【特集】私たちの「働く」は、どんな社会を再生産しているのか?
私たちが人生の多くの時間を費やす「働く」こと。それは単に生活費を得るための手段であるだけでなく、私たちが社会に変化をもたらしたり他者とつながったりする身近な手段の一つです。しかし今、多くの人々が数字に追われ、規則に縛られる中で、本来のやりがいやパーパスを見失いそうになることもあるかもしれません。そうした問題を、組織として、あるいは社会のシステムとして、乗り越えることはできるのでしょうか?本特集では、このモヤモヤを個人の問題として片付けるのではなく、組織、ひいては社会のシステムを規定する「ガバナンス」というレンズを通して見つめ直します。
「仕事で成果を出すことこそが、自分の存在価値を証明する」──無意識のうちにそんな前提を内面化している人も多いのではないだろうか。しかし、仕事を中心にすべてを組み立て、生活や人間関係、さらには自分のアイデンティティまでもそこに委ねようとすればするほど、息苦しさが漂い、本来のやりがいが見えなくなっていく。現代の社会を覆うこのジレンマを、どう紐解けばいいのだろう。
そのヒントを得るために話を聞いたのは、南部アフリカのカラハリ砂漠に暮らす少数民族「サン(伝統的にはブッシュマンとも呼ばれる)」の研究を続ける、文化人類学者の丸山淳子氏だ。

原野で携帯電話を使用するサンの人|丸山氏提供
サンの人々は、これまで広大な砂漠を移動しながら狩猟採集によって暮らしてきた。現在彼らは定住し、賃金労働や観光業などを含む複数の生業を組み合わせて生きている。
近代ビジネスの力学がカラハリ砂漠の辺境にまで波及する最中にも、彼らの労働観には、ある種の「潔さ」が脈々と息づいているという。そこから浮かび上がってきたのは、日本社会におけるビジネスの当たり前を揺るがす、ドライでしなやかな世界観だった。
話者プロフィール:丸山 淳子(まるやま・じゅんこ)
津田塾大学教授。博士(地域研究)。専門は文化人類学、アフリカ地域研究。2006年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科研究指導認定退学。同研究科助教などを経て現職。南部アフリカの少数民族「サン(ブッシュマン)」の社会変容や労働観に関する研究を30年近く続ける。主著に『変化を生きぬくブッシュマン:開発政策と先住民運動のはざまで』、共著に『仕事の人類学:労働中心主義の向こうへ』など。近年は少数民族観光や再生可能エネルギー、食のサプライチェーンが辺境の民に与える影響の比較研究も行う。
「一つの仕事を極める」は本当に正義なのか?
キャリア形成において「一つの専門性を極めること」や「職種・役割の固定化」は評価の前提とされがちだ。しかし、環境に応じて複数の生業を往還するサンの人々にとって、働き方は極めて流動的である。
「例えば観光業に就いたとしても、彼らはそんなに長くは勤めないんです。3ヶ月で辞めて違うことをして、またしばらくすると戻ってくる。常にいくつかの選択肢を持っていて、その中から『今はこれ』という感じで、その時々にやっていく。こうした流動的なあり方は、今も昔もあまり変わっていません」
一つの役割に執着せず「いつでも別のところに移れるようにしておく」ことは、彼らが長い歴史の中で培ってきた生存戦略であり、職を変えることへのハードルも低い。
「『なんで仕事を変えたの?』と聞いても、『え、なんでそんなことを聞くの?』という反応をされます。変わるからには明確な理由があるはずだと私たちは思ってしまいますが、気が向いたら辞めたらいい、という感覚なんです。
ただし、これが成立するためにはあらゆる仕事の参入障壁が低くなければいけません。サンの社会では個人が知識を秘匿せず、誰かが新しくやりたいと言ったときも『一緒にやろう』とすぐにシェアされます。出ていく人にも入ってくる人にも、みんなが構えない。一定の範囲内で情報や関係性がシェアされているネットワークの中にいるからこそ、一人ひとりが孤立せず、流動的に移り変わっていくことができるのです」
報酬をみんなで分け合う社会では、特定の知識や技術を個人のなかに抱え込み、権威化しても意味を持たない。彼らがこれほど身軽に役割を行き来できる背景には、私たちが「仕事」と呼ぶものに対する決定的な前提の違いがあった。

フィールドワーク中の様子
パブリックは必ずしも「仕事の側」にはない
