【特集】幸せなお金のありかたって、なんだろう?今こそ問い直す、暮らしと社会の前提
お金は、ただの紙切れでも数字でもない。生き方や価値観、人間関係、社会制度にまで影響を及ぼす「見えざる力」だ。便利で、時に残酷で、そして人間的なこの仕組みは、いつから私たちの当たり前になったのだろう。自己責任が求められる働き方、そして「お金がない」ことを理由に後回しにされる福祉や環境対策──議論は世界中で交わされているが、日々の暮らしの中でお金の本質を見つめ直す機会は少ない。だからこそ今、問いたい。「お金」とは何か、そして私たちはそれとどう向き合っていけるのか。本特集では、経済だけでなく、文化人類学や哲学、コミュニティの現場など多様な視点からお金の姿を捉え直す。価値の物差しを少し傾けてみた先に、より自由でしなやかな世界が見えてくることを願って。
急激なインフレによる「生活費の危機」、孤立が深刻化する「メンタルヘルスの危機」、そして待ったなしの「気候危機」。こうした複数の「危機」に揺れるイギリス社会では、多くの人々が慢性的な不安を抱えている。
失業手当や住宅手当、介護サービスなど既存の社会保障制度が綻びを見せる中、すべての市民に無条件で現金を給付する「ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)」が、再び現実的な選択肢として強い光を放っている。このムーブメントを草の根から牽引するのが、市民による分散型ネットワーク「UBI Lab Network」だ。彼らはなぜ今、ベーシックインカムを訴えるのか。
「パンデミック禍で多くの人々が政府の休業補償を受けましたが、これは事実上、一種のベーシックインカムでした。誰もが経済的危機に陥る可能性があることを社会が実感し、すべての人にセーフティネットが必要だという考えが広がったのです」
そう語るのは、活動の中心人物の一人であるLoius Strappazzon(ルイス・ストラッパゾン)氏。本記事では、イギリス・マンチェスターの実験で見えてきたユニバーサル・ベーシックインカムの価値に迫っていきたい。
話者プロフィール:Loius Strappazzon(ルイス・ストラッパゾン)
歴史と政治の学士号、そして政治経済学の修士号を取得。現在、UBI Lab Networkのコーディネーションに携わっており、UBI Lab Manchesterの共同議長を務めている。また、非営利団体Equal Rightの理事も務めている。UBI Lab Networkは、国レベルおよび地域レベル、さらにはコミュニティの中でユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)を探求し、その実現可能性を示すことを目的として活動。資金的に実現可能で、持続可能で、実行可能なかたちのベーシックインカムの開発を目指している。
なぜベーシックインカムは「無条件」でなければならないのか
UBIが提案する新しいセーフティネット。その核心は、給付が「無条件」であることだ。なぜ、条件を付けてはならないのか。人々は与えられたお金を浪費してしまうのではないか。この根源的な問いに対し、ルイス氏はUBIの根底にある哲学を明かす。
「私たちは、ときにユニバーサル・ベーシックインカムを『アンコンディショナル(無条件の)・ベーシックインカム』と呼びます。その核心は、人々は誰よりも自分自身のニーズをよく知っている、という信頼にあります。現在の福祉制度は、人々を管理し、何にお金を使うべきかを外部が判断します。しかし、UBIは、人々が自らの人生の専門家であると認めるのです」
この「信頼」は、人々の行動にも大きな影響を与えるという。
「もし、今月500ポンド(約10万円)もらえても、来月もらえるか分からなければ、人は長期的な計画を立てられません。『どうせ一時的なものだ』と考え、その場しのぎの消費に走ってしまうかもしれない。しかし、毎月、無条件で受け取れるという安心感が土台にあれば、人々は初めて将来を見据え、教育やスキルアップ、あるいは貯蓄といった、より良い未来のための選択ができるようになります」
世界中で行われてきた数々の実証実験が、この考えを裏付けている。人々は給付金のほとんどを食費や家賃といった生活必需品に使い、浪費されるという懸念は杞憂に終わることが多い。無条件の給付は、単なる給付制度や設計の議論ではない。それは、人々を縛るスティグマや不安から解放し、個人の尊厳と自己決定権を社会の中心に据え直すという、思想的な転換なのだ。

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月32万円で「予防する福祉」を目指すマンチェスターの社会実験
この「信頼」と「自己決定権」という哲学は、マンチェスターで具体的な社会実験として形になろうとしている。ルイス氏は、その詳細をこう説明する。
「私たちが提案しているのは、200人の対象者に対し、月1,600ポンド(約32万円)を1〜2年間給付する計画です。対象者は、ホームレス状態にある人々を支援する『ハウジング・ファースト』や、ホームレスになるリスクの高い若者を支援するプログラムの参加者から選びます。このパイロット版の最大の目的は、ホームレス化や心身の健康悪化といった社会問題が深刻化する前の『予防』にあります」
この計画では、経済状況の変化だけでなく、参加者の心身の健康やウェルビーイングがどう改善するか、さらには警察や病院の利用頻度がどう変わるかといった点も測定される。ちなみに、月1,600ポンドという一見高額な設定には、この社会実験の工夫が隠されている。
現在の英国の社会保障制度では、UBIのような新しい収入があると、その分、今までもらっていた住宅手当などが減らされてしまうからだ。せっかくベーシックインカムを受け取っても、他の手当が減額され、手元に残るお金があまり増えないのでは、UBI本来の効果を測ることができない。政府の協力が得られず、給付が削減されてしまうことが、イギリスにおけるUBIの実験を困難にしている。
そこで、あらかじめ税金や他の手当で差し引かれてしまう分を見越して、この1,600ポンドという金額が設定された。これはいわば、受給者の手元に確実に意味のある金額が残るようにするための、現実的な知恵なのだ。

