地球資源の枯渇や社会のデジタル化によって、紙の使用削減を推奨する流れが起こっている。古くから人々の暮らしを支えてきた印刷技術も、徐々にその衰退が囁かれるようになった。それでも、印刷を通して人々の命と地球環境を守ろうと横浜で奮闘している企業がある。それが大川印刷だ。
大川印刷は1881年横浜市中区に設立、その後同市戸塚区に拠点を移し創業100年を超える老舗の印刷会社である。今回は、大川印刷の現代表取締役社長である大川哲郎(おおかわ・てつお)氏に、社会や地域に長く愛され続ける企業経営の秘訣について伺った。
始まりは「命を守る」印刷
大川印刷の印刷事業創業のルーツは、日本の活版印刷の発祥地である長崎にある。1870年に、「近代活版印刷の父」の異名を持つ本木昌造が長崎県に創業した「新町活版所」。そこで本木昌造の弟子として活版印刷に関わっていた平野富二は、1872年に東京築地活版製造所を設立した。(朗文堂HPより)
一方、大川印刷の創業者である大川源次郎は、実家が薬種貿易商だったため幼い頃から輸入医薬品のラベルを見る機会が多くあったという。そして、そのラベルの美しさに魅了された彼は、自身の弟二人を築地の平野富二の元へ働きに出すが、1年たらずで呼び戻す。するとそこへ東京築地活版製造所より1名を招き入れ、ドイツ・イギリスから印刷機を輸入して横浜で大川印刷を設立した。これが、その後長きにわたって受け継がれる大川印刷の始まりだ。
大川印刷では古くから重要な印刷事業を多く担っており、例えば「吾輩は猫である」に登場する消化薬のタカジアスターゼのラベルを印刷した。また、現在でも広く親しまれている横浜、崎陽軒の弁当の掛け紙の印刷も担っている。
大川氏「我々は古くから『人々の命を守る印刷』に携わってきました。特に、食品や医薬品に関わる印刷には特に最新の注意を払う必要があります。例えばアレルギー表示や用法・用量の表示に誤りがあると、人々の命に関わる重大な事故につながりかねないからです。現在は全ての印刷機にCCDカメラを設置して、常に正確な印刷を担保しています。」
ソーシャルプリンティングカンパニー®︎へ
1880年代から日本の印刷を支えてきた大川印刷。現在は、6代目代表の大川哲郎氏を中心に「ソーシャルプリンティングカンパニー®︎」として印刷業を通して社会課題解決を目指す経営に取り組んでいる。
幼い頃から横浜の豊かな自然に囲まれて育った大川氏。学校を卒業後は東京に本社がある印刷会社に入社した。3年の修行の後自社に戻ると、そこで目にした大量に使用されていく紙やインキに違和感を覚えたという。そしてその後、環境に配慮した「環境経営」へとシフトしていくことになる。
大川氏「はじめは再生紙と大豆インキを使って印刷するところから始めましたが、今から考えれば驚くほど人々の関心も需要もありませんでした。先輩からは『環境経営なんて消費者は気にしていない』と馬鹿にされることもあり、印刷業に携わる目的や目標を見失った時期もありました。しかし、様々な出会いのなかで、自分は印刷物を通して人に喜びを与え、人の命を守ることが使命なのだと気づいたのです。」
環境経営に対する周囲の理解が進まない時期を経て、時代にも少しずつ変化が現れる。2000年に入ると、「色覚バリアフリー」という言葉が知られるようになった。我が国では成人男性では20人に1人の割合で色覚に障がいがあるとも言われ、印刷物の色使いにも社会的配慮が求められるようになってきたのだ。
そして大川印刷では、2002年から印刷物へのユニバーサルデザインの採用を開始した。さらに2004年にはCSR(企業の社会的責任)についての調査研究を1年かけて行った大川氏。その活動を通して、「本業を通じた社会課題解決」こそが王道のCSRの姿であると確信し、「ソーシャルプリンティングカンパニー®︎」としての商標登録にも踏み切った。
大川氏「大川印刷では創業当時から社会的な印刷物の製造を行っていましたので、我々にとって『本業を通した社会課題解決』は当たり前のことでした。さらに、社内では『ソーシャルプリンティングカンパニー®︎』の看板を掲げて積極的に社会課題解決を果たそうとする社員が徐々に増えており、皆で一丸となって取り組みを進めることができています。」
その後、大川印刷では2005年グリーン購入大賞 大賞、2010年横浜環境活動賞 大賞、2015年地球温暖化防止活動環境大臣表彰 受賞と、事業における社会課題解決が次々と認められてきた。
100年続く企業の秘訣は、社員ひとりひとりにある
社会課題解決に取り組み続け、100年以上にわたり続いてきた大川印刷の事業。その秘訣について伺うと、大川氏は次のように述べた。