「仕事を通じて社会とつながる」という考え方がすっかり一般的になった。しかし、丸山氏は「社会はいつも仕事の側にある」という認識自体が、偏った考えになる可能性を指摘する。
「例えば日本では、仕事(オンの領域)がものすごく肥大化していると思います。それ以外の営みはすべて『オフ』に分類されてしまいますが、オフの領域にいるだけでは自分の存在意義を感じられないと思い込んでしまっている。だからこそ、社会に出ることはすなわち、仕事を得て働くことだと捉えられがちですが、本来、社会が必ず仕事の側にある必要はないはずです」
では、仕事の側に社会がないとは、どういう状態を指すのだろうか。丸山氏は、パプアニューギニアのトーライ社会を研究する文化人類学者・深田淳太郎氏の議論を引きながら、私たちが信じ込む「公(パブリック)」と「私(プライベート)」の概念の揺らぎを説明する。
深田氏によると、現地の人々にとって仕事はむしろ「個人のプライベートな用事」とみなされ、逆にお葬式や子どもの世話のほうが「パブリックな義務」とされる現象があるという。丸山氏は、この逆転現象が、自身が調査するカラハリ砂漠のサンの社会でもみられると語る。
「サンの社会でも、パブリックの感覚は真逆だと感じます。日本人からすると仕事をサボっているように見える瞬間でも、彼らにとっては『仕事という私的な用事のために、公的なお葬式をサボるなんてあり得ない』という理屈になる。大切な決定や本当の意味での社交は、仕事の現場よりも、誰かの家に集まって交わされる日々の雑談のなかにあります。仕事ではない側にこそ、彼らにとっての社会があるのです」
サンの人々の中では、大切な決定や本当の意味での社交が、仕事の現場ではなく、誰かの家に集まって交わされる「日々の雑談」の中で行われる。さらに面白いのは、そこでの人間の認められ方だ。丸山氏自身、現地を訪れると個人名ではなく、第1子の名前をもとにした「〇〇の母」という呼び名でリスペクトを受けるのだという。
「『私とは何か』というアイデンティティが、仕事のポジションや肩書きではなく、地域や家族のつながりの中で定義づけられています。そうした確固たる居場所が仕事の外側にあるからこそ、組織での役割といったものは、別になくても構わないし、あっても『ちょっと嬉しい』という程度で済むのです」
「あらかじめルールを決めない」背景にある、徹底してドライな人間観
近代的な組織運営では、しばしば事前に精緻なルールやマニュアルを定め、それに従って集団をコントロールすることが「合理的」とされる。そのため、私たちはサンのしなやかなあり方さえも、組織を管理するための「新たな手法」として取り込もうとしてしまいがちだ。しかし、丸山氏はこの「サンの知恵をビジネスにインポートする」という発想そのものに釘を刺す。
「サンの社会は、いわゆる『組織』とみなせるものではないですし、彼らは代表者や代理人が自分の意見を代わりに話すというようなこともあまり信用していません。サンの人々は近代的なルールの枠組みにおいては決して『成功者』ではないので、彼らの働き方をそのまま日本の経営組織に反映できるとは私は思っていません。そもそも目的が違うところで起こっていることなのです」
それではサンの人々は、どのようにして“共に”生きているのか。その根底にあるのは、「いつか私たちは分かり合える」という幻想ではなく、徹底的にドライな「諦め力」だった。
「彼らは『合意なんて簡単には形成されないものだ』と思っているからこそ、非常にドライです。あなたは私ではないし、私はあなたではない。みんなが同じ意見を持ち、同じことをしたいから一緒にいられるのではなく、違ったままで一緒にいる方法を見つけなければいけない。そのためには、相手をコントロールしようとせず、ある程度『諦める』しかないのだと思います。
農業は地面を耕して安定的に食料をコントロールしようとしますが、狩猟は違います。キリンが現れるかどうかは自分とは何の関係もないことで、来るときは来るし、来ないときは来ない。他の人と一緒にいられなくなったらしばらく別々に暮らしてまた一緒になればいい、という潔さ。彼らが持つしなやかさの根源は、この『諦め力』にあるのかもしれません」
できれば独り占めしたいものを、葛藤しながら手渡す「シェア」
他者をコントロールできるという傲慢さを手放す姿勢は、彼らの「ものの分け方」にも現れている。
