食品ロスゼロの「捨てないパン屋」が「働かないパン屋」になった理由

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2020年は、未曾有の新型コロナウイルス感染拡大により、何かを手放したり、当たり前と思っていたことに意識を向けるなど、目の前の「いま」をみつめた方も多かったのではないだろうか。

新型コロナ感染症拡大前の2020年1月。広島市内にあるパン屋「boulangerie deRien(ブーランジュエリー・ドリアン)」(以下、ドリアン)を営む田村陽至(たむら ようじ)氏は、新型コロナ感染拡大よりも前に自身のライフスタイルを変えていた。田村氏は同年1月、お店の営業時間を短縮することを一大決心し、それまでの週6営業から週4営業に変更した。そして11月下旬には、広島市内と岡山県蒜山地区での2拠点生活を始め、家族や自分の時間も大切にする働き方を実現させた。

ドリアンは、パンの廃棄ゼロの”捨てないパン屋”として名が知られている。ドリアンのパンは、国産有機栽培の麦と自然発酵の種を使って石窯で焼き上げるシンプルなパンで、ラインナップはたったの3〜4種類のみ。さらに冷蔵・冷凍保存が可能で、焼き立てよりも数日経った方がパン自体の香りや味を堪能でき、ワインやチーズとの相性は抜群だという。

今回は、ドリアンの田村氏に「捨てないパン屋になった理由」「コロナ禍で、売上を減らさない短時間労働の働き方改革をどう実現させたのか」や、「2拠点生活を始めた理由」について取材した。

話者プロフィール:田村陽至(たむら・ようじ)

1976年広島県生まれ。亜細亜大学を卒業後、北海道や沖縄で山・自然ガイド、環境教育について修業。その後、2年間モンゴルに滞在しつつ遊牧民ホームステイなどエコツアーを企画。帰国後の2004年、祖父の代から3代続くパン屋を継承した。2012年には1年半休業してヨーロッパで修業し、店をリニューアル。2015年秋から一つもパン捨てていない「捨てないパン屋」では10年間毎年、約40日間の夏期休暇を取り、ヨーロッパの国々のパンを学ぶ。2018年の夏は2か月間の夏季休暇をとり、モンゴル最西端の鷹匠の村に発酵食の調査に入った。2020年岡山県蒜山に移住。書籍『捨てないパン屋』著者。 

売れ残ったパンは捨てる、ごくありふれたパン屋だったドリアン

2020年11月、筆者は広島市内にある田村氏のパン工房を訪ねた。パンの発酵具合や薪窯の温まり具合を見ながら、タイマーを片手に作業する田村氏の目つき・手つき・背中に、日頃見せる柔らかい雰囲気とは違う、職人の気迫を感じた。

今では数種類の限られたパンのみを販売しているドリアンだが、十数年前は菓子パンや惣菜パンなど、多種類のパンを作り、その日に売れ残ったパンは捨てる、ごくありふれたパン屋だったという。

田村氏

命の火。田村氏の眼差しは真剣そのもの。

田村氏はドリアンの3代目オーナーシェフ。2代目の父の時代は、従業員も多く活気があった。その頃のドリアンは、新しいものを作れば売上につながっていたため、パンの種類を増やしたり、焼きたてを売りにしたりするなど、次々と「新しいもの」を追い求めていた。当時、小学校高学年であった田村氏は、そんなドリアンに対して「時代のブームに乗って翻弄されている」と感じていたという。

そんなふうに時代の流れに合わせ、景気の上がり下がりを経験してきたドリアンが田村氏の代で「捨てないパン屋」になったきっかけは、彼の大学時代にまでさかのぼる。田村氏は大学時代、環境化学の教授の熱量に感動し、大学の図書館が閉館する夜の9時まで環境問題を熱心に勉強していた。その後、環境NPOの仕事でモンゴルの遊牧民と共に2年間過ごした。