大川氏「企業の長生きの秘訣は『人間尊重』にあると思っています。これまで、バブル経済の崩壊で売り上げが半分になるような厳しい時期も経験してきました。そんな苦しい状況に置かれた時に『これからも地域や社会に必要とされる企業とはどんな企業なのか』と真剣に考え、たどり着いた答えが、まずは従業員全員で地域や社会に必要とされる『人』を目指すこと。そして、周りから必要とされる人が集まれば、必然的に社会から必要とされる企業になれるだろうと考えたのです。」
この答えを導き出すまでの道のりは決して平坦ではなかったと語る大川氏だが、そこには気づきを得るきっかけがあったという。
大川氏「それはある先輩社長の言葉でした。『会社に万が一のことがあってもいいように一生懸命働きなさい。もしも会社が立ち行かなくなったとき、周りの企業からよかったらうちにきて働かないか、と誘ってもらえるような働き方をしなさい』と、日々従業員に伝えているそうです。つまり、従業員全員が普段からそれだけの強い思いを持って堅実に働いていれば、まずその会社が潰れることはないだろう、ということなのです。確かにその通りだと感じました。」
紙、インキ、そしてゼロカーボンへ
さらに、信念を持って地道に活動を続けてきたことがもう一つの秘訣だ、と大川氏は振り返る。
大川氏「大川印刷がFSC®︎森林認証紙の使用を開始した2004年当時は、今ほど環境に配慮した製品への需要がありませんでした。しかし、大川印刷では未来を見据えて石油系溶剤を一切含まない植物性のインキの使用を目指して地道に取り組みを進めてきました。」
FSC®︎認証とはForest Stewardship Councilの頭文字をとったもので、森林管理が適切に行われているかどうかを認証するFM(Forest Management)と、加工・流通過程での管理が適切に行われているかを認証するCoC(Chain of Custody)の二つにおいて基準を満たしている森林が認証を受けられる国際的な制度である。
また大川印刷では、VOC(揮発性有機化合物(Volatile Organic Compounds))の対策も行っている。石油由来の溶剤であるVOCは空気に触れると大気中に容易に揮発するため、大気汚染や光化学スモッグなど公害の原因となるだけではなくシックハウス症候群や化学物質過敏症といった健康被害を引き起こす要因にもなっているのだ。
大川印刷で扱っているノンVOCインキは石油系溶剤を全く含まないうえ、VOCゼロであることを示すオリジナルのマークを制作し、ユーザーにとって理解しやすい仕組みを整えている。
大川氏「ノンVOCインキを使用し始めた頃は、インキメーカーごとにそれぞれ異なるマークがつけられていました。しかし、同じノンVOCインキなのに違うマークで表すことは印刷屋や生活者にとってわかりづらいと考え、大川印刷ではノンVOCインキに対してはメーカーにかかわらず統一したマークを使用することにしました。」
他にも様々な印刷物のマークや認証制度が存在しているため、大川印刷ではそれらをまとめてわかりやすく示す環境ラベルカードを独自で作成している。例えば、植物性インキの類に属すインキの中には成分として石油系溶剤を含んでいるものがあるが、環境ラベルカードには大川印刷で扱うインキはVOCゼロであることが明記されている。
大川氏「取引をする方々には正直でありたいと思っています。印刷をするための紙やインキにはたくさんの種類がありますが、それぞれに利点がある一方で欠点もあります。印刷を通して社会課題を解決したいと思うとき、環境への配慮はもちろんですが、原料を通して途上国の雇用創出や児童労働の問題にもアプローチすることができます。印刷物を受注する時には、どのような印刷方法が多面的・総合的に良いか、説明するよう心がけています。」
そして、大川印刷では2019年7月から難民雇用にも取り組んでいる。
今からおよそ30年前、22歳の頃アメリカ南部を旅した大川氏は、居住区を分けるなどアフリカ系アメリカ人と白人との間の根強い人種差別を目の当たりにした。人種差別を始めとする人権問題は現在の”Black Lives Matter (アフリカ系アメリカ人の命も大切)”のような運動があることからもわかるように、根深い問題として残されているのだ。
大川氏「日本では経済成長とともに外国人の労働力に頼らないといけない状況になってきています。その一方で、人権問題への本質的な理解が進んでいないのはおかしいと感じたのです。そこで私も問題解決に貢献したいと思い、難民雇用を始めました。」
