インクルーシブ教育にインクルーシブ経済、インクルーシブな○○。
SDGs(持続可能な開発目標)で “Leave no one behind(誰一人取り残さない)” という理念が掲げられ、最近「インクルーシブ(包摂性)」という言葉を随分耳にするようになった。しかし、「インクルーシブ」と一言でいっても、どこから手をつけたらいいのか分からないというのが現状ではないだろうか。
この課題にアートを通じて取り組んだ美術館がある。神奈川県の茅ヶ崎市美術館だ。インクルーシブデザインを活用したフィールドワークを行い、アートとして表現した展覧会「美術館まで(から)つづく道」を9月1日まで開催している。ここでは、一体どのようなアート作品を「インクルーシブ」なものとして表現しているのか。同美術館で行われた、アーティストと作品制作協力者が一同に会するシンポジウム「フィールドワークからの作品制作」を取材し、作品づくりに関わる人々の話を聞いた。
ポジティブな発想の転換ができるアート
インクルーシブデザインとは、高齢者や、障がい者、外国人など、多様な人々を、新しい物事を創り出すプロセスに最初から巻き込むことで、従来の思い込みを打ち破り、新たな発想力を引き出す手段として近年注目されているデザイン手法だ。茅ヶ崎市美術館では、そんなインクルーシブデザインを推進している日本有数の美術館である。
きっかけは2年前、定住外国人や障がいを持つ人々の美術館へのアクセシビリティーを高めることを目的とした「MULPA(マルパ)※1」という事業に、茅ヶ崎市美術館の学芸員である藤川悠さんが実行委員として参加したことだった。
その会議で、車椅子ユーザーであり視覚障がい者である鎌倉丘星さんの「美術館までの道は迷路みたいで楽しいんだよ」という発言に衝撃を受けたという。もともと、茅ヶ崎市美術館周辺の道は、昔ながらの曲がりくねった道に囲まれ「分かりづらい」と言われることが多い。しかし、その道中も「迷路」と思えば楽しめる。発想の転換だった。
「美術館はもともと『価値観を変える』をいうミッションを持っている」と藤川さん。そこで、美術館までの複雑な道も、異なる認識や価値観から捉えられれば、新たな価値観を見出すことができるのではないか、と考えた。その手法として注目したのがインクルーシブデザインだという。そして、マイノリティと位置づけられることが多い人たちと一緒にアートをつくるところから手がけるという全国でも珍しいチャレンジがはじまった。
『言葉の地図』 -茅ヶ崎駅から美術館まで-
駅の改札を出て左手(南口)へ真っすぐ進み、突き当たりのエレベーターで1階へ
地上にでたら、車道を左にみながら 36 歩ほど直進し、左に横断歩道を見つけましょう
渡った先には、黄色のひさしがあるくすりやさん
その角を左に曲がると高砂通りです
牛肉店、やきとり屋、イタリア料理店のそれぞれ 3 つの角と
大きな看板を真ん中に、左右にのびる分かれ道
それら全ての左を選ぶことなく、右を進みます
途中、歩道が白線に変わりますが、それに沿って歩きましょう
旅館からの短い横断歩道を渡っていると、ここからが海の風
図書館を過ぎて、塀や生垣がつづくのが高砂緑地
その先にみえるのが茅ヶ崎市美術館の看板
門柱の松籟荘に招かれて、そっと中へ入ってみれば
ようこそ緑そよぐ小道へ
さあ、のぼった先が美術館です
作:小倉慶子(盲導犬ユーザー)
「感覚特性者」から着想を得たアート
今回の「美術館まで(から)つづく道」では、茅ヶ崎市美術館とアーティストたちが共にテーマをつくっている。通常、芸術作品をつくる際はアーティストの中ですでにテーマがあることが多いので、今回はアーティストたちにとっても新たな試みであった。
まず、インクルーシブデザイン・ファシリテーターでもある鎌倉さんがファシリテーターとなって、アーティストらにレクチャーを実施。その際、障がい者など制作協力する人たちを「感覚特性者」と呼ぶように心がけていたという。それは、みんなが他の人とは違う「特性」を持っている、というフィールドワークでの発見にもとづいている。
フィールドワークは、作品の制作者と感覚特性者がチームを組んで行われた。観察に観察を重ね、重要な気づきをキーワードとして抽出し、テーマを設定。アート作品の制作を行った。
