『腐る経済』の先に見出した、発酵研究所というあり方。タルマーリーが語る「心の育て方」とは

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豊かな森に恵まれ「杉のまち」とも言われる鳥取県智頭(ちづ)町。ここで一棟貸しのホテルとカフェ「タルマーリー」を営むのが、渡邉格さんと麻里子さんだ。2013年に出版された『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』で、パンづくりの修行から気づいた、働けど作り手に恵みが行き渡らない経済の歪みと、野生の菌に学ぶ生き方を提示したことで話題を呼んだ。

それから12年。パン屋として創業したタルマーリーは、宿とカフェに少し姿を変えた。そんな今、彼らが向き合うのは、マクロな経済システム以前の、もっとミクロで根源的な「生命」そのものだ。

時を経て、彼らの思想はどう深化したのか。タルマーリーのパンづくりを支える「死なない菌」の生態には、現代を生きる私たちが失いかけた「生命力」と「感性」を取り戻すヒントが隠されていた。システム論の先で彼らが見出した、日々の豊かさと小さな変革を探求しながら生きるための処方箋とは。

2025年の秋。新たな拠点づくりを進めるお二人のもとを訪れ、話を聞いた。

話者プロフィール:渡邉格(わたなべ・いたる)

東京都東大和市出身。23歳で政治経済学者の父とハンガリーに滞在。食と農に興味を持ち、25歳で千葉大学園芸学部に入学。「有機農業と地域通貨」をテーマに卒論を書く。農産物流通会社に就職後、 31歳でパン修業に入る。タルマーリー開業後、野生の菌によるパンづくりを追求し麹菌採取に目覚める。また、10代でパンクバンドに費やしたエネルギーが起業後はDIY精神に発展。大工仕事を覚え、可能な限り自力で店の改装を行う。現在はパン・ビール・ピザの職人、コーヒー焙煎も手掛ける。著書に『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』(講談社)、共著に「菌の声を聴け」(ミシマ社)、「撤退論」(晶文社)。「腐る経済」が韓国でベストセラーに。台湾、中国、フランスでも翻訳され、国内外で講演を行う。

話者プロフィール:渡邉麻里子(わたなべ・まりこ)

東京都世田谷区出身。幼少期から田舎暮らしに憧れ、環境問題に危機感を持ち、東京農工大学農学部で環境人文学を専攻。日本、USA、NZの農家や環境教育現場で研修し、食から環境問題に取組む道を模索。卒論テーマは「女性が農村で生きる可能性」。農産物流通会社に就職後、農産加工場に転職し、販売や広報を担当。タルマーリーではマネージメントを担う傍ら、1女1男の母として田舎での”職人的”子育てを模索。​2020年から地域の女性経営者と協同し、イタリアのアルベルゴ・ディ・フーゾを手本に、地域資源活用型・長期滞在型の観光と町づくりを目指して活動。共著に「菌の声を聴け」(ミシマ社)、撤退論(晶文社)。地方分散型社会の実現、事業経営、子育て、町づくりをテーマに、国内外で講演を行う。

システム論だけでは、変化を起こせない?

2013年に出版された『腐る経済』。自然環境に負荷を与えない原材料を、環境コストも含めて正しい価格で買い、自らの技術を使って正しい価格で売る。そうして人々の食費、つまりは生活費が上がれば、それをベースに決まる給料も自ずと上がっていくはず──パンづくりの修行での違和感とマルクスの視座から行き着いたそんな循環の思想は、多くの人々に気づきを与えた。

しかし格さんは今、穏やかに、自身の変化についてこう語る。

格さん「腐る経済というものが我々の芯にはあるけれども、今はもうこれを目的とはしていないのです」

その背景には、この10数年で加速した社会の変化があるという。

格さん「社会が株主資本主義に変わっていったのだと私は捉えています。現代の経済では、稼いだお金はほとんどが株主のところに行ってしまう仕組みであるということです」

カフェで取材に応えてくださった格さんと麻里子さん|筆者撮影

企業が利益を上げても、それが従業員の給料に還元されず、株主への配当に回っていく。設備投資も削減され、現場で働く人々の環境は改善されない。生活費が高騰しても、給料は上がらない。そんな現実が『腐る経済』の描いた循環を阻んだ。

