スペインで「経済成長と気候危機」を考える会議が開催。脱成長をめぐる注目の論点は

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2024年3月13日から15日まで、スペイン・バルセロナで「Growth vs Climate Conference(経済成長と気候を考える会議)」が開催された。バルセロナ自治大学の環境科学技術研究所(ICTA-UAB)が主催したこの会議は、世界的な気候危機や緊急の環境課題に取り組むことを目的としている。科学者、政策立案者、活動家、ジャーナリストなどが一堂に会し、現在の気候トレンドを逆転させるための道筋を探求する機会となった。今回、IDEAS FOR GOOD編集部はこの会議に参加した。

バルセロナに到着して驚いたのは、街中にある赤い看板。これは昨年から深刻な被害を出しているスペインの干ばつを知らせ、水不足の危機を伝えるものだ。

住民に水不足の危機を訴えるバルセロナの看板

スペインの干ばつは離れた場所に住む人にとっても、決して無関係な問題ではない。例えば、日本でも多くの人が日常的に使うであろうオリーブオイル。その値段が、地中海地域の干ばつによって大幅に高騰していることがニュースになっている(※1)

2024年3月、地球の平均気温は過去最高となり、10ヶ月連続で記録を更新した(※2)。また、9つのプラネタリーバウンダリーのうち、現在6つが上限を通過している。各地で巻き起こる異常気象は、気候変動の甚大な影響を私たちに突きつける。

地球環境の限界を示す「プラネタリー・バウンダリー」9項目中6つが上限超過。初の全体マッピング公開

こうした変化を食い止めるためには、経済のあり方を根本的に見直すべきではないだろうか。今後各国の、あるいは地球全体の経済成長はどうあるべきか。GDP指標だけではない、新たな「脱成長モデル」が必要なのか。もし経済システムを移行するとしたら、それはどうすれば”公正な”形で実現するのか──今回の会議はそうした問いに真正面から向き合うものだった。

この記事では、Growth vs Climate会議での議論の中から、編集部として特に注目したトピックについて取り上げていく。

※ Growth vs Climate会議の一部の時間帯では、セッションがパラレルに行われ、IDEAS FOR GOOD編集部は一部のセッションにのみ参加した。そのため本記事は、Growth vs Climate会議全体のまとめではなく、発表者の見解をもとに筆者が意見を述べたものである。

なぜいま「経済成長」を根本から考える必要があるのか

気候変動の問題を考える際に、なぜ経済成長モデルのことを考えなければいけないのか。Growth vs Climate会議の開会セッションはそんな問いから始まった。

growth vs climate

開会セッションの様子

バルセロナ自治大学で教鞭をとり、『資本主義の次に来る世界』などの著書で知られるJason Hickel(ジェイソン・ヒッケル)氏は、この問いについて「経済(GDP)の成長と環境負荷のデカップリングがもはや不可能だということがわかった」からだと語る。厳密には、地球上のいくつかの地域ではCO2排出と経済成長の絶対的デカップリングが実現しているものの、世界全体で見たときに、それが実現すると考えるのは難しいとの見方だ。

そして、デカップリングがもっとも困難な状況にあり、多くの環境負荷を生み出しているのは、先進国である。それらの国では、今後気候危機を食い止めるために、そして社会的公正を実現するために「そもそもGDP成長を志さない」「GDPだけを指標にしない」といった脱成長の動きが必要なのではないかと、ヒッケル氏は述べた。

さらに、開会セッションにおいて、今までの経済成長が環境だけではなく、社会的なマイノリティの人々の立場を蔑ろにしてきたことが指摘された。人類学者のYayo Herrero(ヤヨ・ヘレッロ)氏が使っていた言葉で印象的だったのが、「interdependent(相互依存)」という言葉だ。私たちはみな脆弱な存在であり、互いに依存しないことには生きていけない。しかし、現在の経済のあり方のもとでは、一部の人だけに富が分配されるようになっている。そうした経済構造を根っこの部分から再考していくのが「脱成長」の考え方でもあるのだ。

