「グーみたいな奴がいて、チョキみたいな奴もいて、パーみたいな奴もいる 誰が一番強いか答えを知ってる奴はいるか?」
『宇宙兄弟』(小山宙哉作/講談社)の主人公、南波六太(以下、ムッタ)の名言だ。不器用で、しかし優しい心を持つムッタをはじめ、宇宙兄弟は目標にむかって挑み続ける登場人物に心を打たれるマンガだ。その『宇宙兄弟』の重要な登場人物、伊東せりか(以下、せりか)をご存じだろうか。
せりかは宇宙飛行士かつ医師として聡明な女性で、好奇心旺盛、食欲も旺盛で、ムッタを同期として明るく支えてきた。彼女がこのような困難なキャリアステップに挑み続ける脳裏には、筋萎縮性側索硬化症(以下、ALS)という病を患い、亡くなった父親の姿がいつもあるのだった。
ALSとは運動ニューロン(運動神経細胞)が侵される病で、筋肉が少しずつ動かしづらくなり、症状が進むと自発呼吸が困難になる。15年前は「完全犯罪」と例えられるほどの難病で、原因はまだ解明されていない。
せりかはALSの研究者として宇宙で実験することを決意し、念願の宇宙飛行士になったのち、尊敬していた天文学者、シャロンに出会う。シャロンもまたALSという診断が下されていたが、彼女の明るく振舞う様子にせりかは胸を打たれ、ALSの薬を生み出す使命感を新たにする。その後せりかはさまざまな困難を乗り越え、ついに27巻で宇宙での実験を成功させるのだ。ALSを取り巻く『宇宙兄弟』のシーンは、こちらから読むことができる。
この『宇宙兄弟』の世界を現実にすべく、ALSの完治をめざして立ち上がった基金がある。株式会社コルクが始めた「せりか基金」だ。株式会社コルクは、『宇宙兄弟』の作者・小山宙哉氏のほかにも『ドラゴン桜』の作者・三田紀房氏、『働きマン』の作者・安野モヨコ氏を抱えるエージェント会社。どれもおもしろさの中に、読みながら社会への見方が少し変わっていくような、考えさせられるポイントが散りばめられたマンガばかりだ。
今回は株式会社コルクの取締役副社長でせりか基金の代表を務める黒川久里子さんに、せりか基金設立の背景と、マンガが社会課題を解決できる可能性について伺った。
話者プロフィール:黒川 久里子(くろかわ くりす)
株式会社コルク取締役副社長。聖心女子大学卒業後キヤノンマーケティングジャパン(株)に入社、大手法人営業部に所属。その後、NY生活、大手外資系企業に就職、法人営業を経て、2015年8月にコルクに入社。自社ECの責任者を務め、2017年よりせりか基金を立ち上げた。
第三者だからできること
Q.どういった経緯でせりか基金を立ち上げましたか?
ALSを『宇宙兄弟』で取り上げることになって、作家の小山さんと当時の担当編集者がALS患者の方に取材をしていました。その中で、ALS患者の方から「助けてほしい」という声があって。何ができるか考えていた時に、小山さんのファンクラブでせりかを応援してくれる人がいることがわかりました。ちょうど2年前に社内で話し合い、最初の立ち上げメンバーは有志で8人集まりました。
ALSは難病なので、ちょっと募金するだけでは全然足りません。ちゃんとやるなら検討しなければいけないことがたくさんありました。どんな形態の支援があるのか、集めたお金は誰に渡せばいいのか。患者さんにお金が渡るのも重要なことで、患者さんの車いす代や介護士代など、患者さんの生活の支えになるような支援の仕方も考えられました。ですが話し合いの結果、ALSの治療薬開発に大きく近づく実験を成功させたせりかのような研究者を現実に後押しできるような、ALSの治療研究費に助成しようと決めました。
研究って30年後に薬ができる、早ければ10年、といったスパンの世界です。そこまで長期的に支援していく覚悟があるのか、葛藤はありました。それに私たちはALS患者ではない、第三者。普通こういった募金を促す活動は患者さんや患者さんの家族が中心になるんですよね。だから、少しの迷いもありました。
でも患者さんの団体にこのコンセプトについて話をしにいったら「患者さんが」賛成してくれたんです。「治りたくない患者さんは1人もいないんだから」「病気で生活に困っている人ではない人にこそやってもらいたい」って。それで、せりか基金を始めることにしました。
知り合いで、頑張っている人を応援するような気持ち
Q.実際にどのくらい集まりましたか?
2017年の第1回目の助成金は250万円を1人と300万円を1人に、去年の第2回目の助成金は200万円を2人と300万円を1人に授与させて頂きました。今年も助成を予定しています。助成金をお渡しする授賞式を毎年末に開催していて、参加してくださる方は研究者や、患者さん、介護士の方、せりか基金に賛同してくださった川崎フロンターレの方や、チャリティグッズなどでコラボしている企業をはじめとした多くの異業種の方々です。
助成金授賞式はアカデミー賞をイメージにしていて、参加者の方々に「華やかな恰好でお越しください」とご案内しているんです。趣旨的にはTシャツでもいいんですけど、参加いただく皆さんにもちょっと気取れる機会を楽しみにしていてもらいたいと思っています。せりか基金をきっかけに、たくさんの人がきれいな恰好をして、善意でつながっているのはいいなと思いましたね。
Q.どのような属性の方からの寄付がありましたか?