身近でマクロなシステムを変えようとしても、社会全体の「目的」が金銭的な利益の最大化に固定されていては、大きな存在に淘汰され、個人の豊かさを育むことは難しくなる。それは、私たち一人ひとりを取り巻く「環境」そのものが劣化していることを意味するのだ。

では、大きなシステムを変えにくい世の中で、私たちはどう生きればいいのだろうか。そのヒントは、タルマーリーのパンづくりの原点・菌のミクロな世界に立ち返ると見えてきた。

菌に学ぶ生命力。身近な環境との豊かな関係づくりへ

タルマーリーのパンやビールを唯一無二たらしめているのが、野生の菌の存在だ。格さんは、大量生産型のパンづくりで用いられる、単一の菌を無菌状態で培養する純粋培養菌(ドライイーストなど)と、多様な菌が共存する環境で育つタルマーリーの野生の菌の違いをこう説明する。

格さん「純粋培養菌は、単一の菌を取り出して、他の菌が混じらないようにして培養したもの。これには生命力がすごく弱いという問題があります。分裂しかできないので、結局同質のものがずっと続き、環境変化に対して菌が進化しないのです」

環境から切り離されて培養した菌は、環境変化に対応できず、進化もしない。一方、雑菌も含めた多様な菌がせめぎ合う豊かな環境で育つ野生の菌は、1年間寝かせてもビールとしてしっかり発酵し、仕込んで2週間冷蔵庫に入れてもパン生地となるほど、たくましい生命力を獲得する。

ここから見えてくるのは、「生命と環境を切り離しちゃいけないってこと」だと格さんは語る。

生命力とは、豊かな「環境」との絶え間ない相互作用の中ではじめて育まれる。これは人間社会も同じだ。都市で考えればお金、地方で考えれば人との繋がりといった、自分の外にある仕組みとのめぐりが滞れば、私たちの生命力も弱まってしまう。

格さん「一番重要なのは、生命力が高ければ複数の菌がいても棲み分けをすること。棲み分けができることは、他の菌に優しいということです」

生命力が高い状態とは、「他者を受け入れ、共生せずとも共存はできる状態」とでも言えようか。私たちが今、他者に対して不寛容になりがちだとしても、それは個の性格の問題ではなく、環境が劣化している、または自身の生命力が弱まる環境に身を置いてしまっているサインかもしれない。

大きなシステムを変える以前に、まずは自分の身の回りが生命力を高めるような場所になっているか、にアンテナを張ること。これが、複雑な課題が複雑に絡む現代において必要な視点かもしれない。

感性を研ぎ澄ます「発酵研究所」としての実践へ

では、小さな環境を変えて個人が生命力を高めるには、どうすればいいのか。その具体的な方法は「身体感覚を取り戻すこと」だという。

タルマーリーは近年、「パン屋」から「智頭タルマーリー発酵研究所」へとそのあり方を変えつつある。その背景には、マーケティングへの強い違和感があったそう。市場競争の中では、互いをよく知らず、顧客と提供者という無機質な関係性に固定されてしまうことも多い。麻里子さんは、以前の葛藤をこう振り返る。

麻里子さん「もう、マーケティングをしたくないなと思ったんです。商品を作って売るというよりは、『こんなのができました』という研究成果なんですよね。その過程も含めて共有できる人たち、買いたい人に届けるようなことがしたい」

通り沿いに立つ建物

智頭タルマーリー発酵研究所として新たに加わる建物。1階にビール工場を準備中|筆者撮影

1階のビール造りのスペースには重い機材が並ぶ。すべて格さん自ら運び込んだ|筆者撮影

研究所への移行は、単なる商品の売り買い(モノ)ではなく、パンやビールを作る研究のプロセスや思想を共有し、対等な関係性を育むため(コト)の選択だった。そして、目先の売上ではなく自分たちの本質と向き合う、修行に近い学びの実践でもあるのだ。

