ドライヤーのスイッチを入れると、約1,200W(ワット)。電気ケトルでお湯を沸かすと、約1,000W。これらを同時に使えば、あっという間に2,000Wを超える。
もし、私たちが生活のあらゆる場面で消費するエネルギーの合計上限が「2,000W」に設定されていたとしたら、どんな暮らしになるだろうか。
「そんな生活、我慢ばかりで耐えられない」と思うかもしれない。しかし、スイス・チューリッヒで2015年から10年にわたり続けられているある社会実験は、それが決して「我慢」だけの話ではないことを証明しようとしている。
チューリッヒ北部に位置する住宅複合施設「Hunziker Areal(フンジカー・エリア)」を運営する住宅協同組合「mehr als wohnen(和訳:ただ住むだけでなく)」が掲げるのは、「2,000W社会」という極めて具体的な数値目標だ。これは1990年代後半にチューリッヒ連邦工科大学の研究者が提唱した概念で、地球環境の限界内で豊かに暮らすための指標である。
ここでの暮らしは、精神論的な「エコ」とは一線を画す。建物は地域熱供給や高効率な断熱材によって、スイスの一般的な住宅と比較してエネルギー消費量を約4分の1に抑制。住民の移動手段に関しては、原則として自家用車の保有を認めず、カーシェアリングや公共交通機関の利用を前提として設計されている。
その結果、住民の移動によるCO2排出量は年間1人あたりわずか0.13トンまで減少した。これはチューリッヒ平均(約0.8トン)を劇的に下回る数字だ(※)。住民が毎日歯を食いしばって努力した結果ではない。インフラとルールという「ハードウェア」が整っていれば、人は自然と低炭素な選択をする。その事実をデータが如実に示している。
この実験のもう一つの特徴は、居住スペースのあり方だ。1人あたりの専有面積は平均34平方メートルと、スイス全国平均の45平方メートルよりコンパクトに設計されている(※)。
しかし、それを「狭い」と感じさせない仕掛けがある。充実した共有のワークショップ、ゲストルーム、イベントスペースだ。個人の所有スペースを少し削り、その分をコミュニティで共有する。それにより、個人では持ち得ないような豊かな空間や設備を利用できるようになるのだ。
一方で、この10年間で「システムでカバーできない領域」の難しさも浮き彫りになった。建物や地域の移動といったインフラが整った分野では目標を達成しつつあるが、個人の選択に委ねられる「食」や「長距離移動」では苦戦が続いている。
特に飛行機の利用は深刻だ。2024年のデータによると、住民の航空機利用によるCO2排出量は1人あたり約1.6トンに達し、他のすべての交通手段による排出量の合計の8倍以上となった。空港へのアクセスが良いチューリッヒにおいて、休暇を海外で過ごすという習慣を変えることは、省エネ住宅に住む意識の高い人々にとっても容易ではない。また、肉食を減らすという食習慣の変容も、期待されたほどのスピードでは進まなかった。
フンジカー・エリアの実験が私たちに教えてくれるのは、システムの重要性だろう。「環境のために我慢しよう」と個人の道徳に訴えかけるだけでは、限界がある。しかし、都市インフラや建築基準といったシステム側からアプローチすれば、居住者は快適さを損なうことなく、劇的なエネルギー削減を実現できる。飛行機利用などの課題は残るものの、少なくとも住居と日常の移動に関しては、解決策のプロトタイプは完成しつつあると言えるだろう。
抽象的なスローガンではなく「2,000W」という具体的な数値目標を持ち、個人の努力ではなくシステムのデザインで解決を目指す。このスイスの実験は、これからの都市が目指すべき一つの設計図を提示してくれているようだ。
※ Living within planetary limits: Zurich’s 2,000-watt experiment
【参照サイト】Hunziker Areal
【参照サイト】mehr als wohnen
【参照サイト】Living within planetary limits: Zurich’s 2,000-watt experiment
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