2023年4月中旬、京都・東本願寺の飛地境内地である渉成園(しょうせいえん)の茶室「代笠席(たいりつせき)」で、生物多様性をテーマとしたお茶会「Multispecies’ Tea Ceremony 一服と十人による庭園の解釈」が催された。
イベント当日は、生物多様性をキーワードとして、10のアート作品の展示が行われた。今回のアート作品を作成したのは、アーティストやデザイナーだけでなく、研究者やエンジニアなど、さまざまな職業の人々だ。東本願寺・渉成園の御用達であり、京都の庭園を多く手がける植彌加藤造園の庭師の仕事を追体験して感じたことを、それぞれのやり方で表現している。
イベント開催の舞台となった渉成園は、寛永18年(1641年)に三代将軍・徳川家光が東本願寺に土地を寄進し作庭された歴史ある庭園。国の名勝にも指定され、茶室などの歴史的建築物と四季折々の庭の美しさが楽しめる観光名所でもある。
日本人が古来から好んできたお茶会に、アートという実験的要素を組み合わせたイベント。既成概念にとらわれない今回の取り組みについて、庭師とアーティストの反応も含め、一体どんな様子だったのかをレポートしていく。
「ただのお茶」ではない実験的なお茶会
イベントは、お茶会からスタート。電気のついていない仄暗い茶室「代笠席(たいりつせき)」の空間に入ることで体をリセットし、お茶を飲んで自然に身体の力が抜けることで、次に来る展示を体験するための準備をする時間があった。
茶室というとやはり「お茶」を想像してしまうが、4月15日に参加した筆者が楽しんだのは「コーヒー」だった。スイス発の「完全自動のIoT焙煎機」によって焙煎されたというお品書きだ。「各個人が好みに合わせて焙煎できるようになれば、焙煎プロセスを世界中のコーヒーの販売店に分散させることができ、コーヒーの生産者や地域社会とのつながりをもっと深められる」そう考えたスイス人のマリウス・ディスラーさんは、コーヒースタートアップMikafiを立ち上げた。
いただいたコーヒーは、香りや酸味、苦味、濃さが多様で驚くばかりだった。日本は深煎りが人気だが、「自然や微生物の力によってさまざまな味わいに変化するコーヒーを楽しんでほしい」とマリウスさん。ほの暗い茶室でいただくと感覚が研ぎ澄まされ、繊細な味わいを感じることができた。
また、4月22日の会では、きのこのお茶「Fungicha」と、蛾の幼虫の糞でできた「虫秘茶」で茶会を行ったという。
このお茶会の企画者である株式会社ロフトワークでSPCSというコミュニティを主宰する浦野奈美さんによると、Fungichaを選んだのは、きのこをお茶として抽出して楽しむことで、生態系において重要な役割を担う菌類を五感で体験できることがポイントだったという。また、きのこは伝統的な庭園管理では取り除かれる存在であったことから、あえてそこに着目したそうだ。
また虫秘茶に関しては、50種類以上の芋虫の糞をお茶として飲んだ京都大学の研究者、丸岡毅さんによって開発されたものだ。「虫の糞」と聞くと驚く人も多そうだが、当日はそんな虫秘茶がとても美味しいことに参加者が驚いていたという。
「Fungichaと似ていますが、たとえ身近にあっても、興味が持てないものや、時に嫌悪感や恐怖心を感じてしまうものについて、摂取するという究極的な体験を通すことで、五感で楽しみ、感動し、身近な生態系への興味が湧く。そういう体験が、Fungichaと虫秘茶の体験にはあったように思います」と浦野さん。
言語や視覚情報だけでなく、より体に直接働きかけるお茶会。味覚や嗅覚を通してマルチスピーシーズ(あるいは自然の面白さ)を体験する時間だった。
庭園で出会ったアート作品たち
庭園には、イベントに合わせて庭師の仕事を(追)体験したアーティストによる作品たちが並べられていた。ここからは、いくつか印象に残った作品と、そこから得られた深い学びを共有していく。