「メルカリやAirbnbなど、現代のいわゆるシェアリングエコノミーで考えられているのは、基本的には『自分が使わないもの』のシェアですよね。自分にとっては価値のない洋服や部屋だけど、誰かが価値を見出してくれるからシェアする、という設定になっています。
しかし、サンの人たちが行うシェアリングは根本的に異なります。彼らは『自分にとって本当に大事なもの、意味のあるもの』を分けるんです。できることなら独り占めして全部食べたい大切な肉を、『本当は惜しいけれど、あげる』と葛藤しながら手渡す。あらかじめ『10%分配する』とルールで決まっていてそうするなら、それはただの事務処理ですが、彼らのシェアは『他でもないあなただからあげる』という個別具体的なメッセージを伴うコミュニケーションなんです」
現地では、丸山氏も日常的に「洋服をくれ」「髪の毛をくれ」と言われるという。サンの社会では、モノのやり取りは損得勘定ではなく、挨拶や会話と同じように人間関係を結ぶための営みなのだ。

伝統的な皮の衣装を組み合わせたおしゃれ
「モノのやり取りを『いかに得をするか、損をしないか』という視点だけで捉えると、『なぜ大切なものを他人にタダであげなければいけないのか』となってしまいます。でも、私たちも友達と喋るときに『なるべく自分の情報を出さずに、相手から情報だけを仕入れよう』とは思いませんよね。お互いに話したいことを喋って盛り上がるのが楽しいのと同じように、モノを通じてコミュニケーションをとっている感覚なのだと思います」
効率化の過程で私たちが削ぎ落としてしまった、個別具体的で、ときに面倒な手渡しのプロセス。物事をルールや仕組みでスマートに処理しようとする中で、私たちは「損をしないこと」に必死になるあまり、人とつながる面白さでもある「めんどくさい関わり合い」そのものを遠ざけてはいないだろうか。
異文化との出会いが、私たちを自らの「檻」から解放してくれる
最後に、丸山氏は「自己実現と仕事」の距離感について、こんなメッセージをくれた。
「大学で働いていて感じるのは、『自己実現を仕事に求めることが正しい』という前提に立っている学生が多いこと。でも、お金を稼ぐということと、自己実現をすることは、本来切り離して考えてもいいはずなんです。また、学生からは『選択肢を増やすことが大事だ』という旨の言葉もよく聞かれます。でも、そこで想定されている選択肢は、自分が想像しうる、ものすごく狭い範囲の『選択肢』のことではないでしょうか。本当に大切なのは、自分が想像していることのずっと先に、もっと多様な人間のあり方や可能性があると知ることだと思うのです」
自分が知る範囲の「常識」で縛り付けてしまいそうになるとき、異文化や異なる存在は自らの視点を広げてくれる存在であったはずだ。
「たまたま今はこういう社会でこうして生きているけれど、これじゃなくても別にいい。もししんどくなったら変えればいいし、現にそうやって全く違うやり方で生きている人たちが世界にはいる。そう思えることこそが、本当の意味で『自分の選択肢や可能性を広げてくれる』ということなんだと思います」

フィールドワーク中の様子
「現在、各地で排外主義的な言説も増えているように思いますが、本来異なっていることや、自分とは違う世界を生きる人たちの存在を知ることは、私たちの世界を狭めるものではないはずです。むしろ『今の状況がこうじゃなくてもいいんだ』と思わせてくれる。自分たちの檻を外側から開いてくれるものなのです」
他者や異文化を拒絶してしまう背景には、「自分の居場所や豊かさが脅かされる」という恐怖がある。それは、私たちが「決められたルートから外れたら生きていけない」と、自らを狭いキャリアの檻に閉じ込め、成果や評価の奪い合いに疲弊していく心理とも地続きだだろう。そんなとき、自分たちの常識の外側に「全く違う生存ルート」があると知ることは、そんな切迫感を少しだけ和らげてくれる。
もちろん、だからといって明日から急にプレッシャーが消えるわけでも、気楽に生きられるわけでもない。ただ、行き詰まったときに「別にこれじゃなくてもいい」という潔さを思い出す。そうして檻のネジをほんの少し緩めてみることが、私たちが働くことの尊厳を手繰り寄せるきっかけになるのではないだろうか。
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