羊と共に移動生活をする彼らは、血を一滴も落とさず羊を捌く。そんな骨に残った肉片も残さずに食べきる彼らの姿勢が、今の田村氏の食べもの(生きもの)を「捨てない」という原点になっているという。田村氏がパンづくりを始めた頃は、売れ残って捨てられるパンを見ては、原料の小麦と羊の命が重なって見え、「売れ残ることのないパンを早く作りたい」と、田村氏は自分自身を追い立てたこともあったそうだ。

パンのタネづくり

パンのタネづくり

手間と時間をかけてB級の材料を使うより、手を抜いて最高級の材料を使う

数種類のパンのみの販売という現在のスタイルになったのは2012年のこと。店を一年休業し、田村氏がフランスを拠点にヨーロッパ中のパン屋を訪ねた際、オーストリア・ウィーンにある「Gragger(グラッガー)」というパン屋での研修が、彼の考えを改めるきっかけとなったという。

研修前日、「仕事のスタートは朝8時から」と聞いた田村氏は、「仕事が終わるのは19時過ぎだろう」と予想していた。しかし、その予想はまったく当たらなかった。仕事が終わったのはなんと、昼過ぎだったのだ。翌日も翌々日も、昼過ぎには仕事を終え、職人たちは家に帰っていく。

グラッガーにて。右は職人のデニス君

グラッガーにて。右は職人のデニス君

あっけにとられた田村氏は、職人たちの働き方を観察したという。グラッガーの製法は、パンを捏ねあげたらすぐに成形して冷蔵庫にしまうシンプルなものだった。その代わり、材料は手に入る「最高のもの」を使い、天然酵母で醸し薪で焼く。その“手を抜いた”パンは、18時間もの長い時間と手間をかけて作っていた、自身のパンよりも断然に美味しかったという。

「手間と時間をかけてB級の材料を使うより、手を抜いて最高級の材料を使う方が、つくるのも楽で値段も安く、そのうえ断然に美味しい」。そう気がついた田村氏は、「この労働時間の少ない働き方は、日本でも可能なのでは?」と思いたち、さっそく再開した自身の店で実行したという。

パンの発酵や焼き方は、グラッガーの方法を真似た。材料は国産有機栽培の麦を使用。石窯を大きく作り直し、一度に大量のパンが焼けるようにした。以前は20種類近くあったパンを数種類まで減らし、売るのは500グラムか1キロの具なしの大きなパンのみ。パンを焼くのは自分だけで、店番は妻一人という体制を整えた。すると、販売員が3〜4人いたときと変わらない同量のパンを焼き、販売できるようになったのだ。

そうして夢の短時間労働を実現させた田村氏は、「以前の働き方とは心の穏やかさが全く違った」と当時を振り返る。シンプルな製造方法で、ドリアンは廃棄パンゼロの「捨てないパン屋」かつ、短時間労働を実現させたのだ。

ヨーロッパでの研修

仕事よりも「暮らし」に人生の重きを置く生き方

田村氏が、自分の働き方にこれほどまでに向き合う理由は、自分自身が幸せな働き方・暮らし方をしたいという想いとともに、今は空から笑顔を見せる後輩への想いにあるという。

その後輩は製パン学校を首席で卒業。新卒で有名店に合格し、1人でパン部門を任され、原価計算や従業員への指導なども行っていた。ある時田村氏は、この頼もしい後輩が、自分自身で命を落としたという知らせを、マルシェに立ち寄ったお客さんから聞いたという。

「彼の死の知らせを聞き、仕事帰りに川べりを歩きながら涙が止まらなかった。どこかで彼の人生の角度が少しでも違っていれば、違う人生になったのではないか。」「早朝から働き、疲れきっているはずの仕事帰り。閉店間際を見計らっては度々ドリアンを訪ねてきて、あれほど話をしていたのに。」「もっと話を聞いてあげることも、一緒に憂さ晴らしをすることもできたのに。」