美術と手話プロジェクト代表であり聴覚障がい者の西岡克浩さんも、今回の参加者だ。一緒にチームを組んだ、メディアアーティストの金箱淳一さんや、音空間デザイナーの原田智弘さんは、フィールドワークを重ねるうちに、西岡さんが触覚や視覚、触覚などさまざまな感覚を通じて音を感じていることに気がついた。たとえば、フィールドワーク後に一緒に食べに行ったもんじゃ焼き。音が聞こえなくても、生地が焼けてフツフツと気泡をつくっている様子を見ると、誰しも音を感じる。
これを、金箱さんは「音を利く」と表現。「多感覚で『利く』ことによって、健聴者も音に対する新たな視点を生み出すことができる」という。そこから生まれた作品がこちら「音鈴」。風鈴をモチーフとした作品で、触ったり、ふうっと息をかけると音が鳴ったり、光を発する。さまざまな感覚を通して音を感じることができる作品だ。
盲導犬ユーザーであり視覚障がい者の小倉慶子さん、そして盲導犬のリルハちゃんとのフィールドワークから「道の香りパレット」を制作したのは、資生堂グローバルイノベーションセンター 香料開発グループ研究員の稲場香織さん。
「小倉さんと共有できる言語が欲しいと思った時に、『香り』で共有できるものがあるのではないか」と「道の香りパレット」という作品づくりに取り組んだ。パレットには、美術館までの道の匂いが六つあり、中にはコンビニの匂いなどちょっと変わったものもある。それは「コンビニには匂いがあり、視覚障がい者の人にはサインになっている」ことが分かったことがきっかけだという。いつもは気にかけなかった匂いも、「サイン」だと思うとまた違うように感じる。このパレットは貸し出しをしており、実際に道で楽しむことができる。
「助ける側、助けられる側」の概念を変えるアート
今回の展覧会には「『助ける側』『助けられる側』という二者の関係性に揺さぶりをかける」というねらいがある。その意味ではさまざまな「揺さぶり」が起こっていた。
まずは、アーティスト。シンポジウムで何度も聞かれたのは「観察することの素晴らしさ」。フィールドワークを通して何度も「観察」をしたことで、「見ていたつもり」「知っていたつもり」だった対象物への概念が変わった、という声が聞かれた。たとえば、二歳のご自身の娘、そよちゃんを対象としてアートを制作した原良介さんは「当たり前だ、と思っているものでも目的を持って改めて観察し直してみると、全く別の視点でみることができた」と語った。
次に、感覚特性者への影響。車椅子ユーザーの和久井真糸さんは、参加型アートに触れ、「私も作品づくりに参加した。しばらくして展示を見ると、作品が増えていて一緒に参加してるんだー! と嬉しくなった。見るのも楽しいが参加するのはもっと楽しい」と語った。また、盲導犬ユーザーの小倉慶子さんも「みんなに盲導犬歩行の楽しさが少し伝わったことが良かった」という。アートをつくるプロセスそのものが「インクルーシブ」な心地よさを生み出していたことが伝わってくる。
そして、作品を見た人への影響。これは個人的な感想になるが、いろんな特性を持った人とアートを通して共有できる時間や感覚はとても心地よく、時に面白かった。障がい者を「感覚特性者」と呼ぶことで、「健常者」とされる私もフラットな場に立つ。その上で、作品に触れると、障がい者の障がいは、障がいというよりも「特性」に思え、それは私自身にもあると思えてきた。それはいいとか悪いとかではなく「特性」。そう思うと、いろんなものの見方が大きく変わってくる。
展覧会を見た後も小さな変化が続いた。いつもは家人との揉めごとのタネになる洗濯物の干し方やお皿の洗い方など些細な違いも、それぞれの「特性」と思えば落ち着いて対応できる自分がいた。大げさかもしれないが、こうした小さな感覚、経験を繰り返すことが「インクルーシブ社会への道」、まさに「美術館(から)つづく道」なのではないだろうか。
美術館から始まるインクルーシブな社会への道
インクルーシブ手法を用いたアートの試みはまだはじまったばかり。その影響は素晴らしいアート作品を生み出すだけではなく、インクルーシブな社会をつくりだす大きな力になる可能性を秘めている。
展覧会は、9月1日まで行われている。「一人ひとり、または一緒に、美術館から出た先の道(=未来)を色々な意味での『感覚特性者』となり、物事を捉え直し、生きていく術を身につけ歩いていけるように」という、アートに込められた美術館のメッセージと、インクルーシブ手法の可能性を感じに、ぜひ展覧会に足を運んでみてほしい。
【展覧会の詳細はこちら】茅ヶ崎市美術館「美術館まで(から)つづく道」
サムネイル写真:香川賢志