最初は募金に慣れている患者さんの団体でした。そして『宇宙兄弟』のファンですね。最初の1週間で300万円集まったんです。そこから少しずつ広がって、せりか基金とコラボしている企業の方や、ALSを知らない人も、テレビなどでALSが取り上げられていると、インターネットで「ALS」と検索して、せりか基金に募金してくれているようです。
Q.1週間で300万円!街頭募金ではない、マンガならではの訴求力があるのでしょうか。
多くの方々がせりかというキャラクターを応援してくれているんだなというのを感じます。募金って、誰かを助けたい気持ちがあっても実際にどこに募金したらいいか分からないじゃないですか。ですがマンガがあると、どれだけの困難を乗り越えたか知っている、ストーリーのキャラに夢を託すことができるんです。次の「せりか」がこれからもどんどんでてきてほしいから募金したい、というような。
日本人って「偽善」をきらいますよね。なので寄付に対して少しハードルがあるんだと思います。でもコンテンツの力って自分の心が入り込むところにあるので、読者にとっては知らない人にお金を払うのではなく自分が知る頑張っている人を応援している感覚なんだと思います。心と行動がなめらかにつながっているというか。実際聞いてみると他のところで寄付をしたことがなく、今回初めて寄付をした、という人が多かったです。これは『宇宙兄弟』のストーリーの力なんだと思います。
企業とのコラボでせりかを思い出すポイントが増やせる
Q.せりかを応援する歌「あと一歩」もそういった流れで生まれたんでしょうか。
いえ、あれはせりか基金ができる1年くらい前に、せりかへの応援ソングとして2人組音楽ユニットのカサリンチュさんに作っていただいたものです。今はせりか基金の講演があったら必ず流しています。ほかにも「よなよなエール」さんとのコラボや、Web上でパーツを動かしてデザインしたアクセサリーを売れる「monomy」さんとコラボし、収益の一部をせりか基金に寄付できるような取り組みを行なっています。
このアクセサリーづくりを今後、目の動きだけでできるようにしたい、とmonomyさんにお願いしています。ALSの方にも作ってもらって、少しでも自立できるようになったらいいと思って。社長さんも良いですねと言ってくれているので、今後の展開が楽しみです。
ALS患者さんってそんなに周りにいないじゃないですか。マンガを読んだときは胸を打たれても日常の中で自分が病気じゃないから忘れてしまいますよね。こういうコラボで話題になることによって、『宇宙兄弟』を読んだ時の感情を思い出してもらえることがいいのだと思います。
Q.中長期スパンで、せりか基金様の中での目指されている目標を教えてください。
ALSの病気ってボーダレスなんです。性別や人種、住んでいる地域や食べているものに関わらず、10万人を集めると1人はALSになるだろうと言われています。なのでどこの国にも困っている患者さんがいて、研究者もいるんです。
特に日本では、呼吸器に保険が利くためALSの研究が進んでいると言われています。アメリカだと呼吸器は月100万円払える人でないと使えません。各国の様々な事情はありますが、日本だけで研究を進められたらいいとは思っていなくて、力を結集できたらいいなと思っています。
10月くらいに助成対象の研究員を募集するのですが、アメリカの研究者も一緒に選考対象にできたらいいなと思います。課題は、助成した後の経過もこちらが追うことができて、しっかり成果を報告してくれる人を選ぶ基準の設定、そして無償で研究者の審査に協力してくれる人の選定です。言葉の壁があるので難しいですが、ここがクリアできれば海外展開をやりたいなと思っています。
『宇宙兄弟』は海外で翻訳版の出版もされています。マンガをきっかけにせりか基金を知ってもらったり、その逆にこのせりか基金をきっかけに海外の人にマンガを読んでもらったりすれば良いなと思います。
Q.コルクさんは宇宙兄弟以外にも社会の様々な課題に対して切り込むような漫画を扱われていますね。
物語の力って時に人生をかえると思います。私たちは現実での生活にも良い影響を与えて、明日に向けてまた一歩踏み出せるような作品を作りたいと思っています。
せりか基金のほかにも、教育改革が行われているなかで、高校生に向けて、勉強に対するモチベーションを上げ主体的に学習に取り組むメソッドを広げる「リアルドラゴン桜プロジェクト」なども始まっています。ソーシャルグッドはお金にならないイメージがありますが、私はそう思いません。マンガの力を現実に拡げていくプロジェクトをこれからもやっていきたいです。
インタビュー後記
宇宙兄弟と聞いて、ALSについてのマンガだ、と思う人は少ないだろう。それでも、「そういえば、」と思い出すくらいにはせりかが何と戦っていたのか、そのシーンを読んだ時に、「せりかが頑張っているから私も頑張らなきゃな」と思った感情は覚えている。それが現実に「次のせりか」がいるというのだから、パワーをもらった恩返しに「頑張ってほしい!」と思うのは自然な流れだ。
マンガのイメージとしてしばらく読んでいると親に怒られたり、先生に見つからないか少し後ろめたさを感じながら友達と交換したり、という記憶がある。しかし今になって思い返すと、大人も子供も夢中になって読み込み、登場人物と一心同体になることでここまで分かりやすくストーリーが心に刻まれる媒体はなかなかないのではないかと思う。
マンガを媒体として簡単に知らなかった世界を見て、新しい視点に気づき、学び、そこから現実に一歩、行動に移せる。そんな導線を自然な形で生み出していくコルクの取り組みに、ジブンゴト化して読者として一緒に「伴走」していきたい、そんなことを思うインタビューだった。