Illustration by Javi Royo

会場ではグラフィックレコーディングが行われた|Illustration by JAVIRROYO

ヨーロッパで議論が進む脱成長モデル

そうした問題意識のもと生まれた「脱成長」のモデルについては、いままさにヨーロッパを中心に議論が続いている最中だ。

脱成長の考え方はもともとフランスで生まれた。フランス語で脱成長は「Décroissance」と呼ばれ、経済成長が必ずしも社会の福祉や環境の持続可能性を向上させるわけではないという前提に立っている。ヨーロッパでは脱成長が社会運動の一つとして始まり、いまもその議論と研究のほとんどが行われているだけでなく、進歩的な研究にも資金が提供されている。現に、脱成長に関する論文の90%が英語で書かれており、そのうち約80%がヨーロッパから出てきているという。

脱成長の研究をするNick Fitzpatrick(ニック・フィッツパトリック)氏は、脱成長をこう定義する。

脱成長とは、エコロジカル・フットプリントを減少させるために生産と消費を縮小し、公平な方法で民主的に計画しながら、すべての人々のウェルビーイングを確保することを指します。

また最近では脱成長(Degrowth)に対して、アグロース(非成長、Agrowth)という考え方も出てきている。アグロースとは、従来の経済成長が持続可能性や環境保全に必ずしも寄与しないという認識から、経済活動の質を重視し、環境との調和を目指す発想だ。

脱成長にしろ、アグロースにしろ、重要なのは「経済を縮小させること自体が目的ではない」という点だろう。従来のGDP成長だけを指標とした経済成長のモデルから脱そうとするこれらの考え方は、経済活動の先にどのような未来が待っているか、その先を見据えている。

南ヨーロッパで生まれる「脱成長まちづくり」の事例

それでは、実際に私たちは「GDP」の指標から離れることができるのだろうか、「脱成長」のあり方を通じて本当に豊かになれるのか、疑問に思う人も多いだろう。Growth vs Climate会議の中では、南ヨーロッパを中心に展開される、「脱成長まちづくり」の事例が紹介された。それらの事例は、会議の中で「real-existing-degrowth(RED)」の事例と呼ばれていた。

オーバーツーリズムを機に脱成長へ舵を切った、スペイン・ランサローテ島

一つ目の事例として紹介された街は、スペインのカナリア諸島の一部であるLanzarote(ランサローテ)島だ。スペインから南下し、モロッコの西側に位置するランサローテ島は、地理的にも孤立した場所にあったことから、かねてより島の中で生産と消費を完結させる「自給自足」の文化が根付いていたという。また、住民の結束も強く、広告や高い建物の建設を規制するなど、経済成長よりも住民のウェルビーイングに重きを置く施策が取られてきた。

そんなランサローテ島には、美しいビーチがあり、年間を通して比較的温暖であることから、観光客が押し寄せ、オーバーツーリズムに悩まされていた。そこで、島ではそのアイデンティティを改めて振り返るワークショップが島民によって開催されたという。

ランサローテ島の景色|Image via Shutterstock

そこで提案されたアイデアの一つが「スロー・ランサローテ」だった。「生態系のハーモニーの中で生活を営みたい」「食料自給率を維持したい」「経済的な公平性を保ちながら、サステナブルな形の観光をしてほしい」「コミュニティへの参加を維持したい」──住民の「願い」の多くは、経済成長ではなく、地域のコミュニティの中で生きる豊かさを重視するものだった。

それからというものの、ランサローテ島では、文化的なアイデンティティでもある塩やワインの生産を生かした「スローな」観光が行われ、住民の生活が守られる傾向にあるという。

“周縁化された”郊外の町、イタリア・モリーゼで生まれた脱成長の動き

次に紹介された事例は、イタリアのMolice(モリーゼ)という町だ。この町について、イタリアで古くから伝わるジョーク(都市伝説)がある。それは「Molise non esiste(モリーゼは実は存在しない)」というものだ。

これは、モリーゼがイタリアの中で非常に小さく、人口も少ない地方であるため、国内外であまり知られていない、または話題に上がることが少ないということから生まれたものだ。もちろん冗談ではあるものの、モリーゼが南イタリアでも「周縁」の場所にあることを表す言い回しとなっている。

モリーゼの景色|Image via Shutterstock

モリーゼでは、住民は農業に携わるほか、オリーブオイルやソーセージの加工をして生計を立てている人も多い。この町をフィールドに脱成長の実践を研究するDonatella Gasparro(ドナテッラ・ガスパロ)氏はそれを「subsistence pallarel economy(生きるに必要な最低限のパラレル経済)」と呼んでいた。

