”ほんまもんの自分”を呼び覚ます。自然と人とともに生きる「百森留学」

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「今は、選択肢が多すぎる社会だと感じています。私自身、そこに生き辛さを感じていました。」

インターネットのおかげで、私たちは多くのことを知ることができるようになった。ニュースや情報だけでなく、SNSを通して様々な人のライフスタイルや価値観なども簡単に知ることができる。そして、多様性の尊重が謳われ、ますます多様な生き方が認められつつある今、「自分らしさ」を求められることも増えた。

しかし、必ずしもすべての人がその答えにたどり着けるわけではない。「自分らしさ」が見つからずにもがいたり、分からずに自信を失ったりする人も少なくないのではないだろうか──。

複雑化する社会のなかで生きづらさを覚える人々が増える今、子どもたちに田舎暮らしの機会を提供しているのが、株式会社「ほんまもん」だ。京都の最北端・久多に本拠地を構えるほんまもんは、来年度から新拠点・岡山県西粟倉村で小中学生を受け入れる山村留学プログラム「百森留学」を開始する。

「自分らしさよりも人間らしさ。人間らしく生きていたら自分らしさは見えてくる」

そう話すのは、ほんまもんの「口うるさいお姉さん」と自らを称する秋月佐耶子さん。現代の子どもたちについて思うこと、活動にかける想いなどを伺った。

物事のありがたみや「いただきます」の意味を伝えたい

京都市内から車で一時間、人口70人で平均年齢80歳の小さな集落・久多。自然環境が厳しく四季が豊かなこの場所には、古き良き日本の暮らしが今も残る。モノを売って収入を得る生活ではなく、昔からの知恵や地域資源を活かした生活が営まれている場所だ。

ほんまもん

冬の京都・久多

「そこにあるもの」を活かした暮らし──それを当たり前のように実践するおじいちゃん、おばあちゃんにほれ込み、秋月さんは久多に移住をした。そんな彼女は、ほんまもんが立ち上がった経緯についてこう話す。

「代表の奥出は、自身が子育てをするにあたり、なかなか口だけでは伝わりきらない“物事のありがたみ”や、“いただきますの意味”を、実体験を通して子どもに伝えようと久多に移住しました。自ら肉をさばいたり野菜を育てたりすることで、『残さず食べる』大切さを感じてほしいと思ったそうです。」

「それから農家民宿として田舎暮らしの教育プログラムを始めた奥出は、各地からやってきた様々な人を受け入れました。そのなかでも特に、都会で自信を失ってやってきた子どもが久多で自信を取り戻していく様子を目の当たりにし、その変化に感動したと言います。そんな、彼の“もっと多くの子どもたちに田舎の生活を経験してほしい”という想いから、子どもの教育事業に特化した『ほんまもん』が立ち上がりました。」

久多に本拠を置くほんまもんは、新たな拠点をつくった。来年度から本格的に始動する「百森留学」の舞台・岡山県の西粟倉村だ。ここでは、都会に住む小中学生が一年間親元を離れ、寄宿舎で共同生活を行う。平日は、西粟倉の小中学校に通い、帰宅後はかまどでご飯を炊いたり薪を割ったり……。土日も自然に囲まれながら、田舎ならではの仕事をするそうだ。さらに、子どもたちは、自分で世話した鶏を自らの手でさばく体験もするという。

「自然のなかでたくさんの“命”に囲まれた生活をすることで、一つ一つの命に想いを馳せることができるようになると思います。たとえば、留学を終え、地元に帰ってからスーパーで買い物をするとき、ここに並んでいる鶏や牛はどういう生育環境で育ったんだろう、これにも命があったんだ……というように。一歳でも若いときにモノの生産過程を知ることで、命の大切さや感謝、そして自分が生きていることの意味を感じることができると考えています。」

協同生活をすることで気付く「頼り頼られること」

百森留学では一年間、村内のフィールドやローカルベンチャーを活用したプログラムや協同生活を通して、子どもたちは様々な人や生き物、植物に出会う。都会ではなかなかできない経験を通じて、日々多様な価値観に触れるのだ。未来を生き抜く力を身に着けてほしい──そんな想いで子どもたちとかかわるほんまもんは、活動のなかでどのようなことを大切にしているのだろうか。

「“人間らしい生活”に重きを置いていて、なかでも『協同生活と食』を大事にしています。たとえば、誰かと一緒に生活をしていると、意外と一人でできないことがあると気付きます。何か重いものを持って運ぶとき、木を切り倒すとき……声を掛け合って助け合わなければ、前に進めないことがたくさんあります。」