大川印刷では2019年から本社工場の20%の電力を太陽光発電により確保しており、残り80%は青森県横浜町の風力発電の電力を購入することで100%再生可能エネルギー化を果たしている。さらに、横浜市の「温暖化対策実行計画 Zero Carbon Yokohama」にも参画し、J-クレジットと横浜ブルーカーボンでのカーボンオフセットに取り組むことで、自社の印刷事業におけるCO2排出量(スコープ1、2)全量をゼロ化している。
今後は、自社でのCO₂排出量だけではなく、原材料の調達や使用、破棄の際に排出されるCO2(スコープ3)も含めた上で、2030年までにゼロカーボンの達成を目指すそうだ。
コロナ禍で、会社は寺になる
紙、インキ、そしてCO₂と、環境に優しい印刷事業の実現に向けて革新的な取り組みを続ける大川印刷だが、コロナ禍によって社内での働き方も大きく進化しているという。
大川さん「株式会社YOUTURNで取締役を務める成澤俊輔さんの『これから、会社は寺になりますね。』という言葉には衝撃を受けました。」
コロナ禍でのリモートワーク推進の流れによって、オフィスに通勤する人の数が激減しているが、大川印刷でも、積極的なリモートワーク導入を進めているそうだ。そんななか大川氏は、もはや仕事をする場所ではなくなったオフィスが今後どのような場所になるのかについて真剣に考えているという。
大川氏「お寺で檀家さん達がお坊さんのもとに集まってためになる話を聴き、『みんなで食事でもしてから解散にしよう。』と言ってそれぞれが士気を高めてまた日常生活へ戻っていく、これが今後のオフィスの姿になるのではないでしょうか。たまに疲れが溜まった時にオフィスに立ち寄って、仲間と他愛もない話をしてまたテレワークに戻っていくのです。」
大川氏は従業員たちの仕事環境をより良くしようと、新しいオフィスの形を実現するために動き出している。まず取り組み始めたことのひとつのが、オフィスにフィットネスバイクを置いてそれで発電をするという計画だ。これは、在宅勤務による運動不足を解消しながら自家発電にも貢献できる画期的なアイデアである。さらに、オフィスの余っているスペースに動画撮影スタジオを作って、トークショーやイベントを誘致する計画もあるという。横浜市内のインフルエンサーたちが大川印刷のオフィスでコンテンツ作成に取り組むことで、横浜の情報発信力強化を狙っている。
仕事と遊びの境界線をなくす
これからの企業に求められるのは、従業員一人ひとりの経験を大切にし、そこから課題や希望を見つけ出すことだと大川氏は語る。特にSDGs推進の観点では、個人が与えられた能力・強みに気づきそれらとSDGsの接点を自ら見つけ出すことで、それぞれが興味関心を持って積極的に取り組むことができると考えているそうだ。
大川氏「大川印刷でも、気候危機に関する社会的ムーブメントに参加するなど時代の変化に伴う新しい活動を広げていきたいと思っています。そしてそれぞれが人生を通してやってみたいと思っていることと会社の活動が少しづつ重なっていき、いずれは仕事と遊びの境界線がなくなるかもしれません。そしてその先には、一人ひとりが未来への希望やワクワクする気持ちを持ち続けられる環境の実現があるのではないでしょうか。」
サステナビリティにおいて大切なのは感性
最後に、大川氏にサステナビリティに取り組むうえで一番大事にしていることを伺った。
大川氏「日々の業務のなかで、心から感動できる美しい印刷物に出会ったり、心から感謝できる従業員の思いやりのある行動に出会ったり、感情が動く瞬間がたくさんあります。これからもSDGsやサステナビリティに取り組んでいくなかでそのような『感性』を大切にすることを忘れずにいたいと思っています。」
編集後記
大川印刷のホームページを訪れると、まず初めに目に飛び込んでくる「環境印刷で刷ろうぜ」という強いメッセージ。取材の最後に、大川さんにこの言葉に込められた思いについて尋ねてみると、「もういい加減、今までの悪い習慣はやめてみんなで一緒になって協力していこうぜ、という気持ちが込められているんです。」と答えてくださった。これまでにたくさんの人と出会い様々な気づきを得てきたという大川氏だが、これからはこの力強い信念とともに大川氏が人を変えていく、そんな機会が多く訪れるのかもしれない。
【参照サイト】大川印刷 公式ホームページ
【参照サイト】朗文堂HP
【参照サイト】株式会社YOUTURN
【参照記事】横浜市再生可能エネルギー活用戦略 【概要版】
【参照記事】再生可能エネルギー100%企業になりました!
※本記事は、ハーチ株式会社が運営する「Circular Yokohama」からの転載記事となります。