【特集】幸せなお金のありかたって、なんだろう?今こそ問い直す、暮らしと社会の前提

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【特集】幸せなお金のありかたって、なんだろう?今こそ問い直す、暮らしと社会の前提

お金は、ただの紙切れでも数字でもない。生き方や価値観、人間関係、社会制度にまで影響を及ぼす「見えざる力」だ。便利で、時に残酷で、そして人間的なこの仕組みは、いつから私たちの当たり前になったのだろう。自己責任が求められる働き方、そして「お金がない」ことを理由に後回しにされる福祉や環境対策──議論は世界中で交わされているが、日々の暮らしの中でお金の本質を見つめ直す機会は少ない。だからこそ今、問いたい。「お金」とは何か、そして私たちはそれとどう向き合っていけるのか。本特集では、経済だけでなく、文化人類学や哲学、コミュニティの現場など多様な視点からお金の姿を捉え直す。価値の物差しを少し傾けてみた先に、より自由でしなやかな世界が見えてくることを願って。

私たちは日々、気づかぬうちに「お金」と対話している。

朝の目覚まし時計から、夜にスマートフォンでスクロールする「ほしいものリスト」まで。気づけば私たちの生活は、「お金を稼ぐ」「お金を使う」「お金が足りない」といった思考に、囲まれやすくなっている。

多くの大都市では街に出ても、そこに「ただいる」ことさえ難しい。公園にはベンチがなく、カフェに入らなければ腰を下ろせない。時間を過ごすには、何かを「買う」ことが、いつしか前提になっている。

「ここにいていいよ。ただし、対価を払えるなら」──まるで、そう語りかけられているかのようだ。

そんな都市の風景の中で、私たちは「お金」との関係だけでなく、生きる場所や時間の使い方までも問われているのかもしれない。

「お金とは何か」。この根源的な問いを、私たちは本当に自分の言葉で答えようとしたことはあるだろうか。交換手段?労働の対価?生活を豊かにするもの?それとも、自由と不安を同時に与える、見えない鎖?

今回、私たちはこの根源的な問いに立ち戻りたい。資本主義(とりわけ新自由主義)、気候危機、分断、そして希望。「お金」というフィルターを通して見える世界を、少しだけ違う角度から、紐解いていきたい。

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私たちを縛る「経済合理性」の息苦しさ

いつからだろうか。私たちの社会を「経済合理性」という空気が覆い尽くすようになったのは。

教育は「将来稼げる人材」を育てるための投資となり、アートは「経済効果」でその価値を問われ、人とのつながりさえ「人脈」という資産として語られるようになった。あらゆるものが数値化され、「測定可能な価値」へと置き換えられていく。その中で私たちは、「役に立つ人間か」という無言の問いに常に晒されているような、そんな息苦しさを感じることはないだろうか。

この価値観はある日突然、制度の変更によって生まれたわけではない。それは、過去数十年かけて私たちの内面に深く浸透してきた「社会の空気」そのものである。その源流には、1980年代以降に世界を席巻した新自由主義(ネオリベラリズム)的な思想がある。「自己責任」「小さな政府」「市場原理の徹底」といった言葉と共に、私たちの価値観は変容してきたのだ。

こうした思想は、「競争こそが成長を促す」「個人の選択が社会を動かす」という前提に立っている。そのため、公教育や医療、福祉といった公共の領域も、効率性や採算性で評価されるようになっていった。かつては無償だったものに価格がつけられ、市場の論理に乗らない活動は非効率として周縁に追いやられがちである。こうして、「役に立つかどうか」「儲かるかどうか」が、物事の判断軸として徐々に当たり前になっていったのだ。

「お金は中立な道具」という幻想の起源

そうした考え方を実社会の経済システムとして成立させ、日常の選択や人間関係にまで深く染み渡らせてきた媒体こそが「お金」だった。「お金」はしばしば、ただの交換手段、つまり中立的な道具だと捉えられてきた。

しかし、本当にそうだろうか。

歴史を紐解けば、お金は常に特定の権力や価値観と結びついてきた。近代経済学が紡いだお金の物語は、「努力すれば報われる」「成果は報酬に比例する」という常識を私たちに植え付けた。だが、その常識は、生まれ持った環境や社会構造の不平等を覆い隠してはいないだろうか。お金という道具は、それ自体が競争や効率を内包するイデオロギーとしての側面を持っているのかもしれない。

生活の隅々まで経済効率が入り込み、ケアや愛情、学びといった、本来お金で測れないはずの領域までが商品化されていく。この社会で感じる息苦しさや生きづらさの正体は、あらゆるものが「経済化」されてしまうことへの、私たちの根源的な違和感なのかもしれない。

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気候危機、福祉、ケア……社会に必要なものほど「お金がない」のはなぜか?