自然の「コントロールできなさ」を感じてみる
今回のイベントは生物多様性がキーワードとなっているが、その根底には、人間だけではなく、動植物や微生物などあらゆる生物種との共生「マルチスピーシーズ」がある。
多くの生き物と共生するのは、そう簡単ではない。現に、私たちは「共生」しているというよりは、自然を人間のいいように支配・コントロールしており、その結果生態系の破壊を招いていると言える。
ただ、わかっていても、やりすぎてしまうのが人の性。そこで、自然の「Uncontorability(制御不能性、コントロールできなさ)」が感じられる作品を二つ紹介する。
だんだん読めなくなるQRコード「生く苔のカタチ絶えずして」
会場に入るとすぐに目に入ってくるアイキャッチ的な作品。少し離れて読み込むと、さらなるアートにつながることができる。ただ、苔は日々成長しており、次の週もリンクが読み込めるかどうかは未知数だった。
作品を制作した長島颯さんは、「QRコードを苔で作っていくにつれて、いかに自然を造形することが難しいかを肌で感じました。また展示して分かったことなのですが、太陽の位置もQRコードの読み取りに関係していて、特に夕方だと影によって全く読み取れませんでした。自分の予想のつかないことを自然の側から教えてもらういい機会でした。これらは観光客として関わっていては気付かないことでした」と語っている。苔を「制御するのか/できるのか」そんなことを考えてしまう面白い作品だった。
太陽の動きに合わせて色が変わる障子「Living Kaleidoscope」
次に、太陽を感じる障子「Living Kaleidoscope」。太陽の動きに合わせて、赤やオレンジ、青や緑など七色に煌めく障子。その正体は偏光フィルム(反射フィルム)だ。
日常の忙しさに紛れて、規則正しく登っては沈む太陽でさえ見失いがちな現代。美しい光の変化を通じて、「太陽」の存在を身近に感じられるこちらの作品もまた、「自然のリズムで動く太陽を我々はコントロールすることができない」ということを教えてくれる。伝統的な家屋に、現代の素材が不思議とマッチしていた。
「その伝統は、なぜ生まれたのか」という疑問に立ち戻ってみる
歴史ある庭園で、生物多様性をキーワードにアート作品づくりを行った背景を知ると、さらなる発見ができる。浦野奈美さんはこう語っていた。
「伝統的なものは、年月が経つにつれ、型やルールだけが残り、そもそもなぜそうなったのかという理由が失われがちです。たとえば今は、庭に生える雑草をすべて抜き、そこに落ちている葉や枝、小石などを取り除いた状態が『美しい』とされています。しかし、私たちは本当にそうなのかと疑問を持ちました。そこでもう一度原点に戻り、生物多様性を考慮した場合に、どういう状態が『美しい』と言えるのかを考えてみたかったんです」
関連するアート作品も一緒に紹介しよう。
現在のシステムで“要らない”とされた「取り除かれた自然物の標本」
通常の庭園の管理では、苔の上に落ちているものは基本的に取り除いた状態が「美しい」とされる。しかし、もしその取り除いたものを並べてみたらどうだろう。そんな思いつきからつくられたのがこの標本だった。
庭師が苔の上から取り除いた自然物 ──虫の亡骸や木のみ、きのこ、樹皮など──がまるで標本のように規則正しく並べられている。これらが並べられることによって、「こんなものが落ちているんだ」という発見があったり、「これは何?」という疑問が浮かんだり、数センチに満たない小さな生き物の世界への関心が広がる。
作者の細野さんは「管理された美しい自然をいつでも鑑賞できる『庭園』を作り出すために日々自然とやりとりしている庭師さんの手仕事と、その庭の中にある自然物の多様性を表現するための体験装置として今回標本を作ることにしました。よく見ると去年のセミの死骸の一部が残っていたり、虫によって精工にあけられた穴があったり、一つひとつよく見ていくと自然の美しさが感じられます。ぼんやりと、ずっと見ていられる美しさがあります」と語る。