川の流れを見つめながら、彼への想いがぐるぐると田村氏の頭の中を回った。「ボロボロになるまで仕事をして、心を壊すような世の中でなく、大好きな仕事をして、家族やパートナーと過ごせる時間もある。そんな世の中にしないとダメだ。」と、強く思ったという。

「安定」とは、「変化」すること

2020年初めの緊急事態宣言中、ドリアンの店舗販売は休止。その間に田村氏は、今後の働き方の再構築と、兼ねてから探していた、自分が自分らしくいられるホームプレイス探しに時間を使っていた。そして2020年8月1日、広島市八丁堀の店舗を閉店。現在は、インターネット注文による全国発送のみを行っている。

週6営業を週4営業に減らした際、売り上げが下がるのではないかと心配したが、蓋を開けてみたら売り上げに変化がなかったという。さらに実店舗を閉店し、販売を定期購入発送のみにしたことで、パンの売れ残りを気にせずに思いきり焼けるようになったという田村氏。驚くことに、それによって売り上げが上がったという。「働き方を変える前はどうなるかと思ったが、実際に変えた今、実行して良かったと心から思っている。」と、田村氏は話す。

時は戻り2003年末、モンゴルから日本へ一時帰国した田村氏は、両親から「パン屋を閉店する」と聞き、複雑な気持ちになる。元々継ぐ気はなかったが、「店が持ち直すまで手伝おう」と一時的に関わることに。そして、気付けば3代目として17年の月日が過ぎていた。そんな田村氏は今、「いつか自然豊かな場所で自給自足の暮らしがしたい」という夢を形にしようとしている。

自宅と一緒に付いてきた田畑。近くにはわさび棚もある

自宅と一緒に付いてきた田畑。近くにはわさび棚もある

そして田村氏は、コロナ禍の2020年夏、岡山県蒜山の地にホームプレイスとなる古民家を見つけた。なんとその物件には、8千平方メートルの田畑と、4万2千平方メートルの山林がついてきたのだ。田村氏と同時期に鰻屋さんや蕎麦屋さんも移住したという。現在、車で片道3時間半の、岡山県蒜山と広島市内の2拠点生活を送る。

「まだまだゆったり暮らすには時間がかかりそう。まずは草刈りと田畑を耕すところから始めている。」と、ホームプレイスへの完全移住を目指す移行期の心境も、最後に語った。

田村ご夫妻

田村さんご夫妻 Image via 株式会社 office 3.11

編集後記

「安定とは変化すること」と語り、更に自身の深化を遂げる田村氏。そんな田村家には家訓がある。

“ 3年経ったら考えてみて 5年経ったら変えてみて 10年経ったらやめてしまう ”

「少しづつ変わり続けることは、変化の激しい時代の中で生きていける術である。」と、田村氏は語った。

未だ終わりを見せない新型コロナ。日々の暮らしの中に地球温暖化や気候変動を感じる昨今。田村氏の生き方は、ダーウィンの「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。」という言葉を思い起こさせるものがある。

筆者も、時代の変化に柔軟に対応し、やってみたいことを夢で終わらせないために、まずは目の前の暮らしに目を向けていきたい。田村氏は、2022年春には「蒜山パン学校=働かないパン屋の学校」を開校予定だという。今後も、暮らし自体を醸している田村氏を追っていきたい。

トップ画像:撮影:株式会社 office 3.11
【参照サイト】 boulangerie deRien

筆者プロフィール:望月香里

元保育士、現マッチングサイト登録のベビーシッターとライターのフリーランス。ものごとの始まり・きっかけを聞くのが好き。2018年3月、映画『いただきます~みそを作るこどもたち~』自主上映会の企画・主催を機に、自分が大切にしたい・おもしろいと思う事を不定期イベントとして開催している。今は暮らしに目が向いている。
ブログ:https://note.com/zucchini_232

Edited by Erika Tomiyama

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