そしてこの違和感は個人の感受性の問題ではなく、社会の中で本当に大切な営みが、なぜかいつも後回しにされてしまうという現実に確かにつながっている。

気候危機対策、十分な公教育、手厚い福祉、そしてケア。現代社会での息苦しさは、効率や利益を優先するあまり、社会に不可欠な営みを切り捨ててきた。これらは、なぜいつも「お金がない」「財源が足りない」という壁にぶつかってしまうのだろうか(※1)

地球の持続可能性という、私たちの生存基盤そのものよりも、目先の国家予算や短期的な経済成長が優先される。この構造の裏には、現代の会計システムや経済指標、たとえばGDPや財政赤字の基準は経済活動の一部を的確に捉える一方で、社会や環境の本質的な価値を見落とすという重大な盲点もはらんでいる、という指摘があるのだ(※2)

数字が映し出すもの、見えなくするもの

私たちは、GDP(国内総生産)やROI(投資利益率)といった数字で社会の豊かさを測ることに慣れてしまった。これらの指標は、市場で取引されるモノやサービスの価値を可視化する一方で、森がもたらす清浄な空気や、地域コミュニティが育む安心感、家族による無償のケアといった、「価格のつかない価値」を覆い隠してしまう。

企業の社会的責任(CSR)ESG投資は、本質的な変革なのだろうか。それとも、利益追求というOSはそのままに、社会貢献というアプリケーションを追加しただけなのだろうか。サステナビリティは利益を最大化するための新たな戦略の一つに留まってしまい、「サステナビリティは儲からない」という言説すら根深くある。

「お金があるからこそできること」には、確かに力がある。けれど同時に、「お金があるからこそ歪んでしまうこと」もある。たとえば、人材が奪い合いになり、豊かな地域に偏っていくこと。たとえば、土地の価値が吊り上がり、地元の人が暮らせなくなること。華やかさの裏にあるその歪みから、私たちは目をそらしてはならない(※3, ※4)

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「正しさ」より「生き延びる」ためのお金?分断される価値観とリアリティ

こうした構造的な歪みは、私たちの日常生活における「選択」の場面にも、リアルな分断となって現れる。

「環境に配慮したオーガニック製品を選ぼう」「ファストファッションは買わないで」

こうした「倫理的な消費」を呼びかける声も、私たちは日々どこかで耳にしている。しかし、明日の生活費を優先せざるを得ない人々にとって、それはあまりに遠い理想に聞こえてしまうのも、無理はないのかもしれない。

特売の輸入野菜と、価格が倍以上する地元の有機野菜。その選択肢の前で葛藤するとき、問われているのは「個人の意識の高さ」だけなのだろうか。

「意識の高い選択」や「倫理的な消費」ができるのは、経済的・時間的な余裕を持つ一部の人々だけなのかもしれない。だとしたら、倫理的であることそれ自体が、まるで特権のように扱われるこの社会構造こそが、目を向けるべき先なのかもしれない。これは個人の意識の問題ではなく、そもそも「選択肢」が社会構造によって不均衡に分配され、制限されているという現実の表れなのだ。

こうした現実は、社会に深刻な分断を生む。「環境問題へのアクションなんて、お金のある人の道楽だ」という冷笑と、「なぜわかってくれないのか」というもどかしさを抱える人。同じ社会に生きながら、まったく異なるリアリティを生きる人々がお互いを理解できず、対立してしまう。お金をめぐるリアリティの違いが、価値観そのものを引き裂いてしまうのである。

貨幣経済の先へ。「足りない」のはお金?それとも、まなざし?

問題の根源に立ち返ろう。お金は一体誰が、何のために作り出し、どのように社会を巡っているのだろうか。その流れは、本当に「経済を回す」ための最善の方法なのだろうか。

お金の正体は、人と人との「信頼」を数値化したものだ、という見方がある。一方で、それは未来の資源を先食いする「負債」であり、私たちの尽きない「欲望」の象徴だとも言えるだろう。

もし、いま私たちに足りないものがあるとしたら、それは本当にお金そのものなのだろうか。それとも、もっと広い世界を見て「これでもいいんだ」と思えるまなざしや、心の支えとなる人との繋がりだろうか。

「経済を回す」から「関係を育てる」へ

けれど、希望の兆しは世界中にある。世界各地で、貨幣経済のオルタナティブが広がりつつある。

特定の地域やコミュニティでのみ使える「地域通貨」。労働やスキルを対価なしで交換し合う「時間銀行(タイムバンク)」。見返りを求めずに与え合う「ギフトエコノミー」。こうした試みは、単なる経済活動ではなく、効率や成長とは異なる価値観を取り戻すための社会実験である。それは、「経済を回す」ことを目的とすることから私たちを解放し、人と人、人と自然との「関係を育てる」という喜びを、社会の中心に据え直そうとする動きである。

こうした新しい経済圏を育むために必要なのは、テクノロジーや巧みな制度だけではない。互いへの信頼、共有できる価値観、そして顔の見える豊かな人間関係だ。お金の呪縛から少しだけ自由になったとき、私たちの「豊かさ」の尺度は、きっともっとカラフルで、多様なものに変わっていくだろう。

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お金の再定義から始まる、私たち自身の再定義

お金と向き合う。それは、単に経済システムや金融政策の変更を求めるといった話ではない。

それは、私たち一人ひとりが、何を本当に価値あるものとみなし、誰とどのようにつながり、どんな社会で生きたいのかを、根本から問い直す旅路でもある。

役に立つかではなく、愛おしいと思えるかどうかで世界を見る。所有するのではなく、分かち合うことで豊かさを感じる。競争するのではなく、支え合うことで未来を築く。

お金という「物語」を、私たち自身の手で書き換えていくこと。それは、他の誰でもない「私たち」自身の生きる物語を、より自由に、より創造的に紡ぎ直していく旅路そのもの。この特集を通じて、皆さんと一緒に考え、探していけたら幸いだ。

※1 How GDP Negatively Affects Climate Change Policy
※2 Public goods for economic development
※3 Displaced by Design
※4 Local Economic Consequences of Foreign Direct Investment in Democracies and Autocracies

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Featured image created by Midjourney
Edited by Erika Tomiyama

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