小さくてもそこには確かに命があり、それぞれに生きていた証を見るにつれ、愛おしく、美しく思えてくる。普段は見えていないけれど、こんな世界もあるんだ、と発見する機会を投げかけてくる作品だ。
庭師・アーティストそれぞれの反応
今回の取り組みは庭師、アーティストの方にそれぞれどんな変化をもたらしたのだろうか。
庭師の太田陽介さんは「庭師の仕事を、(一般の方に)見えやすく、感じやすくアートに置き換えてもらったのに感動しました。庭師は、常に命と向き合う仕事です。また、庭を美しく整えるために、葉や枝などせっかく芽吹いたものを除去しなければならない仕事でもあります。
『本当はこうしたい』と思っていても、『美しい』とされている庭を守るためにはできないこともあるのです」「そうした葛藤を『能』で表現してもらったり(作品名『謡曲「おとずれの樹』)、『美しい』庭を守るために取り除かなければならなかったものをまとめて表現(作品名『取り除かれた自然物の標本』)していただいたりして、報われたような気分です。いなくなった生き物たちも報われるのかなと思い、やさしい気持ちになりました」と語っている。
『謡曲「おとずれの樹」』という、古典芸能「能楽」をモチーフにした台本形式の文芸作品を制作した佐伯圭介さんは「庭師の仕事を追体験することで、庭園内に限らず、その時々でいかに自分にとって都合のいいものしか見えていないか、自分の視点の限定性みたいなものに向き合えました。また、それを自ら認めたときに、いつもより視点をしなやかに移動できる感覚を身体的に経験できたことは大きな変化でした。その経験が庭師や植物といった”わたし”以外の存在に主語をズラす作品づくりに繋がったと思います。」と庭師の仕事の追体験、そして作品づくりを通して生まれた自身の変化について語った。
アートを通じて、自分の仕事の良さや葛藤が昇華された庭師。そして、作品づくりを通して庭師側の思いや感覚を自分ごとにしたアーティスト。両者の言葉からはこの試みがなければ交わることのなかったであろう、感覚の交差があったことが感じられる。
今回だけで何かが変わるわけではないが、続けていくことで、新たな「美しさ」「庭」が生まれることになるかもしれない。「またぜひやってみたい」。庭師の太田さんのこの言葉に今後の可能性を感じた。
アートから視る、新たな生物多様性の捉え方
生物多様性保全への機運は、ますます世界的に高まっている。生物多様性の保全をはかるときに何より不可欠なのは、生物を大切に思う気持ちだと筆者は考える。そのためには、『沈黙の春』の著書で知られる生物学者、レイチェル・カーソンが提唱した自然を感じる心「Sense of wonder」が欠かせない。
しかし、人工的なものに囲まれた現代人が自然を感じることには難しさもある。生物多様性に限らず、環境問題は得てして「こうあるべき」という「べき論」で語られがちだが、アートといった「美しさ」を起点にすることで、多様な答えを生み出し、解決に向けた新たな糸口が生まれる可能性を感じた。
実際、今回の作品はいずれも「美しい?」「あなたにはどう見える?」「面白くない?」と語りかけてくるようだった。時として自分が持っている価値観や持論を揺さぶるような感覚さえあったと感じる。
アートを通じて意図的に自然と向き合い、投げかけられた問いに答える。そこには決まった答えはなく、さまざまな答えがありうる。その結果、たとえば「これからの庭はこうあるべきだ」「いや、それは伝統を崩す」そんな二項対立になりがちな議論が溶けていくのではないかそんな可能性を感じた。
まずは、生物多様性を大切にした庭の美しさの提案を感じるところから。共感も違和感も含めて、その感覚を次につなげていくことが、アートだからこそできる生物多様性保全なのではないだろうか。