社会には「枠」がある。会社員、学生といった社会的肩書や、性別、年齢などの属性──そうした枠は、ステレオタイプを生み、時に人を縛ることもある。だが、枠があることによって、安心感が生まれる場合もあるのだ。
例えば、医師に診断された「発達障害」という枠がある。そこに当てはまる人々は、国が用意する福祉支援を受けられる可能性が高くなる。また、障害の特徴や当人の特性、必要なサポートの内容が明確になっていれば、周囲からの合理的な配慮を受けやすくもなるだろう。適切な支援を受け、少しでも自分が生きやすい環境を整えられたり、「障害があってもこうした配慮があれば大丈夫なんだ」と周囲に理解してもらえたりすることは、「ここにありのまま存在しても良い」と思えることにつながる。ひいては、自分の居場所があるという安心感を生むのではないだろうか。
発達障害の人と対になる枠組みは、いわゆる「健常者」になるだろう。だが、その2つの枠のどちらにも当てはまらない人がいる。それが、発達障害の「グレーゾーン」と呼ばれる人々だ。

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発達障害グレーゾーンとはいわゆる健常者(定型発達)と発達障害のある人の中間層を示す新たな枠組みのことだ。発達障害の特性の一部を持ちながらもその診断基準をすべて満たすわけではないために「障害があるとは言い切れない」、つまり健常者と障害者という2つの枠の境目を生きている人を意味する。
そんな境目に生きる人々を包括して指し示すグレーゾーンという概念は、「枠なき枠」と言えるだろう。だが、この「枠なき枠」は社会的に広く認められているものではない。
グレーゾーンは、障害者という枠には当てはまらない。つまり、世間的には「自分で社会生活を何とかすることができるだろう」とみなされていることになる。しかし実際は、発達特性が原因となる困りごとを抱えている。そうした特性により社会適合が難しい人も多くいる。
実際、筆者はそのグレーゾーンとして生きてきたが、生まれ持った発達特性によりうまく社会適合できるわけでもなく、障害者としての福祉サービスを利用できるわけでもなかった。
グレーゾーンという「枠なき枠」は、「自分(あるいは対象者)は2つの属性の狭間にいる」「どちらの枠組みにも属さない存在である」という曖昧な状況に説明をつけ、納得させるものだ。曖昧な状態に名前がつくことで得られる安堵感はあるかもしれないが、グレーゾーンに当てはまるからといって具体的なサポートが得られるわけではない。
発達障害の診断を受けるのとは違って、グレーゾーンの場合、「枠を与えられること」が「ありのまま存在しても良い」という安心感ではなく「支援を受けたいのに受けられない」「“普通に”生きたいのに生きられない」という不安定な感覚につながってしまう。
健常者・障害者どちらの枠にもはまれず「宙に浮いた存在である」状態は、グレーゾーンに該当する人たちが抱えている生きづらさを助長してしまっているのかもしれない。

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枠をつくること、枠から外れること
「枠」から外れることが生きづらさを生む例は、発達障害グレーゾーンに限ったものではない。
例えば、LGBTQ+における「+」の概念である。LGBTは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を、そしてQはクエスチョニング(あるいはクィア)の頭文字を取ったものとされており、「+」は、これらに当てはまらない他のセクシュアルマイノリティを表すとされている。彼らは、いわゆるマジョリティである男女の枠、より包括的に性を捉えるために認知が進むLGBTQという枠、そのさらに外、つまり「枠外の枠」「枠なき枠の中」にいることになるのではなかろうか。
政府など公的機関の資料では、LGBTについての記載はあるものの、その他のセクシュアリティに関しては「性的マイノリティ」とまとめられていることがある。LにもGにもBにもTにも当てはまらないことにより、「どんなセクシュアリティなのか」という理解が進みづらかったり、制度的な恩恵を受けられなかったりする場合もあるだろう。
枠が形成される過程には、概念が認知されること、言語化されること(場合によっては法律などシステムの中に組み込まれること)のプロセスがある。プロセスが進めば進むほど、枠外の存在だったものにも枠が与えられていく。ただ、その新たな枠が形成されることによって、新たに枠外に出される存在も生まれてしまう。
枠から外れる人を作らないようにするには、すべての人を包括しきれるまで新たな枠を作成し続けることが必要となるだろう。しかし、それには相当な時間がかかる。また、どんなに枠を細分化したところでそこからはみ出てしまう人はでてきてしまうはずだ。
「大きな枠の外」にいる生きづらさを減らすために
では、「(大きな)枠の外にいる」という疎外感やそれに伴う生きづらさを少しでも減らすためにはどうすればいいか。私は、個人が「居場所探しの旅」に出ることが解決策の一つになると思う。つまり「自分が自分らしくいられる」と感じられるような、他の(小さな)いくつもの枠の中に身を置くことが重要なのだ。
枠、つまり居場所は、会社や趣味のサークル、自助グループや地域のコミュニティ、SNSでもなんでも良い。自分が自分であることに難しさを感じる必要がない場所、自分の特性が活かせる場所、同じ悩みを共有できる場所……いくつもの小さな枠が重なった部分は「そのままでいられる」「自分の力が発揮できる」「受け入れられている」などのように多方面での安心感が得られる、自分のための新たな枠組みとなるかもしれない。
枠外の存在であることの難しさを言語化し、それを周囲に伝えていくこと。そして、一人ひとりが、自分の居場所を蜘蛛の巣のように増やしてつなげていくこと。この両方を通じて、それぞれがありのままに生きられるようになるのではないだろうか。
著者プロフィール:金山祐介(かなやま・ゆうすけ)
オーストラリア・台湾での海外経験を経て、主に福祉・教育分野に携わる。50冊以上の心理系書物や実体験から来る受容性の高い文章作成が得意。プライベートでは国内外での卓球や自転車旅、ギターやオカリナの路上ライブなど、持前の行動力で多方面で活動している。様々な人と関わること、新しい物事や考えに触れるのが好き。
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Edited by Yuka Kihara