住民たちは、貨幣経済に基づいた生産・消費もしているのだが、ときに物々交換なども行う。彼らの経済は「利益を生み出すこと」ではなく「生きるための自身の消費と物資の共有」を軸に回っているのだという。

現在の経済のあり方では、郊外の町は「都市モデルを目指す必要がある」かのように語られることもある。しかし、モリーゼの人々は、人口が減り、店が次々と閉まる中で、自分たちの生活を守るための経済を展開しているのだ。会場では、脱成長は自然な動きとして、郊外の町から起こってくるのではないかという意見も飛び交った。

資源が生む争い。「公正な移行」は本当に実現するのか

また、気候変動と経済成長を考える際に、重要な切り口となるのが「公正な移行(Just Transition)」だ。公正な移行とは「すべてのステークホルダーにとって公正かつ平等な方法により、気候変動や生物多様性などの環境問題の解決に取り組むこと」を指す。そしてそのような移行の公平性が特に問われるのが、「資源」の分野であると言えるだろう。

人類は古くから資源をめぐって争いを繰り返してきた。現在も資源の誤った使われ方や分配のされ方によって、環境負荷が増大したり、一部のコミュニティにしわ寄せがいったりと、世界中で不調和が起きている。ここでは、より環境負荷の小さい世界を目指す過程で引き起こされたジレンマを、論点として紹介したい。

DXに不可欠な資源「レアアース」をめぐるジレンマ

「サステナブルな社会への移行が必要」そのこと自体には多くの人が賛成するだろう。そして、そのためにはDXを加速させる必要があると言われることも多い。まずは現場でデータを収集し、保存しておかなればならないのだが、そのために必要なものはなんだろうか。それは「新しい資源」(クリティカル・ロー・マテリアル)である。

レアアースはその一例だ。レアアースは高度な電子機器やテクノロジーに使用され、私たちが日頃使っているスマートフォンやPCのディスプレイの色彩を鮮明にするパーツや、永久磁石として使用されている。また、電気自動車やハイブリッドカーのモーター、風力発電のジェネレーター内の永久磁石にもレアアースが使用されている。

レアアースの需要は、グリーンテクノロジーと高度な電子機器の市場拡大に伴い、急速に増加した。特に、クリーンエネルギーへの移行や電気自動車の普及が需要を後押ししているという。2050年までには、特定のレアアース元素に対する需要が現在の供給能力を大幅に上回ると予想されるほどだ。

しかし、レアアースは加工のプロセスが複雑であり、使用後分離させるのに高いコストがかかる。現在は1%しかリサイクルされていない状況だ。

そして、そんなレアアースの採掘には問題がある。採掘過程で放出される有害な化学物質が土壌や水源を汚染することがあり、さらには生態系や地域住民の健康問題を引き起こす可能性があるのだ。

グリーンなDXに不可欠な資源であるレアアース。しかしその採掘や加工の過程で、新たな環境負荷が生まれ、動物や人間の居住環境が犠牲になっている。レアアースの採掘現場(鉱山)の近くに住む住民たちの人権はどうなるのか──そうした社会的側面の議論は十分ではないと言われている。

レアアースの採掘現場|Image via Shutterstock

新しいエネルギー導入の“代償”を誰が背負うのか?地域住民を置き去りしないために

そうしたコンフリクトが起きるのは、もちろん資源の採掘現場だけではない。新しいエネルギーの導入も然りだ。

現在、多くの国で化石燃料からの脱却が叫ばれている。そのためには、新たにダムを作ったり、風車を設置したりする必要があるのだが、そうした発電装置の建設も「特定の人々を犠牲にした上で」行われることが多い。例えばダムを建設する場合、ダムの近くに住んでいる人々は立ち退きを余儀なくされることもある。

そのように現場を置き去りにしないためには、どのようなことが意識されるべきなのだろうか。メキシコでダムが建設された際には、地域住民によるワークショップが開催され、「このようなエネルギーがほしい」という住民の要望が明文化された。そうしてコミュニティベースで建設における優先順位をつけていくことで、どのようにエネルギーの移行を行っていくのかがクリアになってくるのだという。

さらに、地域によっては過去に行われた同様の開発などが「トラウマ」となっている場合もある。新規で立ち上がるプロジェクトはそうしたトラウマを癒すものであるべきだという意見も寄せられた。そのためにもまず、プロジェクトのステークホルダーが手を加える土地の文化や生態系について深い知見を持っている必要があるだろう。