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問題が起きてから対処する事後対応型の社会保障から、問題の発生を未然に防ぐ予防型の社会保障を目指すUBI。しかし、その道のりは平坦ではない。このイギリスの挑戦から、同じような社会課題を抱える他国は何を学べるだろうか。ルイス氏はこう語る。
「まず重要なのは、UBIのようなアイデアを試験的に導入しやすい環境を作ることです。同時に、パイロット版の設計は極めて慎重に行わなければなりません。著名なUBI研究者であるガイ・スタンディング氏が言うように『失敗したUBIパイロット版は、成功したパイロット版よりもはるかに大きな悪影響を及ぼす』のです。一度『失敗』の烙印を押されてしまえば、そのアイデア自体が否定されかねません。だからこそ、何を検証し、どう評価するのかを徹底的に考え抜く必要があります」
さらに、資金調達の壁も大きい。アメリカでは民間慈善家が数億円規模の資金を提供することも珍しくないが、イギリスでは政府が主導すべきだという考えが根強い。この文化の違いが、市民活動ベースでの実験を難しくしているという。日本で同様の取り組みを進める上でも、こうした資金調達の課題は避けて通れないだろう。
壁の先に描く未来。UBIがもたらす「時間」という本当の豊かさ
こうした現実的な課題を乗り越えた先に、ベーシックインカムはどのような社会をもたらすのだろうか。ルイス氏が見据えるのは、経済的な安定のさらに先にある、より本質的な豊かさだ。
「UBIがもたらす最大の贈り物は『時間』です。経済的な安定は、人々に精神的な余裕を与えます」ルイス氏はそう語る。日々の支払いに追われる生活から解放されたとき、人々は初めて、より長期的な視点で自らの人生や社会を見つめ直すことができる。
「そうなれば、もっと地域活動にボランティアとして参加したり、隣人の子どもの面倒を見たりする時間が生まれるでしょう。実際に過去のパイロット版では、親が労働時間を少し減らし、その分、子どもと向き合う時間が増えたという報告もあります。それは、これまで経済的に評価されてこなかったケアの価値を社会が認め、より思いやりのあるコミュニティを育むことにつながります」

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自由に使える時間が増えることは、単なる消費の拡大を意味しない。むしろ、逆の可能性すらあるとルイス氏は示唆する。
「人々は、目先の安さだけで商品を選ぶのではなく、より質の高い、環境に配慮した製品を選ぶ余裕が生まれるかもしれません。これは、持続可能な経済への移行を市民の側から後押しすることにもなります」
UBIが究極的に目指すのは、不平等が是正された社会だ。
「不平等は社会全体に悪影響を及ぼします。ベーシックインカムは、社会の底辺にいる人々にチャンスを与え、不安定な状況にある中間層を安定させる。人々がより幸せで、成功を実感し、人生を楽しむ機会を得るための土台なのです」
人々が時間と心の余裕を取り戻すことで、自らの仕事や、政治、そしてコミュニティについて深く考えるようになる。それは「働かなくてもいい社会」ではない。「働く理由を選べる社会」への転換だ。ベーシックインカムは、福祉の拡張というより、経済そのもののリフレーミングとも言えるだろう。
編集後記
ベーシックインカムと聞くと、多くの人は「お金を配ること」の是非や財源問題に思考が向きがちだ。しかし、ルイス氏へのインタビューを通して見えてきたのは、そうした議論がUBIの本質的な価値を見落としてしまう危うさだった。
ルイス氏が繰り返し語ったのは、UBIによってうまれる「時間」と「精神的余裕」。それは、人々を単なる消費者や労働力としてではなく、尊厳ある個人として信頼するところから始まる。経済的な不安から解放されたとき、人は初めて、自分の人生を長期的に計画し、家族やコミュニティといった、より大きなものに目を向ける余裕が生まれるのかもしれない。
これは、同じく雇用の不安や孤独を抱える日本社会にとっても大きな示唆を与えてくれるだろう。自治体単位での社会実験は可能か。「お金とは何か」「誰に、どう配るべきか」を再考するきっかけとして、UBI Labの挑戦は多くのヒントを与えてくれるはずだ。彼らの取り組みは、これまでの「成長」を中心とした経済から、「安心」を中心とした経済へと、私たちの価値観をシフトさせる可能性を秘めている。
【参照サイト】UBI Lab Network
【参照サイト】UBI Lab Manchester
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