ Heavy stress and lifestyle can predict how long we live
【参照サイト】フィルムアート社 – デザインフルネス