ほんまもん

協力しながら木を切っている様子

「田舎で協同生活をすることで、『一人では生きていけない』と感じる場面に直面しますが、都会で暮らしていると、そういった場面は少なくなる気がします。自動で部屋を掃除してくれる掃除機や、食器を洗ってくれる洗浄機──便利なものに囲まれていると、『一人で生きていける』と感じる人も多いのではないでしょうか。仕事で同僚と助け合うことはあっても、頼ったり頼られたりすることを日常生活で自然にできる人は、あまりいないように思います。」

だからこそ、ここでは協同生活を通して「頼り頼られること」の大切さが伝えられている。分からないことは聞けばいいし、誰かが分からないことは教えてあげる。困っている子がいたら助ける。そんな思いやりの精神が大切にされているのだ。

「何かを任せられたり頼られたりするようになることで、『自分はここに居ていいんだ』という感情につながります。ここ数年、自己肯定感を上げようという言葉も聞かれるようになりましたが、『頼り頼られ』が当たり前のように実践されているこの場所では、もはや自己肯定感という言葉は存在しません。」

もう一つ、ほんまもんの活動のキーワードである「食」についてはどのように考えているのだろうか。

「私たちは、食べるものを大事にすることが『自分を大事にすること』につながっていると考えています。インスタントラーメンが3分で完成し、おにぎりやパンが手軽にコンビニで買えてしまう今、食べるまでの時間も、食べ終わるまでの時間もあっという間になりました。しかし同時に、『待つ』という行為をすることがなくなり、食べ物だけでなく、私たちの頭もインスタントになっているように感じます。」

ほんまもん

みんなで食卓を囲んでの食事

「そういう訳で、ここでの生活では、お米から麹や味噌などの調味料、野菜まで、すべて自分たちの手でつくります。味噌は半年、1年程経たないと食べられませんし、ご飯もかまどで炊くから2時間くらい待たないとできません。かなり手間がかかっているのですが、その時間を省くことはしません。『美味しい』という味覚を通じて、時間の使い方の大切さを伝える──それが心と体をつなぐ一番の方法ではないかと感じているからです。」

「長い時間をかけてつくられたものが素晴らしいという感覚」を取り戻したい

“インスタントな生活”が一般的であるなか、「時間をかける」ことの大切さを伝えるほんまもん。しかし、時間がかけられていないのは食だけではない。今、すべての物事に時間がかけられなくなってしまったと秋月さんは感じている。

「私たちが野菜を育てるとき、肥料を使うことが一般的になりました。そうすることで、早く、大きく育ってくれるからです。しかし実は、肥料を多く与えられて見た目が立派になった野菜でも、早く水っぽくなって栄養がなくなるなど、中身は十分に育っていなくて腐りやすいこともあります。」

「同様に、材木も成長剤を使って短時間で生育されるようになりましたが、それによって昔ほど良いものができなくなりました。たとえば、かつて久多の材木は、厳しい生育環境のなかでじっくり年を重ねたため、年輪が密で強度が強く、高値で取引されていました。それは、平等院鳳凰堂の材木としても使用されるほど。しかし今、昔のように50年かけてつくられる材木は稀になり、丈夫で良いものができにくくなったんです。」

長い時間をかけてつくられたものが素晴らしいという感覚が、ほとんど失われてしまった──そう話す秋月さんは、今、私たちが「あまりにも生活と自然を切り離しすぎている」と続ける。

「養老孟子さんは、『都会は、“ああすればこうなる”という方程式で物事が動いていく。だけど、自然と子どもはああしても、こうならない』とおっしゃっています。『野菜に肥料をあげれば大きくなる』という方程式は、必ずしも正しいわけではない。でも今、それが子どもにも求められていると感じるんですよね。」

「勉強勉強と頭ばかりの成長を求められた子どもたちのなかには、表面上は成長していても、心が追いついていない子もいると思います。五感を使った、“生きるための経験”が足りていない。そうなると、いざ失敗したときに心と体を壊してしまったり、些細なことで心を折ってしまったりすると思います。」

「せっかく育った稲が獣に食べられてしまったり、台風で収穫間近のリンゴが全部落ちてしまったり……自然は人間の思うようにいきません。それと同じで私たちも、生きていると思うようにならないことがたくさんあります。自然のなかで生きる経験を通して、生きる厳しさを肌で体感する。今の子どもたちには、そんなことが大事なのではないかと感じているんです。」

“ほんまもんの自分”は、自分のなかにある

田舎での生活を通し、時間をかけることや自然の本来の姿に触れる大切さを伝えているほんまもん。その活動の軸にあるのが「ほんまもんの自分を呼び戻したい」という言葉。この一文には、一体どのような想いが込められているのだろうか。

