まちの歴史は酒場に刻まれる?アイルランドのパブが、ARで“生けるミュージアム”に

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人々の笑い声、絶え間なく演奏される音楽、黒々としたギネスビール……アイルランドのパブ、通称「アイリッシュパブ」は、人々が出会い、交流する、国のアイコン的存在だ。首都ダブリンはもちろん、どんな町にもパブは必ずあり、それ自体が人々の生活に根付く欠かせない文化なのだ。

しかし近年、多くのアイリッシュパブが、電気代や食料費をはじめとした運営コストの高騰により、経営難に陥っている。このままだと、次世代にパブを残していくのは難しいという窮地に立たされているのだ。

そこで、オランダのビール会社・ハイネケンがダブリンの地元団体のLePub、Publicis Dublinと共に企画したのが、AR(拡張現実)技術を使ってアイリッシュパブをミュージアムにしてしまう、「Pub Museums」というユニークな取り組みだ。

訪れた人は、パブの入り口にあるQRコードをスマートフォンやタブレットでスキャン。すると、パブの店内にある絵画や写真、装飾品が画面上で動き出し、その歴史を語りかけたり、解説が表示されたりするのだ。

最初の「ミュージアム」に選ばれたのは、国内でも特に古い歴史を誇る3つのパブだ。1つ目は、多くのライターが集う「文学パブ」としても知られる、ダブリンのToners Pub。2つ目は、その発祥は紀元900年ごろと言われるリムリックのMother Macs Public Hous、そして3つ目は、欧州、また世界最古とも言われるアスローンのSean’s Bar。

こうしたパブの店内には、長い歴史の中でそこにあり続けた絵画や装飾品などが豊富にある。Pub Museumsでは、ARを用いてこれらのパブや歴史を展示することで、訪れた人々がその物語に触れられるようになっている。

文学カフェの様子

スマートフォンをスキャンすると見える画像のイメージ。羽ペンや手紙が動き、音声ガイドが流れる。

この取り組みは、一見下火になっているパブに付加価値をつけ、新たな人々を呼び込もうとする取り組みにも思える。しかしこの企画の目的は、むしろ国の制度を上手に活用することでパブを経済的に、それも継続的に支える基盤を作ることにある。

日本を含む多くの国では、美術館や博物館、城などといった、文化・歴史的に重要とされる施設は、助成金が出ていたり、税金面で優遇されていたりと公共のサポートを受けていることが多い。アイルランドも例に漏れず、国内の美術館などが政府から受けられる支援は大きいのだという。

一方でアイリッシュパブも、そうした施設に負けず劣らず、人々が集うコミュニティとなり、地域の歴史の一部として文化を醸成してきた。Mother Macsのオーナー、Mike McMahon氏の言葉を借りれば、アイリッシュパブはまさに「生きたミュージアム」なのだ。

Pub Museumsはこうした財政支援の仕組みに目をつけ、パブを公式なミュージアムに認定できるようにすることで、国からの補助を受けることを目的としている。ダブリンを拠点とする歴史学者のGerry Farrell氏は、アイリッシュパブの価値について、こう語る。

「(アイリッシュパブのような)数世紀にわたって同じ機能を維持する建物やビジネスは、そうそうあるものではありません。歴史的なパブを訪ねることは、私たち自身の過去に立ち戻ることです。それは、人々が集まり、話し、飲み食いし、歌い、遊び、口説き、恋をし、事件やその日の出来事を議論をし、スポーツの勝利を祝い、悲しみを忘れた場所です」

企画は3つのパブから始まったが、自身のパブにも歴史的価値があると感じている運営者は、ウェブサイトから申請するとパブを審査に出すことができる。

筆者がダブリンに住んでいたころには、昼間からパブに集う人々や、夜となれば何曜日でも賑わうパブの様子を目にするのが日常だった。フットボールの試合となれば、普段から混んでいるパブにさらに多くの人が集まり、ごったがえす中で自国のチームを熱狂的に応援していた光景を思い出す。現地の人のお酒好きには内心呆れながらも、そんなパブの賑わいや雰囲気が好きだった。

守り抜いていくべき文化は、そうした私たちの何気ない日常の中にこそあるのかもしれない。今は特別だと感じていないけれど、次の世代に伝えていきたい大事なものはなんだろう。そんなことを考えさせられる企画だ。

【参照サイト】How Heineken is using AR to help preserve Irish pubs
【参照サイト】Pub Museums
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