格さん「日本には、かつて身体で考える力を養う方法がありました。それが『型』なんです。決まったことをずっと続けることで、身体が全てを覚えていくんですね。そうすると、エネルギーの消費量が抑えられた分、それを創造性に回すことができる」

麻里子さん「自分で体を動かして、これをやればいいんだなっていう全体のイメージを身体の中に落とし込んでいく。 これがすごく重要なんです」

朝起きて顔を洗うときに悩まないように、身体が覚えている動きは思考を必要としない。一見、非効率に見える反復作業や身体を動かす経験は、実は身の回りで創造的な変化を生み出すための土台となるのだ。

自らの文脈で解釈する「心」の育て方

「修行の本当の目的は、技術の習得以上に、心を広げることだと思っています」と、格さんは語る。では、心はどうすれば育つのか。

格さん「五感を通じた刺激から入ってくる情報を脳で取り込んで、それを一度心に落とす。これを単にイメージするだけでは“無意識”で、自分の文脈で解釈することで、“意識ある心”にできる。しかしその解釈のためには、経験と知識が必要になるのです」

生み出した余白に情報を流し込むだけでは、心は「無意識」の状態にある。それを、自身の経験や知識と照らし合わせ、「自分ごと」として解釈するプロセスを経て、はじめて「意識的な心」が生まれるという。

格さんが研究の場として選んだ古民家。ここにいると心が穏やかになるという|筆者撮影

新たなパン工房には、古民家の面影がしっかりと残る|筆者撮影

情報過多の現代、私たちは多くのことを知っているようで、深いところまでは知らない。他人事として済ませてしまうことも多いだろう。環境問題がどこか他人事になってしまうのも、目の前にはいない他者や気候変動という目に見えないものへの想像と、それを解釈する力を身につける難しさが理由の一つであるかもしれない。

そんな解釈する力の土台となるのが、日々の気分や感情の状態であるという。

格さん「意識的な心を生むためにすごく重要なことは、日々の感情をいかに平坦にしていくか、ということです。これが心身の修行になるんですね」

論理や理性で感情を抑え込むのではなく、身体を動かし、整えることで、感情の波は穏やかになる。先述のような毎日の型(ルーティーン)がある人は、決まった流れで身体を動かし、感情が揺れ動きにくくなる。暮らし方が安定することが、安定した心、つまり解釈しようと働きかける土台を作るのだ。

計画しすぎず、動いてみる。身体が答えを知っているから

『腐る経済』というマクロなシステム論から描かれ始めたタルマーリーの探求は、12年の時を経て、個人の身体や心というミクロな領域にも深く潜っていった。

社会システムを変えようと焦る前に、まずは自分の生命力を高め、感性を研ぎ澄ますことから始める。その先に、自分は「どう生きたいのか」という根源的な目的が見えてくる。

「『計画してから動かなきゃ』と思い込みすぎ。動いてから考えるんだよ」と麻里子さんは言う。格さんも「『行動は感情に先立つ』という言葉があるぐらいなのでね」と応じた。

頭で完璧な計画を立ててから動くのではない。まず動いてみたって良いのだ。行動することで身体が感じ、感情が生まれ、思考や言葉が後からついてくる。

だから、答えのない時代を生き抜くためのヒントは、遠い未来の計画図や、誰かが作ったシステムの中には見つからないかもしれない。今ここにある自分の身体感覚に委ねて、小さな環境から変えてみる。その小さな実践の積み重ねが、大きな変化への道筋になっていくはずなのだ。

身近な場でありながら「菌」からの学びが至る所に反映される新たな工房は、まさに小さな変革の象徴のように映った|筆者撮影

【参照サイト】タルマーリー
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