「今の社会って、自分らしさが求められすぎている気がします。自分のことを考えることは良いことであると思いますが、一方で、“らしさ”を求めすぎるあまり、人より秀でたものや趣味など、“何か”見つけなければならないと焦っている人も少なくない気がします。個性がないといけない、と感じている人もいるのではないでしょうか。」

「私も、自分らしさが見つからず悩んでいた一人でしたが、久多に住んでみて考え方が変わりました。それは、久多のおばあちゃん、おじいちゃんたちが、私のことを“一人の人間”としてみてくれたからです。『個性があるからここに居ていい、こういうことができるから素晴らしい』ではなく、ただ私が畑仕事をしているだけで、『あんたはえらいなあ』と、存在を認めてくれました。そのときに感じたのが、わざわざ探さなくても、誰にだって“ほんまもんの自分”はあるということでした。」

ほんまもん

子どもたちが巻き寿しをつくっているところ

自分らしさを求められることが多い今の社会。しかし、それを探すのは簡単ではないし、労力が必要。であれば、無理に見つけようとしたり、とらわれたりしなくていいのではないか──秋月さんは、こう続ける。

「人間らしい暮らしをしていたら、自然と“自分らしさ”はできてくる。だから、私は自分らしさの前に“人間らしさ”の方が大事だと思います。“ほんまもんの自分”は、自分のなかにある──そんな、私が大人になってから気付いたことを、今の子どもたちには少しでも早いうちに気付いてほしい。そういう感覚を養う経験をしてほしいと思っています。」

立場が一番弱い者に合わせた、みんなが生きやすい社会に

来年度から本格的にスタートする百森留学。秋月さんは、どのようなプログラムにしていきたいと考えているのだろうか。

「以前久多で受け入れていた定時制の高校生や、今年の夏に開催した西粟倉での短期プログラム参加者のなかには、都会での生活や学校環境に馴染めない子が少なくありませんでした。そのような子どもたちの多くは、田舎に来ると本当にイキイキしていて……。ここでは、これまで学校で“問題児”と言われてきた子が、一日中田植えをしたり、朝5時まで起きていた子が、朝5時から薪割をしたりするようになったんです。プランターのなかで芽を出さなかった子たちが、地面に植えられた途端に芽を出して勢いよく伸びていく……そんなイメージかもしれません。」

ほんまもん

薪割りの様子

「そういう子たちが、プログラムの参加を通して『将来の目標を見つけた』と言ってくれたり、ボランティアスタッフとしてプログラムの運営にかかわってくれるようになったりしたことは、とても嬉しかったです。最近では、高校3年生の女の子が、プログラムで林業体験をしたことをきっかけに、林業大学に行くことにしたと報告してくれました。都会でくすぶっていた子たちの将来に光をさすことができていることが何より嬉しく、これからもそのお手伝いができたらと思っています。」

最後に、ほんまもんがこれから描いていきたい社会について伺った。

「立場が一番弱い者に基準を合わせた社会です。たとえば今、学校で“できない子”とされ、自信を失っている子どもたちがいます。そのような子たちのなかには、暗記が求められる勉強は苦手だけど、集中力が求められるモノづくりなどにおいては能力を持っている子もいます。すべての子どもたちの可能性や才能が活かされた、みんなにとって生きやすい社会をつくるためには、ただ一人一人の存在を受け入れ、理解して待つ──そんなことが必要ではないかと感じています。」

編集後記

「高速道路じゃなくて地道(下道)でいい。地道を走りながら、立ち止まって寄り道したっていいんです。」

取材中、秋月さんがおっしゃっていた言葉だ。今でこそ、自由な生き方が尊重されるようになり、「自分にとっての幸せは何か」と自身に問いかける人は増えてはいるかもしれない。だが、“いい”成績をとり、“いい”大学に行き、“いい”企業に就職することが良しとされる風潮は今もある。それが、いいか悪いかということではなく、そんな“高速道路”に乗ろうとしても乗れずに挫折してしまう人たちの受け皿が、今の社会にはほとんどないと感じる。

秋月さんはこの言葉を通して、自分らしさ、いや、「ほんまもんの自分」への近道は実は地道なのだというメッセージを伝えているのだ。

「未来を生き抜く“ほんまもんの力”を身につけてもらうこと」

ほんまもんが掲げるこのモットーのとおり、子どもたちは自然のなかで誰かと助け合って生きる経験を通して、生きている限り避けられない困難や試練を乗り越えるための、「生き抜く術」を身に着けていくのだろう。

【参照サイト】ほんまもん 百森留学

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