「自然を犠牲にした経済成長」から脱するために、そもそも人間と自然の境界を捉え直す?マサイ族の自然観

これほどに複雑な問題が多く存在することを踏まえると、単に「経済成長モデル」の切り替えが解決につながるのか、疑問に感じる人も多いだろう。最後に紹介するのは、価値観のより根源的な部分から変革が必要だと思わされたセッションだ。

セッションに登壇したのは、マサイ族と生活をともにしながら研究をする人類学者Mara Goldman(マラ・ゴールドマン)氏と、自身がマサイ族であるEdward Loure(エドワード・ロウア)氏。そのセッションの目的は「私たちがなにを『自然』とし、なにを『文化』とするか」を深掘りすることによって、すべての環境へのリスペクトの示し方を省みるというものだった。プレゼンテーションの中には、大きな問題提起があった。それは「私たち人間と自然は完全に切り分けられるものなのだろうか?」というものだ。

マサイ族をはじめとするアフリカ大陸の部族は、ヨーロッパ諸国による植民地化の過程で、住んでいる場所を追われるという経験をした。そして彼らがかつて住んでいた場所には国境が引かれたり、自然保護区になったりと、恣意的な区分けがされた。

「もとの場所には戻れなくなったけど、別の場所に家を用意したよ」

大自然とともに暮らしていたアフリカの部族の人々は、家を追い出されると入植者によってそう言われることもあったという。

しかし、マサイ族の人々の解釈では、彼らは「家」という建物に住んでいたわけではなかった。彼らは、家の下に生えていた「草」やその下の「土」に住んでいたのであり、周囲にいる動物とともに暮らしていた。マサイ族の人々の感覚では、人間は自然の一部として存在しており、人間だけで「家」という建物の中で生きている感覚がなかったのだ。しかし、それを別の言語に翻訳して伝えることは難しいのだという。

Image via Shutterstock

そうしたマサイ族の「自然観」に触れると、自分たち人間以外のものを「自然」と相対化し、それを自由に資源として使ったり、傷つけたと思えば、急に保護をしたり……そうした人間の行動に違和感を覚えるようになる。

「自然を守る」への違和感。人間と人間以外に切り分ける二元論から脱却するために

脱成長とは「自然を守る」ためのものなのか。人間は自然を「保護する」主体なのだろうか。もっと根本的な姿勢の変革が必要なように思えてならない。

編集後記

現地でGrowth vs Climate会議に参加して、率直に感じ取ったのは発表者や聴衆の「迷い」だった。世界を見渡したときに気候危機がまったなしの状況であることは理解している。しかし、一人ひとりの人間が暮らす日常を見てみると、そこには例えば物価高騰があり、公共サービスの欠陥があり、オーバーツーリズムの問題がある。生活している場所で紛争や戦争が起こっているという人々もいる。

そんな中、気候変動と経済成長のバランスをどのように取るのか。それは結果的に「ケースバイケース」としか言いようがない。

そして現場の景色一つ一つに目を向けると、脱成長かグリーン成長かといった経済成長のベクトルだけではなく、何が「サステナブル」なのかということについても、段々と迷いが出てくる。ヨーロッパではいま各国でいかにスピーディーに再生可能エネルギーへ移行できるかということが議論されているが、それはどの場所を使って、どのような資源を使って実現するのだろうか。そこで新しく投入される資源と、生活を脅される動物や人々のことを考えたら、場合によっては「再エネ移行をやめた方が良い」という結論もありえるだろう。

脱成長はアンタゴニズム(敵対性)を生むか?

会場で出た質問が大きな議論となった。脱成長の考え方が特定の「敵」を想定するとしたら、それは従来の「経済成長思考」でも、しばしば相反する考え方として引き合いに出される「グリーン成長」でもなく、そうした「複雑性」なのかもしれない。しかも、それを潰そうとするのではなく、複雑さをそのままに問題に取り組む忍耐強さが求められる。

Growth vs Climate会議は、参加者それぞれが「答え」ではなく、複雑性と向き合う新しい「レンズ」を持ち帰った場だったように思う。

※1 昭和産業と日清オイリオがオリーブオイル値上げ…地中海沿岸で干ばつ、オリーブが歴史的不作
※2 気候変動は「未知の領域」に 10カ月連続で月別の最高気温を更新
【参照サイト】Growth vs Climate Conference
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